第26話 正義の刃
セレネは、激しい疲労に耐え、意識を失っているアキトを背後に隠した。
目の前には、大悪魔であるイシュタールとグレイ。どちらも、現在のセレネが単独で相手にできる存在ではない。できることといえば、せめて時間を稼ぐことくらいだ。
「アキトはゾルグ様とお母さまの道具よ。勝手に処分させるわけにはいかない」セレネは声を張り上げ、必死に虚勢を張った。
イシュタールは嘲笑を浮かべたまま、ゆっくりとセレネに近づく。「道具は、使い物にならなくなれば捨てるのが合理的よ、セレネ。あなたは、その道具に『義理』を感じているようね。悪魔としては滑稽だわ」
グレイは無言で、黒い大剣をセレネに向けて構えた。「無駄だ、セレネ。貴様は魔力を使い果たしている。道具を置いて、大人しく退け」
セレネは、イシュタールがアキトの左手に宿った悪魔の力を狙っていることを知っていた。彼女は、アキトの力がゾルグの計画に必要であることよりも、彼が『道具』としての運命に抗おうとした共犯者であることに価値を見出していた。
「あんたたちに、アキトは渡さない!」
セレネは、体内に残るわずかな魔力をかき集めた。周囲の空間に、高密度の魔力障壁を多重に展開させることに集中する。
「退かないわ。私は、アキトをゾルグ様の元へ連れて帰る。それが私の任務」セレネは、その言葉を『任務』という鎧で覆い隠したが、その瞳には明確な『保護の意志』が宿っていた。
イシュタールはため息をついた。「面倒ね。グレイ、障壁ごと吹き飛ばして」
グレイの漆黒の斬撃波が放たれ、セレネの魔力障壁は瞬時に三層が崩壊した。「ッ!」セレネは血を吐きながら、必死に残りの障壁を維持しようとする。
その隙を見逃さず、イシュタールが動いた。幻影の針をセレネの全身に打ち込み、彼女の残された魔力回路を麻痺させた。
「終わりよ、セレネ。さあ、道具を渡して」イシュタールは勝利を確信した。
「あんたたちの、思い通りになんてさせない!」
セレネは最後の魔力を使って、一つの小さな魔力の塊をアキトの左手の甲、黒い傷跡の上に貼り付けた。
「ごめんなさい、アキト。一時的に、あなたの力を『封印』するわ。これで、イシュタールはあなたに興味を失うはず!」
セレネの魔術は成功し、アキトの左手に宿っていた悪魔の力は、その存在を隠すように沈黙した。
セレネの魔術が成功した直後、イシュタールは苦々しい表情を浮かべた。
「くそ、余計なことを。これじゃあわたしたちがここにいる意味がないじゃない」
イシュタールはグレイを連れてその場を離れた。
遠ざかっていくふたりの姿に、セレネの肩から力が抜ける。
(よかった。イシュタールが、アキトへの興味を失った……グレイを連れて退散した……これで、大丈夫……)
安堵がセレネの脳裏を満たしたが、それは長く続かなかった。
セレネが意識を取り戻すと、視界に映ったのは、優雅に立ち尽くすイシュタールだった。そして、アキトは地面にはいなかった。
「残念ね、セレネ。あんた、何がしたいの?」イシュタールは冷笑した。
セレネが見た「イシュタールとグレイの撤退」は、イシュタールがセレネの疲弊した意識に送り込んだ幻覚だったのだ。セレネの瞳は絶望に染まった。
実際は、イシュタールの腕の中に、意識を失ったアキトが抱かれていた。
「この道具は私が頂くわ。あなたの『封印』は少し邪魔だけれど、いずれ解ける。そうしたら思う存分遊んであげるわ」
セレネは、アキトを守れなかったという激しい自責の念に打ちのめされた。全身の痛みを無視し、アキトを奪い返そうともがくが、魔力が残っておらず、動けない。
「あんたは道具に役目を果たせない、ごみね」
イシュタールが言い捨てたその瞬間、荒野の空気が、張り詰めた冷気へと変わった。
キィン。
甲高い金属音が響き、イシュタールの腕に抱かれたアキトの体と、イシュタールの左の腕を繋いでいた部分に、一筋の赤い光が走った。
イシュタールは鋭く息を呑み、反射的にアキトを手放した。彼女の左の二の腕から、鮮血が噴き出した。
「誰だ!」グレイが叫び、大剣を構えた。
セレネも驚愕のあまり、声が出ない。
アキトは空中に放り出されたが、次の瞬間、銀色の鎧を纏った人影に抱きとめられた。
その人影は、光を背負い、手に持った真紅の長剣から湯気を立てていた。振り向いたその顔は、ミカエラだった。
「な、なんで天使がこんなところに」イシュタールが傷口を抑えたまま後ずさる。
彼女の瞳は、この魔界のすべてを焼き尽くすかのような、激しい『正義』の光を放っていた。
「これ以上、アキトに手を出させない」ミカエラは、静かに、しかし、世界を断罪するような強い声で言い放った。
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