第25話 暴走の果てと悪魔の鎮魂歌

 激しい転移の光が収まったのは、どこかの魔界の荒涼とした荒野だった。


 セレネは地面に倒れ伏し、激しい消耗に苦しんでいる。彼女は、暴走するアキトの魔力に自らの魔力を無理やり共鳴させ、強制的に転移させたため、魔力回路が限界に達していた。


 アキトはセレネから少し離れた岩に寄りかかるように立っていた。彼の全身から、赤黒い魔力――純粋な憎悪のオーラが立ち上っている。彼の瞳は血走った赤色に染まり、理性は完全に失われていた。


「コロス……スベテ、ゾルグも、アイツラも……」アキトは呻く。


 彼はゾルグのナイフを強く握りしめ、獲物を探すかのように、周囲にいるセレネさえも憎悪の対象として見定めている。


 セレネは、体中の痛みをかみ殺して、なんとか上半身を起こした。悪魔の目から見てもアキトの状態は最悪だった。


「まったく、人間のくせに悪魔みたいじゃない。サタナイルの『憤怒の波動』が増幅させ、アキトの左手の甲に宿った悪魔の力が、人間の憎悪という燃料によって制御不能な怪物になっちゃって」


 セレネは、もしアキトがこの状態でゾルグの拠点に戻れば、彼を道具としてではなく、危険な廃棄物として処理しようとするだろうと理解していた。アキトを『道具』として生還させるという彼女の任務は、今、極めて危険な状況にある。


 セレネは深呼吸し、平静を装おうとした。


「アキト。落ち着きなさい。あなたの目標はサタナイルよ。ここで、無意味な暴力に魔力を浪費してどうするの?」


「ウルサイ! ドウグガ、ナゼイキル!?」アキトは怒鳴り、ゾルグのナイフをセレネに向けて構えた。憎悪に支配された彼の異能は、セレネの僅かな『恐怖』と『焦燥』を正確に読み取り、攻撃の意志を固めていた。


「どうすれば……わたしに対処方法なんて」


 セレネが絶望しかけた瞬間、頭の中にリリアンの冷たい念話が響いた。


『まったく、どこへ行っているかと思えば、使えない子ね』


「お母さま!」セレネの背筋が伸びる。


『いい、一度しか言わないわよ、セレネ。憎悪を鎮めるには、憎悪を上回る対極の感情、あるいは矛盾を叩き込め。悪魔の力は論理を嫌う。彼の心にある唯一の弱点――同情か、共犯意識か、どちらでもいい。感情を利用しなさい』


 リリアンの助言に、セレネは冷水を浴びせられたように冷静になった。彼女がアキトから見た、人間としての『義理』。あれこそが、憎悪という論理的燃料に対する矛盾だ。


 セレネは、自らの命を危険に晒す、最大の賭けに出た。


 彼女は構えていた魔力を解除し、抵抗する意思がないことをアキトに示した。そして、まっすぐアキトを見つめた。


「殺したいなら、殺しなさい、アキト」


 アキトの足が止まった。セレネの瞳は、悪魔特有の赤色ではなく、透き通った水色に戻っていた。それは、彼女が感情を隠さず、悪魔のプライドを剥ぎ取った、素の状態の表情だった。


「私はあなたを道具だと見下した。あなたに命を救われたことが屈辱だった。でも、あなたは、私が私自身の親に見捨てられた運命から目を逸らさないでくれた」


 セレネは、自らの感情を言葉に乗せるという、悪魔としてはありえない行為をした。


「あなたは私に言ったわ。『君をみていられなかった』と。道具であるあなたが、道具である私に、人間としての『同情』や『義理』を向けた。それは、私にとって、悪魔としての否定よ」


 アキトのナイフを持つ手が、かすかに震え始めた。彼の脳内の憎悪の嵐の中、セレネの『感情』がノイズとして割り込んできた。


「…ウソダ……ソレハ、弱イ人間ノ感情だ…」アキトは呻いた。


 セレネは一歩、アキトに近づいた。


「いいえ。これは、屈辱を抱えた悪魔の感情よ」セレネは静かに、しかし強く言った。


 彼女は、自身の魔力を最大まで集中させ、アキトの左手の甲の傷跡、憎悪の力が宿る核に、優しく触れた。


「あなたは憎悪の悪魔。あなたが私を助けたことが、私たちの始まりだ。あなたの憎悪がすべてなら、私を殺してから、復讐を続けなさい」


 セレネは、アキトの暴走した悪魔の力に、自身の『悪魔の鎮魂歌(ララバイ)』と呼ばれる魔術を注ぎ込んだ。それは、悪魔の精神を強制的に鎮静させる、リリアン直伝の魔術だった。


 憎悪の魔力と鎮静の魔力が、アキトの左手の中で激しく衝突した。


 キィン!


 凄まじい音と共に、アキトの身体を覆っていた赤黒いオーラが、彼の体内に急速に収束していく。アキトは耐えきれず、激しい痙攣と共に意識を失い、その場に倒れ伏した。


 セレネもまた、魔術の反動と疲労で倒れ込んだ。


「止まった、の……?」


 セレネは、憎悪の奔流を封じ込めることに成功した安堵と、アキトの暴走を引き起こしたイシュタールとグレイへの新たな憤怒を感じていた。


 彼女は、暴走から戻ったアキトを抱き寄せた。


 まずはここを離れようと立ち上がるセレネの背後に、ふたつの影が迫っていた。


「相変わらず、ゾルグの道具は手間がかかること」


 冷たい女性の声が響いた。


 セレネは反射的にアキトを庇うように立ち上がったが、魔力はほとんど残っていなかった。目の前に立っていたのは、イシュタールとグレイだった。


「我々がサタナイルとあの人間をぶつけさせたのはこの時のため」グレイは黒い刃を構えながら言った。


 イシュタールは嘲笑した。「ゾルグの道具は、我々が始末しなければ。それに、そこの悪魔の血が混じった人間、今の私にはとても魅力的に見えるのよ」


 セレネは、アキトの暴走の果てに、最悪の敵に追い詰められたことを悟った。

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