零章 ボクは母親を喰らう獣となった(3)

 「ひどいことになって?」

 ボクがそう聞き返したのは『ひどくなって……』という表現に違和感を感じたからだ。

 それじゃまるで『昔はよかった』みたいじゃないか。生まれたときから駐屯軍に威圧され、監視されてきたボクにとってはとうてい聞き逃せない言葉だった。

 「〝一斉蜂起〟のあとに生まれたあなたには想像もつかないでしょうけどね。それ以前は、駐屯軍ともそれなりに仲良くやっていたのよ」

 「まさか……」

 「本当よ。そもそも、当時の駐屯軍はイシュタ人と同じ、帝国に征服された国の子孫だったの。帝国は征服した国の民を辺境警備に使ってきたから。だから、当時の駐屯軍は帝国よりもむしろイシュタ人に親近感を覚えていた。生粋の帝国人からなる駐屯軍が派遣されるようになったのは〝一斉蜂起〟のあとからよ」

 「そうなの……?」

 「そうなのよ。だから、当時は監視役と言ってもむやみにイシュタ人を疑ったり、敵視したりはしなかった。毎日の巡回はあったけど、普通に防犯のためだったし。巡回なんてそっちのけで子供たちと遊んでいる駐屯兵もいたぐらいよ」

 「……うそ」

 ボクは思わずそう呟いていた。

 このときのボクの顔にはデカデカと『信じられない』と書いてあったにちがいない。だって、実際に信じられなかった。ボクにとって駐屯兵と言えば、子供とみれば殴り、女性とみれば襲うならず者だ。その駐屯兵が子供と一緒になって遊んでいたなんて……。

 「当時はそうだったのよ。わたしもよく駐屯兵と遊んでいたもの」

 ウィッチタブルーはボクの表情を読みとってそう言った。

 「子供だけじゃなくて、おとなだってけっこう仲良くしていたのよ。夜間の外出はずっと禁止されていたけど、あの頃は誰も、そんな規則、相手にしていなかった。と言うより、そんな規則があることも忘れていたんじゃない? みんな、あちこちの店におおっぴらに集まって飲んだくれていたし、駐屯軍も気にしなかった。一緒になって騒いでいる兵もよくいたしね」

 「お酒なんてあったの?」

 これも信じられないことだった。

 いつもギリギリの生活を強いられているイシュタ人居住区。お酒なんていう贅沢品は作ることはもちろん、買うことだってできはしない。そんなお金があったら一升のマメを買う。

 ウィッチタブルーは肩をすくめて見せた。

 「駐屯軍がこっそり持ち込んでいたのよ」

 「駐屯軍が⁉」

 「言ったでしょう。当時の駐屯軍はイシュタ人と同じく、帝国に征服された国の子孫たちだったって。だから、イシュタ人の暮らしに同情して軍需物資を横流ししてくれたり、密輸の手伝いをしたり……そんなふうにしてけっこう大きな地下経済ができあがっていたのよ。

 おかげで、豊かではないけど、そこまで厳しくもなかった。少なくとも、お腹を空かせた子供が道ばたにゴロゴロいる、なんていうことはなかった。それがいまでは……」

 ウィッチタブルーはチラリと後ろのドアを見た。その視線を追ったとき、ボクははじめて気付いた。かすかに開けられたドアの向こう。そこに何人もの子供がいて、ボクをジッと見つめていることを。

 いや、ちがう。その子供たちはボクを見ていたわけじゃない。ボクが食い散らした大量の皿の山だった。

 ――やるもんか!

 子供たちの視線の意味に気がついたとき、ボクの頭のなかには稲妻のようにその思いが閃いた。

 ――これはボクのだ! 誰にもやらない!

 ボクは子供たちをギッ! と、にらみつけた。

 威圧して、追い払うために。

 まったく、いまになってみれば恥ずかしいことこの上ない。同じように飢えて、戦火に追われた子供たちを相手にそんなふうにしか思えなかったなんて。

 でも、それがそのときのボクの真実。

 戦火に追われ、獣となっていたボクは自分のことしか考えられなかった。なにかを他人と分け合うなんて発想自体どこにもなかった。

 我ながら浅ましいとは思うけど、戦火に追われるとはそういうことなのだ。

 「だいじょうぶよ。誰にもあなたの分をとらせはしないから」

 ウィッチタブルーのその言葉はとくに優しいという言い方ではなかったけど、安心させてくれるものだった。もっとも『あなたにも他人の分をとらせはしないけどね』という思いもしっかり込められていたけれど。

 「そして、今回の件。帰ってきたばっかりだっていうのに、あなたみたいに戦火に追われて、獣になりきった子供を何人も見つけたわ」

 ――いきなり人の脚に食らいついてきたのは、あなただけだったけどね。

 と、ウィッチタブルーは付け加えた。

 その口調が面白がっているような、イジめているような、そんな感じだった。もしかしたら、イジめて面白がっていたのかも知れない。

 そう言われても、ボクが恥じることもなく、恐縮する様子もないのを見てつまらなそうな表情を浮かべたことからすると多分、そうだったのだろう。

 でも――かのにとっては残念なことに――母親を食らう獣となったボクには『恥じ入る』なんて人の心は残っていなかった。

 「そもそも、あの〝一斉蜂起〟からして不自然だった。いま言ったように当時のイシュタ人と駐屯軍の関係は決して悪いものではなかった。全イシュタ人が一斉に帝国に戦いを挑むなんて、そんな雰囲気はどこにもなかった。それなのに突然、みんなが反抗に立ちあがった。まあ、それだけスマラグドの指導力が優れていたと言うことなんでしょうけど」

 ウィッチタブルーはそこまで言ってから、溜め息をつきながらかぶりを振った。

 「ホルムストラップのやつはそんな父親をやたらと尊敬していたから。父親の跡を継ごうというつもりなんでしょうね。でも、帝国への反乱なんて、やればやるほどひどいことになるばかり。そもそも、民衆革命が民衆を幸せにした例なんて歴史上ひとつもない。いつだって民衆同士の殺し合いで終わってきた。ちょっと歴史を学べばわかること。それなのに、あのバカは……」

 「ホルムストラップのどこがバカなの! 奪われたものを取り戻そうとするのは当然じゃない!」

 以前のボクなら、戦火に追われて獣になる前のボクなら、そう叫んでウィッチタブルーをにらみつけていただろう。でも、現実に戦火に追われる恐怖を知ったいまではそんな叫びは心のどこからも出てこなかった。

 ――もう、あんな思いをするのはいやだ!

 ボクの心のなかの思い、それはただひとつ、それだけだった。

 「……まあ、わたし自身、実際に経験するまでわからなかったわけだけど」

 ウィッチタブルーがふと視線をそらし、そう呟くのをボクの目と耳はしっかりと捉えていた。

 「とりあえず、駐屯軍の乱暴はやめさせたから、しばらくは安全よ」

 どうして、一イシュタ人に過ぎないウィッチタブルーに駐屯軍をとめることができるのか。

 そんなことはこのときのボクには想像もつかなかった。そもそも、そんな疑問を抱く余裕もなかった。このときのボクにあったものは『じゃあ、もう追われなくていいの?』という疑問符付きの安心だけだった。

 「ホルムストラップのやつもしばらくはなにもできないでしょう。でも、いつまでもこの状態はつづかない。駐屯軍だっていつ掃討作戦を再開するかわからないし、ホルムストラップだって帝国相手に戦果を挙げる必要がある。放っておけば遠からず衝突が起きる……」

 衝突が起こる。その言葉に――。

 ボクは魂まで震わせた。

 ウィッチタブルーはこれ以上ないほどの真剣な表情と口調になった。

 「アイズリー」

 「な、なに……?」

 「わたしを手伝いなさい」

 「えっ?」

 「わたしは明日、帝国の〝マウンド〟ドウオノに向かう。あなたはわたしの侍女として同行するの」

 「い、いやだ……!」

 ウィッチタブルーの言葉に――。

 ボクは反射的にそう叫び、椅子を蹴倒して叫んでいた。

 「帝国になんて行きたくない! そんなところに言ったら殺されちゃう」

 「では、どうするの? このまま野良イヌとして過ごすつもり? すぐに死ぬわよ」

 「えっ?」

 「あなたには獣となって生き延びるだけの力も技術もない。獣のままでいれば遠からず野垂れ死にするのがオチ。あなたが生きていくためには金が必要よ」

 「……お金」

 「そう。金。わたしはなにも、噂を聞いて駆けつけただけじゃない。ある計画を実現するために帰ってきた。この居住区に産業を興し、居住区の暮らしを豊かにするために。そのために、〝森の麗人エルフ〟の森に向かう」

 「〝森の麗人エルフ〟の森?」

 「〝森の麗人エルフ〟の森には若さと健康を保つ抗力をもつ魔法の草がある。とこ若命わかめという草がね」

 「とこわかめ?」

 「金も時間ももてあまし、美酒美食を味わい尽くし、金銀財宝に囲まれ、ありとあらゆる贅沢を尽くしてきた浪費家たち。すべての快楽を極め、もはやこの世に求めるものとてない。そんな人間たちが最後に求めるもの。それはなにかわかる?」

 「え、ええと……」

 「若さと健康よ」

 「若さと健康……」

 「そう。若さと健康。それこそが、すべてを手に入れた人間が最後に望むもの。わたしは帝都で暮らしている間、若さを失った貴族たちがそれを取り戻すために金に飽かせて怪しげな薬やら食品やらを買いあさるのをこの目で見てきた。

 とこ若命わかめを使って若さと健康を保つエステ用品を作れば、必ず売れる。とこ若命わかめは魔法の植物だから、この過酷な北の大地でもちゃんと育つ。

 植物を栽培し、石鹸や化粧水、香水を作ることは子供にもできる。帝国貴族がわたしたちの作る品を買ってくれれば、わたしたちは金持ちになれる。なんだって買える金持ちにね」

 「金持ち……お金持ちに」

 「金は人間の世で最強の魅了の魔法。金で飼えない人間はいない。金持ちになれば札束をバラまいて他人を意のままにすることができる。駐屯軍を買収して味方にすることだってできる。そうすれば、わたしたちは帝国を気にすることなく、この地に自分たちの望む暮らしを打ち立てることができる。もう帝国に支配されることも、争う必要もなくなる」

 「買収……賄賂を使うって言うこと?」

 「悪い? わたしたちは毎日、自分の生命だって金で買っているじゃない」

 「生命をお金で買ってなんて……」

 「なら聞くけど、あなたは毎日、飲む水や食べ物をどうやって手に入れているの?」

 「どうって、お金を払って……あっ」

 そう言ってようやく気づいた。

 ボクたちは生命の糧である水と食べ物をお金を払って買っている!

 それはつまり、生命をお金で買っているといういうこと。当たり前すぎて気がつかなかったけど、ボクたちはたしかに毎日まいにち自分の生命をお金で買っているのだ。

 「そう。わたしたちは自分の生命を金で買っている。だったら、他のものを金で買ってなにが悪いの?

 自由と権利は政治の問題じゃない。経済の問題よ。どんな国、どんな政体にあっても金持ちは自由と権利を謳歌できるし、貧乏人は何の権利ももてはしない。

 それが現実。だったら、皆が金持ちになればいい。皆が金持ちになれば誰もが自由と権利を手に入れられる。

 わたしはそのために帰ってきた。本当は自治政府と協力してやっていくつもりだったんだけどね。このありさまではそんな呑気なことは言っていられない。さっさと自分でやって、成果を出す。そうすることで居住区での暮らしを豊かにしていけると皆を納得させる。そのためには人手がいる。あなたがその最初のひとりになるのよ、アイズリー」

 「な、なんでボクが。ボクはただの子供で……」

 「あなたは生きるためにわたしに食らいついた。帰ってきてから何人もの飢えた子供に出会ったけど、そんなことをしてのけたのはあなただけ。その執念、むき出しの生への執念が必要なの」

 「でも……」

 「金持ち。なりたくないの?」

 ……金持ち。

 金持ち。

 金持ち!

 なりたい!

 気が狂うほどなりたい!

 お金さえあればこんな目に遭わずにすんだ。

 戦火に追われ、逃げまわったりせずにすんだ。

 大きな家に住んで、おいしいものを食べて、安全に、安心して暮らしていける。お金さえあれば……。

 「〝森の麗人エルフ〟の森に行けば金持ちになれる。その〝森の麗人エルフ〟の森は帝国領内にある。どんなルートをたどるにしても帝国の〝丘〟を経由しなくてはならない。たしかにいまのこの時期にイシュタ人が帝国領に入ることは危険を伴う。生命を狙われるかも知れない。でも、いまのままなら野良イヌとして野垂れ死にするだけ。どっちがいい?」

 「金持ち……なれるの?」

 「本気でなろうと思えばね」

 「もう、誰にも追われずにすむ? 殺される心配をしなくてすむ? 痛いぐらいお腹が空いているのに、親に心配させないために無理して笑っている必要もなくなる?」

 「もちろん」

 「……なる」

 ウィッチタブルーの言葉に――。

 ボクはそう言い切った。

 「金持ちになる! なんでもするから、ボクをお金持ちにして!」

 もう、誰にも追われずにすむように。

 誰にも殺されずにすむように。

 お金持ちになる。

 その決意のもと、ボクは旅立つこととなった

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