第3話 マーガレット咲き誇る野原にて
レストランでのデートから、1年が過ぎようとしている。
その間にアンドレアスは、デル飛空艇工房で働きながら、論文を書き上げた。
『導輪、導管ならびに翼面の材質、形状が、空力の伝達効率に与える影響に関する考察』
その論文の謝辞の筆頭には、エステバン・デルの名が掲げられ、デル飛空艇工房の技師たち——マノロ、ぺぺ、パンチョの名前も載っていた。
論文の写しを献本されたエステバンは、マントルピースの上に飾って、来客があるたびに自慢げに見せている……というのは、レナータが内緒で教えてくれた話だ。
3月に提出したその論文は、無事に審査を通過し、アンドレアスの6月の大学卒業が確定した。
以前から希望していたとおり、飛空士候補として、郵政公社に任官することも決まっていた。
最終的な任地が決まるのは、訓練を終えて正式に飛空士になった後のことになる。
まずは9月から、訓練地でもある、港町モンテ・リマルに行くことだけが決まっていた。
同期の学生たちはみな、早めの夏休みに入って羽を伸ばしている。
だがアンドレアスは、毎日デル飛空艇工房に通い詰め、以前にも増して忙しい日々を過ごしていた。
バルデナールを旅立つ前に、しなければいけないことが、あるのだ。
◇
5月。
いよいよ、デル飛空艇工房が自主開発してきた、超軽量の複座飛空艇 ”モデロ2”の、初飛行の日がやってきた。
モデロ2は、単座の超軽量飛空機”モデロ1”に乗りたい人が、飛空艇の操作を学ぶ練習機として開発された。
この日、前席にはアンドレアスが、後席には、かつて軍で飛空士を目指していたこともあるぺぺがついた。
ふたりとも、もともと空力は大きく、デル飛空艇工房で修理した機体を、試験飛行として散々飛ばしてきた。
飛空経験は十分だ。
なんとしても、この初飛行は成功させたい。
今日ここで成功させないと、もう、あの予定に間に合わない。
◆
心配しないで、と、アンドレアスさんには何度も言われている。
彼を信じているし、疑いたくもない。
父も、母も、大丈夫だよと言ってくれる。
だから、何も心配はいらないんだ、とわかってはいるのだけれど。
でも、9月にはモンテ・リマルに行ってしまうと聞けば、やっぱり不安になる。
母親と、モンテ・リマルに新しくできたばかりのデパルトマンにやってきても、レナータはずっと心ここにあらずといった様子だった。
「レナータ? レナータ、聞いてるの?」
「……え? あ、ごめんなさい。
ちょっと、考え事していて……」
「もうしっかりしてちょうだい。
あなたの新しいドレスをつくるのに、採寸してもらいましょう、っていう話よ。
あなたが採寸しているあいだに、ママ、用事を済ませてきますからね。
いいわね?」
「わたし、ドレスなんていらない……」
「何を言ってるのよ、この子は。
一生に一度のことでしょう?
パパとママに、素敵なドレス姿、見せてちょうだい。
あ、でも店員さん。式が終わったら、ちょっと染めて、おしゃれ着にしますからね。
そういうドレスを、娘にすすめてやってちょうだいね?」
ママは、またお式の話をしている。
まだ、何にも決まってないのに。
このあいだアンドレアスさんは、モンテ・リマルで住む部屋の話をしてくれた。
ちょっと狭いけど、正式に飛空士になって任地が決まったら、もっと広い部屋に引っ越すからね……
そう、アンドレアスさんは言っていた。
そのお部屋に、私は暮らすことができるのかしら……
それともずっと、デル工房に、今のおうちにいるのかも……
◆
アンドレアスさんが、迎えに来てくれた。
今日は、動きやすい服で来てくださいね。
そう言われていたから、このあいだデパルトマンで買った、パンツスーツを初めて着てみた。
動きやすい。
でも、変な感じ。
たくさんお洋服を買った。
新しい家具も。お料理道具も。アイロンも、お掃除道具も。
でもこちらからモンテ・リマルへ送るのは大変だから、9月になってから、デパルトマンのモンテ・リマルのお店から、新居に届けてくれるらしい。
私、9月はどこにいるのかな?
本当に、モンテ・リマルに、行けるのかな?
カバルタの後ろに乗って、アンドレアスさんの背中にそっと頬を当ててみる。
あたたかい。
ホッとする。
ずっと、この方と一緒にいたい。
安心したい。
大丈夫って、思いたい。
カバルタが止まった。
ああ、素敵な時間が終わっちゃった。
「レナータさん、こっちへ……」
マーガレットの花が咲き誇る野原に、小さな飛空艇がたたずんでいた。
パパがみんなと一生懸命作っていた、新しい飛空艇だ……
「乗って、みませんか?」
「いいんですか?」
「もちろん」
アンドレアスさんが手を取って、飛空艇へと導いてくれた。
初めてデートした日のことを思い出した。
アンドレアスさんが、私をオープンカーへエスコートしてくれた、あの日のことを。
操縦席はちょっと高くて、タラップを3段ぐらい上って、そこから機体をまたいで乗る仕組み。
だから、動きやすい服で、っておっしゃったのね。
アンドレアスさんに教えてもらいながら、操縦席に身を沈めた。
少し高い操縦席から、マーガレットの花畑が綺麗に見える。
「じゃあ、僕は後ろの席に乗りますね」
いつもカバルタに乗るときは、アンドレアスさんが前で、私が後ろ。
だから、今日はいつもと逆ね。
『レナータさん、聞こえますか?』
操縦席の脇についている、ラッパの先端のようなところからアンドレアスさんの声が聞こえた。
「はい、聞こえます」
『レナータさん。飛空艇、操縦してみましょう』
「え? だって、私は……」
『大丈夫。 両側にある輪っかを、軽く持ってください』
「はい……」
『準備ができたら、頭の中でイメージするんです。
機体が、ふわっと浮かぶ様子を』
「はい……」
一生懸命、この機体が空に浮かぶ様子を頭の中に思い浮かべた。
『いいですね。
じゃあ、そのイメージを両手に伝えて……
自分の中から、手を通って、空に浮かぶイメージが流れ出ていくのを想像して』
言われたとおり、ふわっと空に浮かぶイメージが、両手に握った輪っかへ流れ出ていく様子を思い浮かべた。
輪っかが、ブルンと震えた。
「きゃっ」
『大丈夫ですよ。
飛びたいっていうレナータさんの気持ちに、機体が反応してるんです。
落ち着いて、ずっと、空に浮かぶイメージをひたすら導輪に流し込んでください』
このお花畑を、空の上から眺めてみたい……
そう思って、導輪を強く握りしめた。
私の思いに応えるように、導輪の振動が大きくなっていく。
『もう少し……
あと少しで、浮かびますよ。
さあ、飛びましょう。
レナータさんの力で。
空高く。
舞い上がりましょう。
いいですか?
グッと導輪を握りしめた。
その瞬間、機体がふわっと浮かび上がった。
「わあっ! すごい!
すごいわっ! 飛んでる!
私、飛んでるっ!」
『もっと高く飛べますよ。
大空へ舞い上がっていく自分をイメージして。導輪へ伝えてください』
「はいっ! もっと、高くっ!」
機体が、グワッと頭をもたげて力強く空へと登っていく。
上から見下ろす、色とりどりのマーガレットの咲き誇る野原は、まるでカラフルな絨毯のようだった。
遠く向こうには川が流れ、緩やかな丘が連なるルラヴィアの穀倉地帯が眼下に広がっている。
「きれい……」
『レナータさん、上手ですよ!
すごいすごい!』
本当に、自分の力で飛んでいるみたいだった。
『じゃあ、今度は右の翼を上に、左の翼を下に押すイメージを。
導輪に流し込んでみて』
「はいっ……
いい、ですか?」
『いつでもどうぞ?』
言われたとおり、右の翼が上がって、左の翼が下がるのをイメージした。
『うわあ!』
機体が大きく左に傾き、旋回を始めた。
『レナータさん!
どうぞ自由に飛んでください。
大丈夫。
レナータさんなら、できますよ』
知ってる。
後ろの席で、アンドレアスさんがこの機体を操ってくれているんだって。
でも、なんだか本当に私が機体を操っているみたいで、
空は本当に気持ちよくて、
本当に幸せな時間が、そこにはあって……
いつまでも、ずっと、このままでいたい。
そのとき、私は、心の底からそう思っていた。
◆
約束の時間がやってきて、アンドレアスさんが私をゆっくり地上へ降ろしてくれた。
「アンドレアスさん! ありがとう!
私、まだ夢を見てるみたい……
なんだか、本当に自分で機体を浮かせて飛んでいたみたいな……
すごく、幸せな時間でした!」
「レナータさんが喜んでくれて、よかった。
マーガレットの時期に間に合わないんじゃないかと思って、諦めかけたこともあったんですけどね。
みんなで頑張った甲斐がありました」
「そうだったんですね……
空から見るマーガレット、とっても素敵でした」
「いつかまた、こっちへ帰ってきたら一緒に飛びましょう。
モンテ・リマルの近くには、こんなにすごいマーガレットの花畑はなさそうなのでね。
レナータさんがあっちへ行ってしまったら、当分見納めです」
「あの……
私も、モンテ・リマルへ行っていいのですか?」
「え?
あ、当たり前じゃないですか!
ここまで来て、一緒に来てくださらないとか、言わないですよね?
そんなこと言われたら、俺、ショックで寝込みますよ?」
もう! なんだよ! バカッ!
そうならそうって、早く言えよぉ!!
ずっと、ずっと不安だったんだぞ!
その日、私がちょっと不機嫌になって少しだけ泣いた理由を、アンドレアスさんは多分、きっと、知らないままだ。
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