第5話 あの日

 あの日も、今日のような雨の降る天気だった。

 年齢が八つくらいだった僕は裕福な家庭で育っていた。教育熱心な母親に育てられ、大変なことも多いが、毎日ご飯をお腹いっぱいになるまで食べて、幸せだったのかもしれない。

 学校からの帰り道、さっきまで晴れていたはずの空は一転して厚く、黒い雲が青い空を覆っていた。学校から家は遠く、途中で雨に降られないか心配だったがその心配は的中した。最初はしとしとと降っていたが、雨粒は次第に形が変わり、肌を強く打ち付けた。

 家までまだ距離があったため僕は近くの公園の木の下のベンチで雨宿りをすることにした。空を見上げても雲が消える気配は一向になく、もう濡れてもいいから帰ってしまおうかと思った。

 その時、君は現れた。

 薄紫色の地味な傘を差しながらゆっくり僕の前へと現れた。黒く長い髪の僕より年下と思われる少女だった。

「傘、ないの?」

 彼女の声は優しかった。

「うん。忘れてしまって持っていません。」

「ふうん。」

 暫く彼女は僕を見つめた。表情豊かで元気な人に思えた。

「じゃあ、私の傘、貸すよ!」

「え。」

 僕は驚いた。初対面の人に傘を貸す彼女の優しさにだ。見た感じ彼女は傘を手にもっているものだけに思えるのに貸して大丈夫なのだろうか。

「でもそしたら君が___」

「いいよいいよ!家近いし、私あそこなの。」

 そう遮るように言って彼女は斜め上を指さした。僕は彼女の指さした方を見るため後を向いた。指を指した方向には赤い屋根の一軒家が少し遠いがよく見える範囲にあった。確かに僕の家よりかは近いかもしれない。

「ね!ね!近いでしょ?」

 人懐っこい笑みを浮かべながら自分が持っている傘を僕の方に近づけた。

「うん、、、、じゃあ、、借りることにする。ありがとう。明日絶対返すから!家も分かたし。」

 僕は彼女とは正反対にぎこちない笑みを浮かべて彼女が差し出す傘を受け取った。

「じゃあ。私、濡れちゃうからもう行くね!」

 そう言って彼女は走り去って行こうとした。

「ちょって待って!」

 彼女は僕の方へ振り返った。

「君の名前だけ、、、教えて。」

「まき、、、さがら!さがらすずえだよ!じゃあね!またあした!」

 そう言って彼女は公園を出て自分の家の方へと走っていった。



 翌日の学校帰り傘を返しにすずえの家へ向かった。相楽さがらと書かれた表札がある小さな一軒家だった。チャイムを鳴らすと中から女の人の返事が聞こえ、中からすずえではない四十代ほどの女の人が出てきた。

「何か用?」

 女の人はそう冷たく返事をした。少し彼女への恐怖心もあったが、勇気を振り絞って声を上げた。

「すずえさん、、、居ますか。」

「あぁ、いるわよ。鈴江ー!出てきなさい。」

 女の人は面倒臭そうにすずえを呼んだ。暫くするとすずえの姿が部屋の奥から見えた。

「なに、、、?」

 すずえは母親に向かってそう言った。しかし前あったときのすずえとは違い、笑顔は消え声も暗かった。すずえの声からはすこし怖がっているように感じられる。

「誰か来てるわよ。用が済んだらさっさと戻りなさい。」

 そう言って女の人は家の中に入っていった。すずえは僕を見るとすんなり笑顔を見せた。だが昨日とは違ってぎこちない。

「傘、、、、返してくれたんだね。ありがとう!」

「ううん。こちらこそ。今の人は?」

「、、、、、お母さん、かな。」

 母親にしては冷たいような対応ではないかと疑問に思った。だが、自分の母親も冷たいためそのような疑問はすぐに消え去った。

「はい、傘。ほんとにありがとう。助かったよ。」

 すずえは傘を受け取った。

「そういえば、君の名前聞いてなかったね。何ていうの?」

「麻生荘司。ソウジって呼んでよ。」

「ソウジ、、、ね!分かった。」

「じゃあ僕そろそろ帰ったほうがいいかな。じゃあね。」

 気を使って僕はそそくさと帰ろうとした。

「あ、カバンから何かはみ出てるよ。」

 すずえは僕が背負っている鞄を指さした。僕はリュックを一回おろして確認した。はみ出ているものを取り出して見てみると、学校での授業で描いた風景画だった。

「ソウジが描いたの?うまいね。」

「そう?ありがとう。」

「ソウジは将来画家になれるよ」

 そう純粋にすずえは僕の絵を褒めてくれた。勿論僕は画家になりたい。でもそれを認めてくれる人は周りには居なかった。だからすずえがそう言ってくれたのは本当に嬉しかった。

「でも、、親が許してくれないんだ。そういうの。」

「ソウジは画家になりたいの?」

「うん、、絶対になりたい!」

「じゃあ、なればいいよ!親の意見とか関係ないって!自分の人生なんだから他人の考えなんかいらないよ!」

 珍しくすずえが感情的になった。僕はその言葉に強く心を打たれた。

「うるっさいよ!早く戻って来なさい、鈴江!」

 中からすずえの母親の声が聞こえた。

「そ、それじゃあね!」

 すずえはそう言って、あせった様子で家の中に入っていった。


 それから一週間。すずえの母親がまた何か言ってくるんじゃないかと思い、すずえには暫く会っていなかった。しかし学校の帰り道、いつも通っている通学路を歩いていると、すずえの姿があった。すずえは僕を見るなり走って僕の方へやってきた。

「ソウジ!やっと見つけた!」

 そう息を切らしながら僕に言った。

「すずえ!どうしたの?」

「あのさ、私、もうソウジに会えないんだ。」

 急にすずえが現れ、そう唐突に言うもんだから僕の頭はついていけなくなっていた。

「え、なんで?」

「い、、色々あってさ。だからこれ、手紙渡したくてさ!」

 まだ少ししか会ったこともないのに手紙だなんて大げさだなと思いつつすずえから手紙を受け取った。

「ソウジには私のこと忘れてほしくなくてさ!じゃあね!」

 そう現れてはまた僕の元を去っていった。一体何だったんだと思いながら手紙を開けた。感謝の気持や、僕への思いなど、内容は薄く別に渡さなくても良かったんじゃないかと思える。だが最後の一文は今までの僕の思いをひっくり返すような内容だった。

『ソウジが将来画家になったら私がソウジのファン第一号だからね!』

 この一文を読んで僕は涙を流した。そして僕はこの文章で画家になる夢を絶対に諦めたくないと、胸の中で誓った。

 しかし、すずえともう会えないと言うことはどういうことなのだろう。引っ越したならそう言ってくれてもいいのにと思い、もう一度手紙の文面を見た。最後の文章を見て僕はある程度の理由を悟った。僕はもう鈴江には二度と会えないかもしれないと言うことが分かった。あまり書かないから書くのになれていないのだろう。歪んだ字で自分の名前が記されていた。

『槇本鈴江より』

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