第10話 ダークヒーローよ、もう一度.2
春休みを目前に控えたある日、僕はとうとう樹にまで叱られてしまった。
「ねぇ、最近さ、私の話聞いてないよね」
図星を突かれた僕は、一瞬だけ誤魔化そうかと思った。そして、樹にまでそう思った自分を情けなく感じ、作り笑いを消して俯き、やがて小さく頷いた。
「ごめん」
近頃は相手の目を見て謝ることすらできなくなった。なつかしい、あの頃の自分を思い出す。いや、なつかしいも何も、これが本当の自分かと自嘲する。
樹は僕の謝罪を受けてもなお、強張った表情を崩さなかった。彼女が言いたかった言葉は、そのうち、放課後が来て、校舎を出てからようやく放たれた。
「…元気ない」
はっとして、隣を…少し斜め後ろを歩いていた樹の顔を見やる。
「大丈夫?」
心配してそう尋ねれば、彼女はぐわっと顔を上げた。
「私がじゃなくて、晶が」
ちょっとだけムッとした口調に、僕はたじろぐ。どんなときだって温厚な態度を崩さぬ樹らしくない話し方だったからだ。
困惑しながらも、僕は問い返す。
「私が…?」
「うん。話しかけても上の空だし、いつも地面とにらめっこしてる。昔はあんなに堂々と前を向いてたのに」
昔は、という表現に違和感を覚えて、皮肉っぽい笑いがこぼれる。
昔といっても樹の知っている僕は、せいぜい一年程度の僕だ。そんな短い付き合いのなかではしっくりこない表現であった。
とはいえ、心配してくれたらしいことは鈍い僕にも伝わってきた。だからこそ、僕は負け犬じみた顔で謝った。
「ごめん」
「謝ってばっかり。晶らしくないよ」
「あ、いや…ごめん、でも、このほうが、本当の私っていうか…」
「本当の私?」
「うん。『昔の私』はこうだったんだ。いつだって自信がなくて、言いたいことの何一つ言えなくて、臆病で、顔も上げられなくて、それから――」
「ストップ、ストップ!」
鬱々とした気分が這いよってきて言葉が止まらなくなった僕を、樹が両手を前に突き出して止める。
「ごめん!謝ってほしかったわけじゃないの。ただ、心配になっちゃって…」
「そう…」
樹にまで心配をかけて、こんな顔をさせてしまっている。その事実に、また僕は俯く。
僕らときたら、せっかく桜並木を歩いているというのに、顔も上げず、アスファルトを見つめるばかり。
敷き詰められた白と桃色の花びらの絨毯は、今の僕らにとっては虫の死骸となんら変わりはない。
気持ち一つで世界はこんなにも変わってしまう…。
残酷なことだと僕は思った。
「最近、北宿さんのほう見ないよね」と樹は下を向いたままで尋ねた。「なにかあったの?」
勘が鋭い人だ。しかし、無遠慮に傷へと触れられた僕は、やり場のない苛立ちを抱えることになった。
樹に関係はない、と頭では思った。それを口にしなかったのは、優しさや気遣いからではない。それを口にする気力がなかっただけだ。
しばらく、無言で歩いた。何も考えたくなかった。
ふと、僕はもう、樹と分かれる地点を過ぎていたことに気付く。しかしながら、彼女は未だ隣を歩いている。
彼女も僕と同じようにうっかりしてしまっているのだと思った。なにぶん、さっきから下ばかり向いて歩いているから。
「樹、道、こっちじゃないよ」
「分かってるよ」でも、と彼女は面を上げる。「晶が、何も言わないままだから…」
あぁ、と僕は足を止める。
これじゃあ、あんまりだ。
あまりにも、樹の気遣いが報われない。
「ごめん」と今一度謝罪を口にしながら、僕は樹のほうを向き直った。それでようやく、彼女と目が合った。
あふれんばかりの善意と友愛、そして、少しばかりの不満が、樹の瞳の中で渦を巻いている。
人を人たらしめる感情の水面を覗き込んだ僕は、こんなものまで見えなくなっていたのか、と肩を落として自分を愚かに思った。
「なにかあった…と言えば、なにかあったんだろうね」
あえて遠回しな表現をしてみせた僕は、もったいぶるようにのったりとした歩調で道を戻ってから、途中の公園に足を踏み入れた。
人のまるでいない、小さな公園だ。遊具らしきものはないし、鉄棒みたいな物体は錆びてしまっていて、もはや初めの色が何色かも分からなくなっている。
僕は、その鉄棒に手をかけて立った。樹もそうしようとしたが、錆で汚れていることに気がついてやめた。
朽ちていく文明を思わせる赤錆が、僕の両手の掌に色移りする。ブリキの人形みたいに、上手く動けなくなったらどうしようか。
やがて僕は、今の自分は以前のように自分の在り方を信じられなくなっているのだと樹に説明した。
それに至る理由を語ることは避けた。どうしても、雪姫や樹の名前を出さなければならなかったし、本当の問題はそこじゃない気がしたからだ。
そうだ。これは、雪姫や樹に問題があることじゃない。
全ては僕のなかで生じている問題だ。
樹は僕の話を聞き終わると、しばらく沈黙して夕焼けが忍び寄りつつある空を仰いだ。
風が彼女の頬を撫で、ふんわりとしている髪を揺らす。
「やっぱり、晶に『私』なんて似合わないよ」
脈絡のない発言に思えた言葉も、今の僕にはそれが何を意味するか容易に分かった。それと同時に、やはり樹がその一件を気にしていたんだということも分かった。
「でも、これは私が望んだ結果なんだよ」と弱々しく吐き出せば、キッ、と凛とした面持ちになった樹が首を横に振る。
「本当に、晶が望んだことなの?」
「…うん。私は、友だちが欲しい。恋人だって、欲しいと思った。そのために変人扱いされるような『僕』が邪魔になるなら…しょうがないんじゃないかなぁ」
「それは違うよ」
言の刃で、樹が僕の言葉を一刀両断する。
「友だちとか恋人が欲しいことと、自分のことくらい好きに呼ぶことがどう関係するの?」
「それは…」
僕は言葉を失って視線を下げた。すると、偶然にも樹の手が視界に入ってきた。
彼女の手は小刻みに揺れていた。
一瞬、怒りの表れかと思ったが、そうではないことくらい、神田樹のことを知っていれば分かる。
樹がこらえているのは、怒りではなく、不安や恐怖だ。
勇気を両手の拳に握りしめて、僕に言葉をぶつけている。もしかしたら、嫌われる覚悟すらしているのかもしれない。
「私は…っ」
言葉を詰まらせたような声に、僕は顔を上げた。
樹の瞳は真珠をまとい、キラキラと輝いていた。彼女が涙すらもこらえているのだと気づくのには、我ながら呆れることに、十秒以上は必要だった。
「私は、自分のことを『僕』って呼んでるときの晶のこと、かっこいいって思ったよ。変なふうに思われたって、堂々として、自分を曲げない晶のこと、好きになったよ…!」
とうとう、樹の瞳からは涙が溢れ出した。決壊したダムを思わせる、止めどない流れを見ていると、自然と目頭が熱くなった。
一歩、二歩と樹に近寄る。
すでに、その距離は一メートル…数十センチ。
ゆっくりと、彼女の震える肩に手を伸ばすも、樹はそれを拒むように首を左右に振りつつ一歩後退した。
僕自身が樹の気持ちを受け入れられないと言ってみせたくせに、無責任にも彼女に触れようとしていた。その事実が、僕の厚顔無恥さを示しているようで、ぎりっ、と歯を食いしばる。
「…私は、どうしたらいいのだろう。どうするのが正解なんだろう…」
自分で発しておきながら、なんとも情けのない言葉の数々だった。それを涙を流し続ける樹の前で言えるのがまた、酷い醜態に思える。
樹は僕が口にした、救いを求める言葉にも優しく、慈悲深く頷いてみせた。
「晶はどうしたいの?」
「私は…分からない。自分がどう在ることができれば、自分に相応しいのか。自分で決める勇気が…今の私にはないんだと思う。それが、きっと死ぬほど悔しい」
「そっか」
ゆっくりとはにかんで答える樹。時折、樹は同い年とは思えないほどの包容力をその小柄な身体にまとうときがあった。
「だったら、また会いに行けばいいんじゃないかな?」
「会う?」僕は樹の提案の意図が読み取れず、顔をしかめる。「会うって、誰に?」
雪姫のことを察して口にしているのだろうか。しかし、だとしたらあまり効果的な作戦とは思えない。今の彼女は、落ちぶれた僕と言葉を交わすことに拒絶的に思えたからだ。
僕が不思議そうに投げた問いを聞いて、樹はなにがおかしいのか、涙を拭きながらコロコロと笑う。
まるで子どもみたいな泣き笑いだ。大人びているようで、童女のような一面も持つのは樹の魅力の一つであった。
樹は呆気に取られるばかりの僕の前に移動してくると、赤錆びた手を握り、自分の胸の前まで持ってきて、それから、祈るように瞳を閉じて言った。
「――晶、貴方のヒーローにだよ」
帰宅後、手早く夕食やお風呂を済ませた僕は、いつでも眠れる準備をしてからテレビの前に腰を下ろした。
テレビ台の下部の棚には、さっきまで埃まみれだった旧式のゲームハード。
据え置き機として名を轟かせたこのゲーム機も、時の流れに飲まれてしまったわけだが、あの頃の眩しくも激しい記憶は今もしっかり頭に残っていた。
ゲーム機本体と共に用意していたソフトのパッケージを開ける。懐かしの説明書と、そこに描かれたキャラクターに、胸が締め付けられる郷愁の念が去来する。
「懐かしいな…もう、十年近く前だ…」
丁寧にディスク型のソフトを取り出し、中心の穴に指を入れる。その姿勢のままで、僕はゲーム機の電源を入れた。
ピッ、と高い電子音が鳴って、起動プロセスが始まる。
「…動いてくれよ…」
ディスクをスロットに挿入すれば、全く問題なくゲームは起動した。
すぐに、オープニングが流れ始めた。
時も忘れて、僕は魅入っていた。
流れるメロディ、シーン、キャラクター、モンスター、暗示されたストーリー…。
意識せずとも勝手に頭が思い出す。夢中でそれらを楽しんだ日々を。
始まりの村も、ボス戦で苦戦した洞窟も、小さな頃には理解できなかった心理描写とその重みも、ラストシーンの筆舌し難い感動と、物語の終わりが生み出す喪失感も…それらの全てが一気に僕の中に入ってきて、鳥肌が立った。
僕のヒーロー…と言われれば、やはりこれだ。この作品だ。
剣と魔法のファンタジー。パッケージには主人公たちの後ろに小さく、僕が大好きだったダークヒーローの姿が描かれている。
僕はなぜか緊張した心持ちでごくり、と喉を鳴らし、それから慎重にコントローラーを握った。
SEの懐かしさがいちいち心をざわめかせる。それを抑えながら、『ロード』を選択する。すぐにセーブデータの列が並んだため、お目当てのものを探した。
「あった…これ、多分、あの場面の…」
探しものは簡単に見つかった。
僕は震える指先でそのセーブデータを選択した。
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