第一章:玉座の雲、民の塵 ~虚構の繁栄と穢れゆく魂~

 新京の空は、いつも灰色だった。


 リン・メイリンは、蒼穹の塔の四十二階にある自分のデスクに座り、窓の外を眺めていた。高層ビル群の向こうに、天帝官邸の金色の屋根が見える。その威容は、たとえ曇天の下でも圧倒的な存在感を放っていた。


 彼女は視線を手元のモニターに戻した。画面には、蓬莱連邦共和国第三四半期の経済成長率が表示されている。公式発表では七・二パーセント。しかし、彼女の手元にある生のデータは、を示していた。


「また、か」


 メイリンは溜息をついた。彼女の仕事は、この数字を調ことだった。天帝官邸直属の国家戦略院上級分析官――肩書は立派だが、実態は国家規模の粉飾決算の実行犯に過ぎない。


 彼女は数式を操作し、計算式を書き換え、グラフの傾きを調整していく。三十分後、モニターに表示された数字は、見事に七・二パーセントを示していた。


「完璧ね」


 メイリンは自嘲的に呟いた。この「完璧」な虚構が、明日には天帝の執務机に届き、国営放送で発表され、国民は「蓬莱の繁栄」を信じ込まされる。


 彼女は二十八歳になったばかりだった。六年前、首都の名門大学を首席で卒業し、国家戦略院に配属された時、彼女の胸には純粋な希望があった。祖国を豊かにしたい。民の暮らしを良くしたい。学んだ経済理論を実践に活かしたい。


 しかし現実は、理想とはかけ離れていた。


 デスクの引き出しを開けると、そこには今朝届いた嘆願書の束が入っていた。メイリンはその一つを手に取り、読み始めた。


 『天帝陛下、どうか我が村に医師を派遣してください。子供たちが疫病で次々と倒れています。伝統医療の漢方薬も手に入りません。どうか、どうか……』


 文字は震えていた。書いた者の絶望が、紙を通して伝わってくる。


 メイリンの脳裏に、故郷の弟の顔が浮かんだ。リン・ジュンハオ、今年二十歳。地方の大学で工学を学んでいる真面目な青年だ。もし弟が、このような村で病に倒れたら――考えただけで胸が締め付けられる。


 しかし、メイリンはその嘆願書を他の束と一緒にシュレッダーにかけた。規定では、こうした「天帝の治世を乱す不穏な情報」は即座に破棄することになっている。


 機械が紙を噛み砕く音が、彼女の心臓を締め付けた。


「私は何をしているんだ」


 メイリンは両手で顔を覆った。魂が少しずつ穢されていく感覚。かつて抱いていた理想が、遠くに霞んでいく感覚。それは、毎日少しずつ、確実に彼女を蝕んでいた。


 しかし、彼女に選択肢はなかった。この仕事を辞めれば、故郷の家族に累が及ぶ。この国では、体制に逆らう者は三親等まで罰せられる。弟はまだ大学生で、両親は年老いている。特にジュンハオには、明るい未来を歩んでほしかった。彼女が守らなければ。


 そう自分に言い聞かせて、メイリンは今日も虚構の数字を作り続ける。


---


 その日の夕方、メイリンは雲上モノレールに乗って帰路についていた。


 新京の交通の要である雲上モノレールは、建国十周年を記念して建設された。天帝の演説では「蓬莱の技術力の結晶」と称賛されていたが、実際は外国からの技術援助で作られたものだった。そしてその建設費の大半は、不正に流用されていた。メイリンは、その事実を示す報告書も処理したことがある。


 車窓から見える街は、公式発表の「繁栄」とはかけ離れていた。ビルの明かりは半分も点いていない。電力供給が不安定なのだ。裏路地では、配給品が闇市で売買されている。公定価格の数十倍の値段で。


 人々の顔には、諦めと疲労が刻まれていた。彼らは「天命」という言葉に縛られ、口に出さない不満を心の奥底に沈めている。


 モノレールが突然停止した。また停電だ。乗客たちは文句一つ言わず、じっと再開を待った。文句を言えば、それが


 メイリンは、窓に映る自分の顔を見た。かつて希望に満ちていた瞳は、今では虚ろだった。


---


 メイリンが最も目を背けたいのは、監察府の「仕事」だった。


 先月、彼女のデスクに一冊のファイルが紛れ込んできた。本来は彼女の階級では閲覧できない、最高機密レベルの文書だった。誰かのミスだろう。


 そこには、西部の少数民族居住区における「思想浄化プログラム」の詳細が記されていた。


 再教育施設では、子供たちが親から引き離されていた。彼らの母語の使用は禁じられ、一日中、天帝への賛歌を歌わされる。従わない者には食事が与えられず、暗い独房に何日も閉じ込められる。


 ある少女は、母語で祈りを唱えたという理由で、三日間水も与えられなかった。彼女は七歳だった。


 メイリンは、そのページを読んだ瞬間、吐き気を催した。トイレに駆け込み、胃の中のものを全て吐き出した。


 しかし、翌日、上司の部長がそのファイルを回収しに来た。


「これは国家統一のための必要な措置だ、リン分析官。我々の祖先も、かつて同じことをしてきた。秩序を保つには、時に厳しさが必要なのだ」


 部長は、まるで天気の話をするように淡々と言った。


 ファイルは、メイリンの目の前でシュレッダーにかけられた。


---


 新京の中央広場では、月に一度「裏切り者の断罪式」が行われていた。


 メイリンは、一度だけその光景を目撃したことがある。避けて通ろうとしたが、監察府の職員に呼び止められ、「市民の義務」として参加を強制された。


 壇上には、家族もろとも引き出された「反逆者」たちが立たされていた。罪状が読み上げられる。体制批判の文書を書いた。外国の放送を視聴した。天帝の肖像画を汚した。


 群衆は強制的に集められ、「死刑! 死刑!」と叫ぶよう指示された。叫ばない者は、監察府の職員がリストに記録していく。


 処刑は、伝統的な五馬分尸の現代版だった。機械が囚人の四肢を掴み、ゆっくりと引っ張る。囚人の悲鳴が広場に響き渡る。


 メイリンは、その夜眠れなかった。閉じた瞼の裏に、あの光景が焼き付いて離れない。


 さらに恐ろしいのは連座制だった。一人の罪は三親等まで及ぶ。幼い子供でさえ「反逆者の血族」として労働収容所に送られる。


 メイリンの同僚の一人、チェン・ファという若い女性が、ある日突然姿を消した。遠い親戚が体制批判の罪で処刑され、連座したのだという。


 彼女のデスクは、その日のうちに撤去された。まるで最初からそこに誰もいなかったかのように。


 メイリンは、その空いたスペースを見るたびに、背筋が凍った。明日は我が身かもしれない。そして、弟も、両親も……


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 そして、もう一つの悪夢があった。ワン・ロンだ。


 天帝の息子、ワン・ロンは、特命補佐官という肩書を持っていたが、実際は権威を笠に着た遊び人だった。彼の周りには、常に腐敗と汚職の臭いが漂っていた。


 ロンは、メイリンに執拗な関心を寄せていた。


「リン分析官、今夜食事でもどうだ? 優秀な君を、もっと近くで見たいんだ」


 廊下ですれ違うたびに、彼は声をかけてくる。その視線は、メイリンの能力ではなく、身体を舐め回すようなものだった。


「申し訳ございません、補佐官。今夜は先約がありまして」


 メイリンは、できる限り丁寧に断り続けていた。しかし、ロンの誘いは日に日に執拗さを増している。


「君は分かっていないようだな。私の誘いを断り続けるということが、どういう意味を持つか」


 ある日、ロンは彼女を壁際に追い詰めて囁いた。


「君の家族は、確か地方都市に住んでいたね。弟は大学生だったか。優秀な子らしいが、もし何か……不幸なことがあったら、残念だな」


 メイリンの血が凍った。これは脅迫だ。しかし、彼女には抗う術がない。


「少し、考えさせていただけますか」


 メイリンは、屈辱に震えながら答えた。


 ロンは満足げに笑い、彼女の頬を撫でた。


「良い子だ。期待しているよ」


 その夜、メイリンは部屋で一人泣いた。悔しさと、無力感と、そして抗えない運命への諦めに打ちのめされながら。


---


 一方、天帝官邸の最上階では、ワン・ユーロンが一人執務室にいた。


 五十三歳の天帝は、今なお精悍な体躯を保っていた。武術「瀧龍拳」の達人として知られる彼は、毎朝二時間の鍛錬を欠かさない。その姿は、国民に畏怖と盲信を抱かせていた。


 巨大なプロパガンダ機構は、彼を神格化し続けている。天帝の言葉は絶対であり、天帝の意志こそが国家の意志だと。


 しかし、深夜、一人になったとき、ユーロンは自身の築き上げた体制の「澱み」を感じていた。


 彼は、古い『天帝録』を手に取った。少年の頃、崩壊した寺で見つけたあの書物だ。三十年以上、彼はこの書を手放さずにいた。


 ページを開くと、理想の統治について記されている。


 『天帝は民の父母なり。民を愛し、民を導き、民と共に在るべし』


 ユーロンは、苦い笑みを浮かべた。


「民と共に在る、か」


 彼は窓の外を見た。遥か下方に広がる新京の街。そこに住む億を超える民。


 彼は、彼らと最後に触れ合ったのはいつだっただろうか。街を歩いたのは? 普通の家庭を訪れたのは?


 全て、十年以上前のことだ。今の彼は、厳重な警備に囲まれ、官邸と会議室を往復するだけの存在になっていた。


 報告書は全て、部下たちによって「適切に調整」されている。彼の耳に入るのは、良いニュースばかりだ。経済成長、治安向上、国民の満足度上昇。


 しかし、時折、彼の脳裏に浮かぶのは、少年時代に見た光景だった。


 飢えた子供たちの目。


 焼け焦げた村。


 無力な指導者たちへの憤り。


「私は……あの時誓ったはずだ。二度と、そんな世界を作らないと」


 ユーロンは呟いた。


 しかし、彼が作った国は、本当にあの誓いを果たしているのだろうか。


 その疑問が浮かぶと、彼は即座に打ち消した。


「いや、これでいいのだ。秩序こそが全てだ。多少の犠牲は、より大きな善のために必要なのだ」


 彼は机の上のボタンを押した。監察府の長官への直通回線だ。


「思想統制を、より徹底せよ。不穏分子は一人残らず排除しろ」


 矛盾を力で押さえつける。それが、彼の「秩序」だった。


 そして彼は、自分がかつての無力な指導者たちと何が違うのか、考えることを拒否した。


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