第1話 天幕の下


空が、在った。


それはただの空ではない。

まるで、天そのものが張り詰めた水でできているかのようだった。

どこまでも澄み切り、雲ひとつなく、蒼が大地を覆い尽くしている。

この世界には、現代の空に漂う煤(すす)も排気も、何ひとつ存在しない。

汚れなき蒼穹――それは“上の水”が、いまだ破られていない証だった。


ヒュウウウ……ザアア……


風が鳴いた。

それは音ではなく、岩山の骨を伝い、砂を撫でるような気配のようでもあった。


岩が立ち、裂け、屹立していた。

それらはまるで、地を支える神の背骨であり、沈黙する長老のように風を受け止めていた。

命の気配は、ない。

いや、生まれる前の静けさが、ここにはあった。


その荒野を、一人の男が歩いていた。


ザリ……ザリ……


革製のサンダルが乾いた土を擦り、音を立てる。

長衣の裾が風に揺れ、腰の革袋が小さく鳴った。

彼の名は、シン。

彼の姿は、この風景にとってあまりに異質だった。

だが、異物である彼だけが、唯一、ここに生きた人間の存在を示していた。


その足が、ふと止まる。


何かを、見た。


杭だった。


いや――串刺しにされた**骸(むくろ)**だった。


風にさらされ、皮膚は干からび、骨は白くむき出し、空ろな眼窩はなお空を仰いでいた。


瞬間、シンの喉がひくりと動いた。

呼吸が一瞬、止まった。


表情は変わらない。

だが、視線が揺れる。

胃の底に、鈍く冷たいものが広がっていく。


(……なんや、これ……)


無意識に、一歩、後ずさる。

その足裏が「ザク」と石を踏み砕いた。

その音がやけに大きく、空に響いた気がした。


* * *

杭は一本だけではなかった。

視線をずらすと、あちこちに、同じような杭が地面から突き出していた。

骸が刺さったままのものもあれば、風に砕けて朽ちたものもある。


(見せしめ……や。儀式か……?)


背筋がぞわりと冷える。

この世界には、死が自然の一部として立っている。

そしてそれは、黙して語らずとも、明らかに“誰かの意志”によって並べられていた。


杭の根元に、ひときわ黒ずんだ石碑があった。

煤け、ひび割れた石。

だが、その中央には、まるで血が染みついたような深紅の文字が刻まれていた。


בַּעַל מֶלֶךְ הָאָרֶץ הַזֹּאת.

כָּל־הַמִּתְקוֹמֵם יִשָּׁמֵד בִּשְׁמוֹ.

הָאָרֶץ הַזֹּאת נִקְדְּשָׁה וְנִקְלְלָה.

אִם־תִּדְרֹךְ רַגְלְךָ עַל־הָאֲדָמָה הַזֹּאת,

דָּמְךָ יִהְיֶה קָרוֹב לֵאלֹהִים, וְנַפְשְׁךָ תִּשְׁטֹט לְעוֹלָם.

אַל־תִּקְרַב אֶל־הַמִּקְדָּשׁ.

כִּי לֵאלֹהִים הוּא, אַל־תְּחַלְּלֶנּוּ.


なぜか、読めた。

見覚えも学んだこともないはずの文字が、意味を結んで頭に流れ込んできた。


訳:

バアルはこの地の王である。

逆らう者はみな、その名において滅ぼされる。

この土地は聖とされ、また呪われている。

汝の足がこの土を踏むならば、

汝の血は神に捧げられ、魂は永遠に彷徨う。

聖所に近づくなかれ。

これは神のものなり、侵すべからず。


ゴオオオ……ザアア……ヒュウウ……ッ


風が唸るように鳴き、杭を揺らした。

砂が巻き上がり、シンの視界を曇らせる。


それでも、空は澄んでいた。

蒼く、広く、張り詰めていた。

上の水はいまだ破れず、裁きの時も訪れていない。


シンはその空を、しばし見上げた。

骸たちと同じように。


そして、ぽつりと、呟いた。


「……これが、命の使い道か」


誰に言ったわけでもない。

けれども、声は風に吸い込まれ、杭の列にこだますることなく消えていった。


沈黙が、返事の代わりだった。


シンはその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

目の前の骸、石碑、空、風――

すべてがあまりに現実離れしていて、同時に恐ろしいほど真に迫っていた。


蒼穹はまだ裂けていない。

けれど、何かが始まりつつある――そう感じていた。


胃の奥が冷たく締めつけられる。

喉は乾いているのに、飲み込む力が湧いてこない。

皮膚の表面に、じわりと汗が浮かんできた。


(あかん……落ち着け……)


言葉にはせず、ただ心の中で繰り返す。

その声すらも、この空の下では“異物”のように思えた。


やがて、風が弱まった。

陽の角度が少し傾いた気がした。

空はまだ青いが、色味がどこか冷たくなっている。


時間が、動いている。


シンはゆっくりと歩き出した。

杭の列を背にして、大地の傾斜を見下ろす。

その先に、微かに崩れた建造物のような影が見えた。

かつて、ここにも人が住んでいたのだろうか――いや、違う。

住まうというより、逃げ延び、祈り、そして滅びたような気配がある。


風の中に、かすかな匂いが混じっていた。

土の匂い、焦げた木の匂い、そして……生物の匂いではない、何か“異質なもの”。


(……あかん。感覚が狂ってきとる)


額の汗をぬぐいながら、彼はその“遺跡のような影”へと歩を進めた。


ザリ……ザリ……


砂の上を踏む音が、やけに耳に残る。

そのたびに、まるで背後の杭たちが、目に見えぬまなざしでこちらを見ているような錯覚に襲われた。


やがて、低く崩れかけた石壁が見えてきた。

その先には、瓦礫と化した家々の残骸。

まるで、この地の記憶が――誰にも知られることなく、風に埋もれていくようだった。


ヒュウウ……ッ


風がひときわ細く、冷たく吹き抜けた。

そのときだった。

空気が、変わった。


音が、止んだ。

虫の声も、風のざわめきも、すべてが膜に包まれたように吸い込まれていく。


――異常だ。


胸の奥で、警報のような本能が鈍く鳴る。

シンは即座に身を低くし、近くの崩れた壁の影に身を潜めた。

手のひらに、土の感触が広がる。

瓦礫の向こうに、“それ”の気配があった。

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