第3話 醜くて穢い猿
その獣は折り曲げた長い手足を順に動かして、女子生徒たちの周囲を這いまわり始めた。態勢は低く、長い毛で覆われた腹は今にも床につきそうだった。毛の先には泥のような黒い塊がこびりつき、束になっている。猿に似た赤ら顔は溢れた黄色い目ヤニで汚れ、閉じられた瞼の下で眼球が忙しなく動いていた。
私は拳を握りしめた。獣への不快感で、眉間にしわが寄る。廊下の先で教師が男子生徒と話しているほかに周囲には誰もおらず、鋭い爪で床を掻く音がカチカチと響いていた。
「
一人に名前を呼ばれ、私は獣から目を離して顔を上げた。幼馴染の
隣に立っていたもう一人が「えっ」と驚きを口にした後、杏奈の耳に顔を寄せた。
「……杏奈、恵比寿さんと知り合いなの?」
「小・中・高と一緒なんだ」
選択肢が少ないこともあり、地元の高校には小学校から同じという生徒が何人もいた。杏奈もその一人だが、もう一人は知らない顔だった。私は彼女に訊いた。
「アンタは?」
「
私と目が合うと、久留米さんは視線を床に向けた。警戒する様子から見て、彼女は私の名前だけでなく噂も知っているのだろう。どこまで知っているか分からないが、私には関係のない事だった。
「杏奈、久留米さん。アンタらに悪霊が憑いている。除霊するから、ちょっと時間ちょうだい」
除霊という言葉に反応したのか、獣の動きが激しくなる。杏奈と久留米さんに獣の姿は見えていないようだが、気配は感じているらしい。二人の目が左右に揺れた。杏奈が言う。
「あっ、悪霊って……」
「
そう言って私は握りしめていた拳を掲げた。久留米さんが「ひっ」と短い悲鳴を上げる。声を聞きつけ、教師が首を巡らせた。
「お~い、なにかトラブルか?」
「なんでもありませ~ん」
杏奈が振り向いて、教師に明るく手を振った。顔を戻して、溜め息をつく。
「場所を変えよう」
「わかった」
さすがの私でも、一日に二度も呼び出しを食らうのはごめんだった。まだ100回記念も祝っていない。
杏奈の提案で、私たちは学校近くの公園へ行くことになった。
「綾香は……生まれつきだっけ? 霊感があってね」
道すがら久留米さんへ説明する杏奈に、私は頷いた。私はある時から霊が視えることを隠すのをやめていた。霊感について
久留米さんは親の転勤で、中学卒業後に引っ越して来たそうだ。彼女は私に霊感があることに驚き、
「除霊って、塩でも撒くの?」
と訊いてきた。反応から見て、半信半疑といったところだろう。私は手短に答えた。
「いや、殴る」
学校を離れてしばらくしない内に、汗がダラダラと流れてきた。杏奈と久留米さんは暑さにやられたのか、足取りが鈍い。私は途中にあった自動販売機の前で立ち止まった。これから獣――穢い猿を殴るなら、熱中症対策が必要だろう。塩レモンと塩ライチの塩バニラオレという塩分過多な夏季限定ドリンクを避け、コーラを選ぶ。
杏奈と久留米さんがそれぞれ飲み物を選んでいる間に、私は穢い猿を観察した。
目やにで覆われた目は閉じられたままだが、穢い猿は一定の距離を守りながら二人についてきている。私は湧き出る不快感をコーラの炭酸で流し込んだ。キャップを閉じながら二人に問う。
「アンタたち、夏休みにどこか心霊スポットでも行ったの?」
穢い猿の息は荒く、時折威嚇するように歯をむき出しにしていた。猫や犬、鳥の霊を見たことはあったが、猿は初めてだった。執着の仕方から考えると、自分を殺した相手を恨んでいるようにも見える。二人が猿殺しとは思えないから、よほど厄介な場所にでも足を踏み入れたのだろう。
二人は顔を見合わせた。
「どこって……」
「ねぇ?」
杏奈から除霊に必要なのかを問われ、私は追及するのをやめた。これから消し去る奴のことなんて知る必要はない。ムカつく奴は殴る、ただそれだけだった。
高台にある公園には誰もいなかった。朝にけたたましく鳴いていたセミも、上昇した気温に負けていた。
「で、除霊ってどんぐらい時間かかるの?」
アイスティーのボトルを当てた首を、杏奈は左右に動かした。正午を迎え、日陰はほとんどない。
「そんなにかからない――」
タチの悪い奴でも5発ほど拳を当てれば、たいていが消える。
「――何か予定でもあんの?」
「病院。なんか目が見づらくてさぁ」
そう言って、杏奈は久留米さんを振り返った。久留米さんはボトルを傾けて一口飲んでから、顔をしかめた。
「目やにもヒドいんだよね」
「あっ、ひょっとしてレーショーってやつ?」
杏奈が言いたいのは霊障のことだろう。目に影響が出ているのなら、二人の歩行が怪しかったのもうなずける。
私は
「だろうね」
と言って穢い猿を見た。目は閉じられたままだが、立ち止まった二人から顔をそらすことなく這いまわっていた。私はコーラを飲み、カバンをベンチに置いた。
「じゃあ二人とも。今から穢い猿をぶん殴るから、そこで大人しくしてて」
私が言うと、二人は肩を寄せ合った。不安そうに、杏奈はペットボトルを両手に握りしめた。
「えっと、アタシたちはどうすりゃいいわけ?」
「特に何も。ああ、でも、何か見えても騒いだり逃げたりすんなよ……めんどくさいから」
私は無言で頷く二人の足元に狙いを定めて走り出した。穢い猿が動きを止める。目ヤニだらけの顔はいかにも不潔だった。拳をお見舞いするのを
「さっさと失せやがれ、この穢え化け物がっ!!」
穢い猿は長い手足を伸ばして地面に突っ伏した。私は下ろした足を軸に、反対の足で猿の背中を踏みつける。
「この、このっ」
地面にめり込ませるつもりで、私は何度も足を上下させた。毛に絡まった黒い泥のような塊が地面に飛び散る。周囲が黒く染まっても、穢い猿が消える気配はなかった。
長い手足を曲げるのが目に入り、私は飛びずさった。
「……恵比寿さん?」
久留米さんに呼びかけられたが、返事をする余裕はない。
(少しも効いてる感じがしねえ……! なんだコイツ……!)
普段と異なる感覚に、私は戸惑いを覚え始めていた。穢い猿は首を上げると、膝を曲げたまま上体を起こした。だらりと伸びた手が、地面をこする。猿は私に顔を向け、閉じていた目をゆっくりと開いた。
乾いた目ヤニはパラパラと地面に落ち、まだ湿った目ヤニが糸を引く。
「――ッ!!」
穢い猿の目に捉えられ、私は息をのんだ。
――穴が開いているのかと思った。
光を映さない真っ黒な瞳が、私を見返していた。視線をそらそうとしても動けない。私は瞬きすらできず、何かに吸い寄せられるかのように猿を見つめ続けた。
目が熱い。
まるで目の奥で湯を沸かしているかのように、ふつふつと何か湧き上がってくるのを感じた。徐々に熱が増し、沸騰すると“それ”は吹きこぼれて目から溢れた。頬を生暖かい“それ”が伝う。涙とは違う感触に、私は震える手で“それ”を拭った。
手に血がついていた。
「ああああああああッ!!」
血を認識した途端、熱は痛みへと変化した。頭へと突き抜けるような激痛に、私は思わず膝をついた。
「あっ、綾香?」
「恵比寿さん、目から血が……」
杏奈と久留米さんが心配を口にする。
目をこすっても出血は治まらず、勢いを増すばかりだった。あまりの痛さに、私は血の付いた両手を地面についた。目から落ちた血がボタボタと染みを作る。私は垂れた髪に砂がつくのも構わずにうずくまった。
全身が焼けるように熱くて痛い。体の内側から発せられる痛みは、どうすることもできなかった。
(この穢い化け物風情がっ……!)
消し去ることのできない痛みに、私は激しい怒りを感じた。手についた砂利を握りしめて立ち上がる。血に染まった目で穢い猿を睨みつけると、もう見るものがないとばかりに背を向けられた。手を下し、穢い猿は四つん這いになって動き出した。
「待て、このっ」
私は猿を追いかけようと足に力を入れた。誰かに腕を掴まれる。
「大丈夫、恵比寿さん?」
久留米さんだった。彼女に続いて杏奈が言う。
「綾香……もう止めときなよ」
「うるさいっ! 引っ込んでて!」
私は二人に向かって怒鳴った。久留米さんの手を振りほどいて走り出す。私は腹が立って仕方がなかった。いつもと勝手が違うことにイライラしていた。あんな醜くて穢い猿に負けることが、我慢ならなかった。
流れ続ける血で視界は赤くなり、体がバラバラになりそうなほど痛む。私は頬に貼り付いた髪を無造作に剥がした。指先の血は暑さで乾いていた。
坂を駆け下りると、穢い猿の姿はすぐに見つかった。長い手足を激しく動かして、入り組んだ住宅街を抜けている。猿は青い自動販売機の陰に消えた。
「逃がすかよっ!」
速度を上げ、私も自動販売機の角を曲がった。そこには生垣とブロック塀に挟まれた路地が伸びていた。側溝のふたが石畳に見えるほど狭く、湾曲した道の先は見通せない。流れてくる血を
「邪魔だ、どけっ!」
私の行く手を阻む男に叫んで、横を通り過ぎようとした時だった。
男が腕を出した。
私は男の腕を喉に食らい、後ろに倒れた。頭は無事だったが、肩と背中を打ち付ける。
「テッメェ……」
喉が潰れ、私は
男の声が降って来た。
「お前が噂の化け物女なら、馬鹿者女の間違いだったかもな」
何も見えなくなり、私は意識を失った。
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