第二十二章:紅月の影
母の面影が、この世界の呪いと深く結びついている。
その衝撃的な事実は、ユイの心に重い錨のように沈み、彼女をその場から動けなくしていた。
レンは古文書の他の部分に何か手がかりがないかと険しい表情で頁をめくり、ミコはユイの混乱した感情の「匂い」を、心配そうに感じ取っている。
神殿内の空気は、澱んだ水のようだった。
「……先を急ぐぞ」
沈黙を破ったのは、レンだった。
「この文献が示す『呪いの起源』とやらに近づけば、お前たちの母親のことについても、何か分かるかもしれん」
彼の言葉はぶっきらぼうだったが、そこにはユイを気遣う不器用な響きが微かに混じっていた。
ユイはこくりと頷き、まだ覚束ない足取りで立ち上がる。
文献が指し示す場所は、この古都のさらに奥深く、不穏な空気が漂う遺跡地帯だった。
かつては神殿の一部だったのか、崩れた柱や風化した壁が、まるで巨大な獣の骸のように点在している。
その場所は、これまでのどのエリアよりも、色彩が薄く感じられた。
まるで、何者かに生命力そのものを根こそぎ吸い取られたかのように、生気というものが一切感じられない。
その遺跡の中心部に足を踏み入れた、瞬間だった。
『―――ッ!!!』
燃えるような、暴力的なまでの「赤」の衝撃が、何の予兆もなくユイの聴覚を襲った。
それは、これまで感じてきたどんな「赤」とも違う。
純粋な、凝縮された「痛み」の音。
叫び声にも似た鋭い不協-和音が脳髄を直接揺さぶり、ユイの感覚は一時的に完全に麻痺した。
世界から音が消え、匂いが消え、ただ、その圧倒的な「赤」だけが、彼女の意識の全てを塗り潰していく。
「ユイっ!?」
ミコの悲鳴が遠くで聞こえる。
レンが咄嗟にユイを庇うように前に立ったのが、霞む視界の端に映った。
その痛みの発生源に、一人の青年が佇んでいた。
痩せぎすで、背丈はレンと同じくらいだろうか。
ぼろぼろの衣服をまとい、その顔には深い疲労と、世界に対する諦観のようなものが浮かんでいる。
だが、何よりも異様なのは、その瞳だった。
血のような、とろりとした赤。
まるで、彼の内側から発光しているかのように、その瞳だけがこの生気のない遺跡の中で、不気味なほどの存在感を放っていた。
青年――
「……また来たのか。この痛みを、知らない者たちが」
彼の声は、乾ききっていた。
だが、その響きには、長年たった一人で耐え続けてきた者の、深い孤独が滲んでいる。
「お前は……」
レンが警戒を露わに問いかけるが、カイはそれを無視し、その赤い瞳でユイを射抜いた。
「お前……お前からは、何も聴こえない。他の奴らとは違う。なぜだ……?」
彼にとって、この世界は、ユイが今まさに感じている、この強烈な「赤」という痛みだけで構成されていた。
それ以外の色は、彼には一切認識できないのだという。
ミコは、カイの傍らに残る微かな「記憶の残滓」を読み取り、彼がこの場所で、たった一人、永い間、呪いと孤独に苛まれ続けてきたこと、そして、この「赤」の痛みが、彼にとっての唯一の世界の真実であることを垣間見て、息を呑んだ。
レンは、カイの内に秘められた尋常ならざる力と、彼を深く蝕む呪いの痕跡に、これまで以上の警戒心を露わにする。
この男は、敵か、味方か。
カイは、ユイたちが手にしている古文書の存在を知っているかのように、嘲るように口の端を上げた。
「その程度の知識で、この『赤』を……この世界の悲鳴を、理解できると思うな」
彼の言葉は、ユイたちが直面している呪いの、さらなる深淵を暗示していた。
カイは呪いの弱点を知っているのかもしれない。
だが、その身を苛む絶え間ない痛みが、彼を協力へと駆り立てるのか、あるいは、全てを拒絶し、独り闘うことを選ばせるのか。
彼の忠誠心は、その赤い瞳の奥で、依然として不透明に揺らめいていた。
ユイは、彼が見る「赤」の世界が、自分にとっての「静けさ」とは全く異なる種類の、そして、より残酷な孤立であることを、その痛みの「音」から、深く、深く感じ取るのだった。
(第二十二章 了)
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