第1話 魔女との出会い

「魔法って、素敵じゃない?」


 手短な前口上は、正直、あまりにも唐突すぎて意味不明に感じられる。

 誰の声かも分からず、ただ『魔法』――その語だけが、少年の意識の底をぐるぐると回り続けていた。


 薄闇の空間。そこに身を置いた少年は、まるで現実がゆっくりと遅れて届くような錯覚の中で、初めて目を覚ました。

 女は蝋燭を灯し、それを円卓の中央にそっと押し上げる。淡い光が、二人の輪郭を浮かび上がらせた。

 目を擦った澪音は、自分が木椅子に腰を下ろしていることに気づくまで、しばらくの間、意識が追いつかなかった。


「……ここ、僕の部屋じゃなさそうだけど」


 少年の困惑を映した声に、女は小さく笑みをこぼし、グラスのワインを指先で軽く回した。

 赤い液面が微光を受けて揺れ、香気がわずかに空気を染める。

 ほろ酔いめいた余裕と整った所作が、どこか上流の貴族を思わせる――時代を越えてきた人のような気配を漂わせていた。


 緋色の髪を腰まで垂らした若い女。

 その瞳は暗い琥珀の中に魔性の光を宿し、黒のマントと薔薇色の古風なドレスをまとっている。広い鍔をもつ黒い三角帽が、彼女の存在をさらに異質に映し出した。


 まるで――魔女。


「そろそろ、始めましょうか」


 沈黙を破った女が軽く指を鳴らした。

 刹那、指先から放たれた光が空間を走り、闇の内側を裂いてその全貌を照らし出す。


 灯りが満ちた瞬間、部屋の隅に置かれた蓄音機から、やわらかく軽快な旋律が流れ始めた。内装は木材を基調とした温かな色調で、壁には絵画、カウンターには観葉植物。

 八〇年代末の欧米風バーである。――どこか懐かしく、現実味があるのに非現実的な場所だった。


「うわっ! こ、これは一体……」

「緊張しないで、少年。君と話したいだけだ」


 女は桃色の唇を拭い、グラスを置くと、軽く腰を浮かせて立ち上がった。


「やっと会えたね! 我が名はアデル・スカーレット! よろしくな!」

「お、おう……」


 あまりに情熱的な自己紹介に、澪音は思わず言葉を失う。

 芝居がかった口調もそうだが、外見の印象にそぐわぬ中性的な声質が、彼の反応をさらに遅らせた。


「さあ、少年。君の名は?」

「あっ、雨夜澪音……えっ、待って待って! 続ける前に質問が! ここは何処なんだ?」

「ん……正確に言えば、君の夢の中よ」

「ゆ、夢……?」


 アデルは彼の半信半疑を察したように、静かに目を細める。


「なるほど、かなり警戒してるね」


 そわそわする少年を見据え、わずかに肩をすくめ、独り言のように呟いた。

 対話を円滑に進めるためには、まず相手の緊張を解くこと。――その結論に至ったアデルは、ゆるやかに手を掲げた


「……では、少しペースを落とそうか。<緋式エスカルラータ創造クレアー>」


 その言葉と共に、淡紅色の液体を満たしたティーカップが卓上に現れた。

 湯気に混じって漂う芳醇な香りが、澪音の胸の鼓動をゆっくりと落ち着かせていく。紅茶の渋みとほのかな甘味が舌の奥で調和し、静かな余韻だけが残った。


「うっま!」


 感嘆しながら、澪音は対面の赤毛麗人に目線を向かう。


「ねぇ。アデルさんはどうやってこんなことを?」

「何の話?」

「動きなしで紅茶を用意することよ。早すぎて全然見えなかった。なにかトリックを使った? いやっ、絶対に使ったんでしょう。 魔術? それとも幻術?」

「そうだねぇ……どっちでもないわ。私たちはさあ、この力を、『魔法』、と呼んでるよ」

「えっ?」


 一瞬、澪音の表情が固まる。

 魔法。その語を耳にするのは、これで二度目だった。

 ゲームや漫画の中では馴染み深いが、現実では決して交わらない言葉――その矛盾が、脳裏に火花を散らす。


「……それは、科学的に説明できない超自然現象ってことか」

「今はそう定義してるの?」

「あのう、アデルさん。子供騙しは僕に通用しないぞ。誰だって、この世界に魔法なんてあるわけないだとわかるよ」

「じゃあ、魔法が実在すると言ったら?」


 いつもなら、アデルの言葉を笑って流すだけで終わったはずだった。だが、その瞳に宿る真剣さを見た瞬間、澪音の胸に小さなざらつきが生まれる。


 冗談ではない――嘘でもない。


 その静謐な表情が、何よりも現実味を帯びていた。そして事態は悪い方向に進展しているのかもしれないと、澪音は徐々に認識していく。


「ちょっ、まさか……」


 オタク脳の隅に浮かんだ最悪の可能性――異世界召喚。

 誰もが一度は夢見て、同時に恐れるシナリオ。

 だが澪音にとって、それは絶望的な不運の代名詞だった。


 幸運を引けなければ、初期装備は粗末で、スキルも平均以下。運が尽きれば、開幕一分で死亡もありえる。悲観論ではなく、かなりの確率で起こる、と澪音はこう思った。


「やべぇ――! まだ心の準備が……」


 焦燥のあまり机を叩いて立ち上がり、全身の血が一気に逆流するのを感じる。

 呼吸が荒くなり、頬に朱が差す。


「これ、異世界召喚ってやつじゃないか! 拒否できる? キャンセルできる? いやだ、異世界なんて行きたくねぇぇぇぇ――!」

「ううん、違うよ」

「そ、そうか……それならいい……」


 狂った予想が認められなければ、現時点ではセーフと判断できる。

 冷静に状況を分析すべきだと思い、澪音は手足を緩めて深呼吸をした。が、腰を下ろした瞬間、もっと残酷な可能性が浮かび始めた。


「ひょっとして、間違った方向に考えてた……これは、異世界転生の前兆じゃないよね! えっ、って何? ゲームやりすぎの突然死?! え? じゃ、アデルさんは死神ってこと? いやだいやだいやだ! こんなエンディングを認めねぇぇ――!」

「冷静になりなさい。最初から言った、ここは夢の中って」

「あっ、確かに言った……なら、今の僕は意識体、体は元の世界に残されてるってこと?」

「原理的にはもっと複雑はず。まあ、大体そういう感じ」


 軽く咳払いをして、澪音は無理やり話を本筋に戻す。


「で、アデルさんは僕に何か用?」

「私は、魔法郷ベルソウ現写世シルファスを魔法使いや迷者めいしゃが破壊される未来を見た。その悪い未来を消し去る鍵は、キミ。だから今の話になってる」


 あまりに突然の言葉に、澪音は思考を止めた。

 耳に入る名詞はどれも聞いたことがない。


魔法郷ベルソウ

現写世シルファス

迷者めいしゃ


 意味の通じない音の羅列に、「はぁ……」と脱力気味の息が漏れる。


「べ、ベルゴク?」

「ベ・ル・ソ・ウ」

「えっと……なにそれ」

「あそうだ……君は何も知らないんだ……はぁぁ……」

「できれば、わかりやすい説明をお願い」


 瞬間、話のテンポがずれてしまう。

 澪音の知識不足に、アデルは仕方なく嘆息を漏らす。単刀直入に本題に入るつもりだが、彼に情報を普及させなければならないことになった。

 心構えを整えると、アデルは澪音に鋭い視線を投げ、


「『魔女狩り』って、知ってる?」

「ええ。五百年前の魔女大量虐殺事件、でしょう」

「実は、魔女と呼ばれる私たちの正体は、魔法使いだったの。かつては迷者――つまり魔法が使えない者たちと、平和に暮らしていた。しかし、時が経つにつれて、彼らは人並み以上の力を憚るようになった。その恐怖と嫉妬が極限に達した時、我々は大虐殺を受け――」

「……いやっ、待て! おかしいだろ! 魔法使いが凡人に負ける? なんで魔法で反撃しないんだよ……痛っ!」


 発言を遮られたアデルはムッと口を尖らせ、澪音の頭をカチャッと叩いた直後、指を一本立てる。


「できないの。魔法使いの社会には、はっきりとした規制がある。そのひとぉぉつ! どんな場合でも、魔法で迷者を傷つけてはならない! それが、力の濫用を戒める誓約であり、同時に修養でもあるの」


 熱くなればなるほど、アデルは背筋を伸ばし、腰に手を当てて澪音を見下ろす。


「わかったわかった! もう叩かないで!」

「……我々は多くの同胞を失った。絶滅を防ぐため、最強の五大家族から五人の使者が集い、禁呪級の魔法を発動させたの。それによって、世界は二つに分かたれた。――君のいる『現写世シルファス』と、私がいたパラレルワールド『魔法郷ベルソウ』。あっ、ちなみに私、スカーレット一族の代表だよ~」

「褒めるべきか……」


 世界観を根底から覆され、動揺した澪音は逃れられない重圧感に息を詰まらせる。

 しかし、それほど複雑と思わなかった。

 どちらにしても、世界が分裂された原因はそれなりに論理的。少なくとも動機くらい澪音はよく理解できた。

 その立場で、自分も迷わず同じ選択をする。

 澪音は思考を整理すると、ゆっくりと頷きながら「うん、うん」と納得した。


「なるほど。魔法使いがいなくなったからこそ、現写世シルファスは教科書通りの歴史を歩んだ。二つの世界は『魔女狩り』以降、互いに干渉しなくなった……そういうことか」

「理解が早いね」

「でも、それが僕と何の関係が? 未来の鍵ってどういうこと?」


 その話題になるや否や、不本意ながらアデルは声を殺し、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 淡い憂いが宿る瞳は宙を彷徨い、先ほどまでの昂揚はどこへやら消え失せる。しばらくのあいだ沈黙が続き、震える唇から嗚咽まじりの声が漏れた。

 そして、言う。


「……君は一族最後の生き残り、今この世に唯一の、スカーレットだから」

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