第一章 緋色の三日間

プロローグ

『世界は五百年後に滅ぶ』――それは夢ではなく、予言だった。


 霧深い森。裸足の女は巨石の影に身を寄せ、唇の血をぬぐった。鎧の擦れる音が輪を狭める。


「スカーレットの残党はここだ! 逃がすな!」


 追手の怒号が木々を震わせる。女は黒い外套を脱ぎ、ふっと息を整えると、足元に薄紅の紋が咲いた。掌から緋光――淡い膜が空を切り、外界の喧騒を遠ざける。


「平和な未来のために」


 囁きとともに、指先で印を結ぶ。光の花弁が土に沈み、魔法陣が完成する。


 槍がいっせいに突き立つ。膜は砕け、刃は肉を貫いた。一縷の悲鳴も、抵抗もない。

 痛みは、驚くほど短い。乱れた髪が風に舞い、女は微笑む――終わりを受け入れる者の顔で。


 死ではない。ここで朽ちるのは器だけだ。


 意識は、詠唱で開いた径を滑り落ちる。時間線のうねりを越え、血の名を辿り、まだ見ぬ誰かの夢へ。


『鍵は、最後のスカーレットに』


 森の喧噪が遠のく。緋の残光が点となり、闇に融けた。


 そして――彼の夢へと落ちていく。


「新記録! 隠しエンディング達成、おめでとうございます!」


 電子音と一緒に、空に『勇者の裏切り』の大きな文字が浮かんだ。

 そして、開発者リストとエンディングが目の前を横切る。


「はあぁぁ……なんか、予想以上に時間かかったなぁ……」


 パソコンの画面前、彼は額の汗を拭いながら伸びをした。

 疲れるのも無理はない。

 机上の目覚まし時計は現在時刻を顕示している――午前五時。

 ゲームを早く攻略しようと、入手当日で睡眠時間を返上して徹夜した。今となっては、その悦楽や達成感を得た甲斐がある。


「ふう……疲れた疲れた!」


 ぐったりと椅子に靠れ、長すぎる前髪を掻き揚げ、天井を見上げる。

 彼の顔は、ゲーム内の自作キャラクターとほとんど変わない。

 ミディアム黒髪。身長は百七十五センチほど。


 そんな彼――雨夜あまや澪音れいんは日本の『風海城ふうかいじょう』という名の臨海都市出身。

 家から一番近いの風海高校に通っている、ニ年生。

 彼の人生を語るには、簡潔な言葉で十分だ。


『成績普通』


『社交的ではない』


 非凡なところがあるかと聞かれたら、残念ながら『ないかも』と、澪音自身も思い込む。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「……今日も学校かぁ……面倒くせぇ」


 三月末の火曜日。学校が始まってからもう一ヶ月になったが、やる気が全然出てこない。

 否、そういう状態が何年も続いていた。

 最初の規則正しい生活から、今の悪い生活習慣。

 幼馴染が定期的に掃除を手伝われなければ、廃人になるまであと一歩のところだ。


『まあ、一応卒業できるし、進学の可能性も十分ある。別にいいじゃないか』


 その思想、依然として頭の中で繰り返した。


「……少年……未来の少年」

「ん?」


 突然に、微弱な音が聞こえた。

 女の声だった。遥か遠くて、返事をしないととんでもないことになってしまいそう。

 未知の声に、澪音は一切の反応をしなかった。疲労感による幻聴の経験、多少は慣れている。


「やっぱ最近、ゲームやりすぎかなぁ……」


 ただ、体からの抗議は無視できない。

 限界を突破しようとして一週間寝込んでしまった前例もあり、澪音はイヤホンを外して席を立つと、ベッドに寝転がる。

 まだ登校時間まで二時間もあるのだから、少しぐらい仮眠を取るのも構わない。


 と、その瞬間――、


「えっ? 何こと?」


 おおよそ十六年の人生で変なことがあったと雲うと、今のが一番怪異な状況だ。

 急に、体の存在を感じなくなった。

 意識が不明な力に引っ張られ、どんどん上空へと引き離されていく。


「わあっ! 幽体離脱?!」

「私の声を追いかけて、早く来て」

「なっ……」


 また、さっきの声だった。

 今回は音源をはっきり捉えた。環境に関係なく、脳の奥からやってくるのだ。


 ――やばい、眠い……


 現状への把握より、耐えられない眠気が先に訪れた。もう一言も口にできず、澪音の両眼がゆっくりと閉じられた。

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