第2話 遠い光と、触れられない想い

 週末の街は、年の瀬の賑わいを帯びていた。早乙女 葵は、いつものように、きらめく光の中心にいた。流行りの服に身を包み、友人たちの笑い声に囲まれながら、彼女は完璧な「早乙女 葵」を演じていた。派手で、明るくて、悩みなんて一つもないように見える、太陽のような自分。


 しかし、賑やかなグループの中でも、葵の視線は常に図書館の窓の向こうにいる誰かを探していた。学校では、月ヶ瀬 雫を見かけても、大勢の友人に囲まれている自分からは、声をかけることすらできない。雫がいつも静かに本を読んでいるように、葵もまた、賑やかさという名の孤独の中で、遠くから彼女を見つめることしか許されていないのだ。


(ああ、今日も話せないな…)


 このもどかしさが、葵の胸にチクチクとした痛みを刻む。雫の前でだけ、飾り気のない「普通の女の子」になれるのに、その機会は図書室という特別な密室でしか訪れない。


 友人の一人が雑貨屋に気を取られている間に、葵はふと、隣に併設された本屋のカフェに目を向けた。大きなガラス窓の向こう、深緑のソファ席。街の喧騒から隔絶された、静かで穏やかな空間。


 そこに、いた。


 厚いコートに身を包み、いつもと同じ黒い髪を一つに結んだ、月ヶ瀬 雫が。


 彼女のそばには、飲みかけのココアと、一冊の文庫本が置かれている。彼女の周りの空気が、まるでアクアリウムのように美しく見えた。街の騒音も、カフェのかすかなBGMも、彼女には届いていないかのように、ただ自分の世界に沈んでいる。


(…なんで、こんなところに?)


 葵の心臓が、突然、激しく鼓動を始めた。それはまるで、遠い星の光が、時間を超えて今、目の前でまたたいたような衝撃だった。


「ごめん、ちょっと、あっちのコスメが見たいんだ。先に行っててくれる?」


 理由をでっちあげ、友人たちの疑問の視線を無視して、葵はカフェの入り口へと向かった。その足取りは、いつもの軽やかなものではなく、何か恐ろしい秘密に誘われているかのように、緊張と興奮で震えていた。


 カフェの扉を開けると、そこは琥珀色の光と、焙煎されたコーヒーの香りで満たされていた。


 雫は、まだ気づいていない。


 葵は息を殺し、彼女から数メートル離れた席に、そっと腰を下ろした。普段の「太陽」の自分なら、迷いなく声をかけただろう。しかし、今の葵は、普通の女の子に戻っていた。声をかけたら、この奇跡のような静寂が壊れてしまうのではないかという、切ないほどの恐れがあった。


 二人の間にある、たった数メートル。それは、学校という日常では決して越えられなかった、世界の断絶の距離だ。今なら、その距離を縮められる。


 葵は、勇気を振り絞って、小声で呼びかけた。


「…月ヶ瀬さん。」


 雫は、ゆっくりと顔を上げた。その澄んだ瞳に、葵の姿が映った瞬間、まるで絵画の静寂が破られたかのように、彼女の表情に微かな驚きと、戸惑い、そしてわずかな安堵が浮かんだ。


「…早乙女、さん?」


 雫の声は、カフェの音に吸い込まれそうなくらい細い。


「…まさか、ここにいるなんて。」


「あ、はい…すみません。」


 雫は、なぜか謝るようにうつむいた。彼女は、自分の世界に誰かが踏み込むことに、慣れていないのだ。


「…一人、ですか?」


 葵が尋ねると、雫は小さく頷いた。


「…友達と一緒じゃ、ないんですね。」


「ええ。…こういう場所の方が、落ち着くので。」


 この「落ち着く」という言葉に、葵の胸は締め付けられた。雫が一人でいることを、喜んではいけないのに、彼女だけの静かな世界に、自分が招かれたような気がしてしまったからだ。


 葵は、自分の席からそっと立ち上がり、雫の向かいの椅子を引いた。その音は、まるで契約の音のように響いた。


「…ここ、いいかな。」


 雫は、驚いたように一瞬息を止めたが、すぐに柔らかな目元を緩めた。


「はい…どうぞ。」


 向き合って座ると、テーブルの上のココアから立ち上る湯気が、二人の顔の間をゆっくりと、優しく漂う。


 雫は、言葉で自分の気持ちを表現することが、極端に苦手だ。しかし、彼女が今、逃げずに、静かにそこに座っていること。それは、彼女にとって最大の肯定であり、最も雄弁な愛情表現なのだと、葵には痛いほど理解できた。


(ここにいるのが、私で良かった。)


 葵は、いつもの派手な笑顔ではなく、本当に心から笑った。その笑顔は、冬の光のように優しく、切なく、雫の心を照らした。


 彼女は、自分の手を、テーブルの上の雫の文庫本のすぐそばに置いた。触れることはしない。ただ、すぐ隣に。


「ねえ、月ヶ瀬さん。この間、図書室で話したこと…また、聞かせてほしいな。」


 その言葉は、賑やかな街と静かな図書室の間の、境界線を優しく壊す、二人だけの合図だった。窓の外は、すでに夕暮れの色に染まり、カフェの琥珀色の光が、二人の手の距離を、甘く、切なく照らしていた。


 早乙女 葵は、向かいに座る月ヶ瀬 雫を見た。琥珀色のカフェの照明が、雫の白い頬をほんのり照らしている。普段、賑やかさの中に身を置く葵には、この静寂は少しばかり違和感があった。しかし、雫と二人きりのこの沈黙は、切ないほど優しく、葵の心に沁み込んでいった。


 雫は、視線をテーブルの上のココアに向けている。彼女は、何かを言いたそうに、白い指先でマグカップの縁をそっと、何度もなぞっていた。


(…月ヶ瀬さんも、私と同じように、ちょっと緊張してるのかな。)


 葵はそう思い、嬉しさと同時に、この静けさを破るのが怖かった。図書室のあの時、触れた手の温もりだけが、今、この瞬間も二人の間に残っている唯一の「繋がり」のようだったからだ。


「あの…」


 二人の声が、同時に重なった。そして、また静寂。


 葵は思わず笑ってしまいそうになったが、ぐっとこらえ、雫に「どうぞ」と優しく促した。


 雫は、うつむいたまま、絞り出すように小さな声で言った。


「…その、早乙女さんが来てくれて…少し、驚きました。」


「ごめんね、いきなり。」


「いいえ…。その…嬉しかったです。」


「嬉しかった」――その、たった五文字の言葉が、雫の口から発せられた。言葉を苦手とする雫にとって、それは最大限の、そして唯一の、飾り気のない感情の表現だった。葵の胸の奥で、張り詰めていた何かが、静かに溶けていくのを感じた。


 しかし、それ以上の言葉は続かない。雫は、テーブルに置かれた自分の文庫本を、そっと葵の方へ滑らせた。


「…これ。」


「え?」


 葵が受け取ると、その本は、以前図書室で見せた詩集ではなかった。少し古びた装丁の、外国の小説だ。


「この本…主人公が、誰にも理解されない孤独な気持ちを抱えていて…でも、たった一人、自分を眩しいほどにまっすぐ見てくれる人と出会うんです。」


 雫は、本の表紙ではなく、葵の瞳を見つめた。その瞳は、逃げることをやめ、勇気を持って葵の「太陽の光」を受け入れている。


「私…言葉で上手く言えないから。でも、その…この主人公の気持ちが、今の私と、少し似ていて。」


 葵は、雫の真意を理解した瞬間、胸が熱くなるのを感じた。


(彼女は、本を使って、私に気持ちを伝えてくれたんだ。)


「眩しいほどにまっすぐ見てくれる人」――それは、雫にとっての「早乙女 葵」。そして、葵にとっての「月ヶ瀬 雫」もまた、自分の偽りのない姿を見せられる、唯一の静かで美しい光なのだ。


 葵は、周りの目を気にすることもなく、自分の化粧気のない左手を、テーブルの上にそっと広げた。普段の彼女なら、指輪やネイルで飾られた右手を出すだろう。だが、今は、雫の前。「普通の女の子」の自分を見せたい。


「月ヶ瀬さん。私ね…いつもああやって、友達と笑ってるけど…本当は、ちょっと疲れるの。」


 葵は、声を一段落として、秘密を打ち明けるように続けた。


「みんなに合わせて、明るくしなくちゃって。…でも、月ヶ瀬さんといる時だけ、こうして、黙っていても許される気がする。なんか、全部脱ぎ捨てて、ここにいられる。」


 雫は、その言葉を聞いて、初めてはっきりと微笑んだ。その微笑みは、雪解け水のように清らかで、葵の心に深く、甘く響いた。


 彼女は、葵の広げられた手のひらに、そっと自分の指先で触れた。それは、ほんの一瞬、確認するかのような、ためらいがちで、しかし確かな触れ方だった。


「…私も、です。早乙女さんといると、その…安心します。」


 外は、もうすっかり暗くなり、街のイルミネーションが、ガラス窓に反射してきらめいている。


 ぎこちない二人の間に流れるのは、もはや沈黙ではなく、互いを思いやる、優しくて、切ない心の温度だけだった。このカフェが、そしてこの本が、二人の秘密の接点になった。

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