第23話 Sinking through the sea of stars.

 胸に刺さった棘のような感情が、残り続けている。

 チカとアキが結ばれた、存在しない世界。それを見届けた私は、自分の手でその世界を消した。二人の想いも、二人の未来も今やどこにもなく、ただ記録された履歴と私の記憶がそれを覚えているのみ。

 しかし、フユの指摘も正しい。私は調査のためにシミュレーションをしているのだ、存在しない世界の人物に肩入れしすぎない方がいいのは確かだろう。

 胸の痛みを忘れるために、ラプラスダイバーを起動した。


「今回はラクがアキと最初に出会う世界を……あれ?」

 ラプラスダイバーで存在しない世界を再現する際はそれらしい未来の分岐を拾うのだが、ラクが最初にアキと出会う分岐が見つからない。それもそのはず、実際はまずフユが人間界に来てアキと出会い、それを見たチカが人間界に遊びに来て、途中からラクがチカに着いて来たという流れがあるためである。

「仕方ない、まず前回と同じくフユはアキと会わず、チカもアキと会わず……ラクが人間界に来る理由がなさすぎるな、チカはラクを置いて人間界の何処かをほっつき歩いていることにでもするか」

 現実世界から大きく離れたシミュレーションが始まり、私はその中に足を踏み入れた。



 ──放課後の校舎裏は、いつものように静かだった。オレンジ色の夕陽も、雰囲気もいつもの通り。

 いつものように、校舎の長い影がかかったブロック塀に座ろうとしたアキ。しかし。

「……?」

 そこには、先客がいた。


 水色の髪をした長身の女の子。制服を着ていないし、校内で見た覚えもない。年代は近そうだし、もしかしたら別学年の生徒かもしれないけど、なんだかそうでもない気がした。

 その子はぺしょぺしょと泣いている。なにか悲しいことがあったのだろうか。それにしても、なぜここで?

「あの……大丈夫?」

 声をかけると、女の子は一瞬ビクッとし、その後僕をじっと見つめ、少し安心したように顔をほころばせた。


 話を聞いたところによると、彼女の名前はラク。友人を探しているらしい。

 しかし、何らかのショックによる記憶喪失なのだろうか。チカという友人の名前以外、ろくに覚えていないようだった。なぜ学校にいたのか聞いてみたが、そもそも学校とは何なのかも覚えていないらしい。

「警察……いや、病院か……?」

 正直、記憶喪失の女の子だなんて、僕にどうにかできる範囲を超えている。学校とも関係なさそうだし、先生たちに引き渡すと不審者扱いをされかねない。

 そうなると警察のような公的機関に預けるのが最善のはず、だが。まずはもうちょっと詳しく話を聞いてみよう。

「痛いところとかない? 事故とかに遭ったのかも……」

「痛いところは、ない、です……」

 なら、なにかショックな出来事でもあったのだろうか。そうなると、無理にチカっていう友達について尋ねるのも良くないのかもしれない。その子がきっかけなのかもしれないし。


 しかし、もう日が暮れてしまう。悩んでいると、ラクが口を開いた。

「……アキ、ちゃん?」

 ちゃん……?

「な、なに?」

「なにも、わからなくて、怖いの……一緒に、いてくれる……?」

「いいよ。記憶喪失の子を置いていくわけにもいかないし」

 そう答えると、ラクの顔がふわっとした笑顔になる。

「暗くなっちゃうから移動したほうが良いかな。ラク、歩ける?」

「たくさん歩いたから、足、動かないかも……」

「じゃあおぶっていくよ」

 学生鞄を前側に移し、ラクをおぶる。

「……!?」

 想像していたよりも、ずっと軽い。羽根のようだという喩えがしっくりくるような──待て、鞄より軽くないか? 女の子をおぶったことなんてないけれど、それを踏まえても異常な軽さだ。ラクは僕より少し背が高いくらいなのに。

「すぅ……」

 しかも、ラクはすぐに眠ってしまった。警戒されていないということ自体は嬉しいが、今後どうするかを僕一人で考えなきゃいけなくなった。

 たぶん体力がなく、体重の軽さからも踏まえると、ずっと病室とかにいた女の子なのかなとも考えた。しかし、このあたりに病室があるような大きな病院はない。そんな遠くから来たとも考えにくいし。

 誘拐事件とかに巻き込まれてショックで記憶喪失になった、にしても。探している友達との関係もわからないし、どうやって犯人から逃げたんだという話になるだろう。なにより、警察に預けたらラクはとんでもなく怖がるであろう。

「だったら、一旦は家に連れ帰るしかないかぁ……」

 少なくとも、今はそれが一番の選択肢なはずだ。完全に暗くなる前に家に帰ってしまおう。

 ……明日の授業は欠席かなぁ。



 翌朝。なんだか変な感触で目を覚ます。

「……?」

 ラクが僕の頬をつねっていた。

「アキちゃん、おはようだよぉ~」

「おはよう、ラク。体調は大丈夫?」

 そう尋ねると、ラクはしなだれかかってくる。……距離感が近い。

「元気になったよぉ~、ありがとうねぇ~」

 昨日に比べると、体調も気持ちもだいぶ落ち着いていそうである。

「とりあえず、朝ご飯にしよっか。今日は僕も学校休んで家にいるからさ」

 そう伝えると、ラクの表情が明るくなる。

「やったぁ、何かあったら手伝うねぇ~」

 こうして、ふわふわとした一日が始まった。


 朝ご飯を食べた後。

「ラク、何か思い出したことはある?」

 そう聞くと、ラクはもじもじし始める。

「……アキちゃんなら大丈夫、かな」

 そんなことを呟いたように思えたラクは、僕と目を合わせた。

「アキちゃん、昨日なにもわからなかったのは本当なんだけどね、記憶喪失ってわけじゃないの」

「どういうこと?」

「ほんとに、来たばっかりで、何も知らなかったの」

「……?」

 困惑していると、突如ラクの背中が淡く光る。

 綿? いや、これは……。

「わたし、天界から来た、天使なんだ」

 綿菓子のようなふわふわの羽根を背負ったラクが、僕に向けてはにかんだ笑みを浮かべた。

 それを見た僕の脳内に浮かんだのは、困惑でも、驚きでもなく。

「……ようこそ、ラク」

 ラクの文字通り浮世離れした様子への納得と。

「……! よろしく、アキちゃん!」

 この子の手を取らなきゃ、という気持ちだけだった。



 あれから一日中、ラクに人間界の一般常識を教えたり、天界の話を聞いたりして、お腹が空いたらご飯やおやつを食べるだけの時間を過ごした。

 だいぶ慣れてくれたらしいことは嬉しい、けれど。

「アキちゃん、お風呂一緒に入ろぉ~?」

「流石にダメだよ、ラク……」

 距離感が近すぎるよ、流石に異性は……。

「わたしは気にしないよぉ~?」

「僕が気にするの」

「むぅ」

 頭を抱えていると、ラクがじっと僕の目を覗き込んでくる。

「気にしなくていいよぉ、一緒にふわふわになろぉ~?」

 ラクのヘアピンが淡く光ってるような気がする。その光を見ていると、なんだか大丈夫そうな気がしてきた。ラクが気にしないのならいいかぁ……。


「うわーっ、羽根ってこんな風になってるんだ!」

 ラクのふわふわな羽根を石鹸であわあわにしながら、優しく洗っていく。

「わたしは羽ばたくタイプじゃないからねぇ~」

「じゃあ鳥みたいな羽根の天使もいるの?」

「いるよぉ~、羽根は天使の個性や性格が出るところなんだよぉ~」

「じゃあさ、機械みたいな羽根の天使とか……」

「いたよぉ~、知り合いじゃないけどねぇ~」

「絶対かっこいいじゃん!」

「でも取り外さないとお風呂入れないよぉ~?」

「うーん、確かに不便かも……」

 そんな会話をしながら、ラクの羽根をシャワーで流す。その後、ラクは流し終えた羽根を少し萎ませて、大きなお団子のようにまとめた。鳥の羽根みたく骨とかが入ってないと、こういうこともできるらしい。

「あったかいねぇ~」

 体を洗う僕の隣でお湯に浸かるラクが、気の抜けた声を出す。

「天界のお風呂ってどんな感じなの?」

「ある程度の量のお湯が浮かんでて、身体をちょっとずつ洗ってく感じなんだよぉ~。こうやってお湯をいっぱい使えるのは人間界の良いところだねぇ~」

「そうなんだ、やっぱりゆったり入れる方がいいよねー」

「ふわふわな気持ちだねぇ~」

 そんなこんなしているうちに、体を洗い終わった。バスタブは一人分の大きさしかないし、ラクが上がるまで待とうかな。

「ん、アキちゃん体洗い終わった?」

「うん、でも急がなくて大丈夫だよ」

「うん? ちょっと狭いかもだけど、一緒に入ろうよぉ」

 ラクは端っこに寄って──待って、僕の上に乗ろうとしてる? まあいいか。

 浴槽に入ると、案の定ラクが僕に背中を預けてきた。ただでさえ軽いのに、浮力でほとんど重さを感じない。

「やっぱり、あったかいねぇ~」

「お風呂っていいよね」

「うん、アキちゃんと一緒ならもっといいねぇ~」

 僕たちはしばらくそうやってのんびりしていた。


 寝る用意を終えて布団を敷いていると、ラクが羽根を広げて揺すりだす。

「どうしたの?」

「わたしの羽根よりあったかい羽根布団はないよぉ~?」

 なるほど、対抗意識か。布団をライバル視する女の子がいるとは思わなかった。

「じゃあ、お願いしようかな」

「えへへ、わかったよぉ~」

 寝転がると、ラクが真横に張り付いてくる。そのまま羽根が僕を覆うが、これでは羽根布団というより抱き枕では?

「アキちゃん、おやすみのキスしてぇ~?」

「キスはまだダメだよ……付き合ってからじゃないと」

「じゃあ付き合っちゃおうよ、一緒にお風呂入って一緒に寝てるんだよぉ~?」

 なるほど、確かに。あれ、そういえばなんで一緒にお風呂入ったんだっけ? まあいいか。

「ラクは僕でいいの?」

「アキちゃんが、いいの」

「……うん。僕も、ラクがいい」

「じゃあ、決まりだねぇ~」

 ラクのふわっとした眼差しが僕の視線を受け止める。契約完了とばかりに、甘い綿あめのような唇が僕の口元に優しく触れた。

「それじゃあ、次はおやすみのキスだねぇ~」

「あ、それはそれでやるんだ……」



「……またか」

 チカと結ばれた世界と同じように、今回もまた甘々なやり取りを見せつけられている。別にそれが見たくてシミュレーションしているわけではないのだが。

 それにしても。フユとの交際は出会ってから二週間弱、チカとは一ヶ月弱。魔導具まで使ってありとあらゆる点でズルをしたラクは例外とすると、アキと一番相性が良い天使はやはりフユなのだろう。気に食わないな……。


 脱線しそうなので目的を整理する。「天使の感情について」は、人間界での調査が難しいのかもしれない。人間界でいくら天使が感情を動かしても、天界でのように質量を伴うことがないためだ。つまり、この調査をするためには天界に行く必要がある。

 もう一つ、「天使の在り方について」。これはアキとラクの最終的な関係性を見て判断することになるだろう。ただ、前回のチカの時と違う結果になるとも思いづらいが。

「アプローチを変えてみるか……?」

 ラプラスダイバーでシミュレーションを始める時には過去や未来の分岐を拾ったりするのだが、シミュレーションを進めた結果そのものを拾うこともできるはずだ。つまり、「今いる世界の出来事を操作して好きな方向に捻じ曲げた世界」のシミュレーションもできるはず。

 しかし。

「……ないな」

 いくら仮初の存在とはいえ、友人を自らの手で不幸にするのは気持ちの良いものではない。ただでさえ幸せな世界のシミュレーションを終了させることも躊躇してしまうというのに。

 例えば、ラクがここから暴走し、アキや周囲に対して魔導具を乱用して天界の介入を招くようなシミュレーションを行えば「天使の感情について」の調査は進むだろう。だが、そんな世界は見たくない。

「しょうがない、フユに頼るか」


「……で、ユキはわたしに相談しに来たってわけだ。友達想いじゃん」

 やっぱりフユは頼りになる。シミュレーション内の存在にも関わらず、自分が仮初の存在であることを平然と受け入れ、あまつさえ観測者である私の相談に乗ってくれるのだから。

「まあ、わたしでもそんなことしたくないってなると思うよ。しょうがないね」

「そうは思うのだが……調査が進まないのも考えものでな」

「じゃあさ、ほっといても発生するような大事件だけ調べるってのは? 現実世界でも起きるかもってことだし、事件の発生予防にも役立つと思うんだよね」

「それも考えたのだが、あんまりそういう事件が起こらなさそうでな」

「それもそれでいいじゃん、平和ってことで」

 にひひ、と笑うフユ。

「まあ、そんな事件が勝手に起こるようなら、わざわざユキが介入しなくても見てるだけでいいんだもんね。そもそも、なんで感情について調べてるの?」

 話すべきか、迷ったが。

「……フユに、天界に戻ってきてほしいんだ。詳しい経緯は伏せるが、そのために天界で感情に質量が伴う理由、人間界で感情が増大しやすい理由を知る必要がある」

「……わたし、天界に戻るつもりないけど」

「それは知っているが、戻らないのと戻れないのでは状況が違うだろう」

「まあ、そうかも?」

「それに……まあ、いいか」

「えーっ、気になるじゃん」

 ──万が一私が人間界で暮らすことになったとして、絶対に天界に戻れなくなるというのはやっぱり怖いからな。



 その後、数日が過ぎた。

 私はアキとラクを軽く観察しつつ、フユと会話するだけの日々を過ごしていた。

「そういえば、わたしたちがラクの元に遊びに行く分には特に止められてないよね?」

「ダメではないが、なぜ……?」

「近くにいるなら、友達の顔を見るくらいいいかなって」

 まあ、私も別にアキの家を張り込んで監視しているわけではない。会っても問題はないはずだ。


 アキが学校に残っているタイミングで、フユと一緒にラクを訪ねた。

「ラク~! ちょっとお話しよ~!」

 フユがインターホンを押し、何も要件の伝わらない挨拶をする。

「フユ、ちゃん……?」

「ほら、ラクが驚いているだろう」

「……ユキちゃんもいるの?」

 ラクは人見知りだからな。いきなり押しかけたらこの反応になるのも仕方ないだろう。


 扉が開くと、不安げな顔をしたラクが出てきた。

「どうしたの、フユちゃん、ユキちゃん?」

「ラクがウチのクラスのアキと一緒に住んでるって聞いてね。近くにいるなら友達の顔を見ときたいなって」

「……フユちゃん、アキちゃんと同じクラスなの?」

「そうだよー、話したことはないけどね」

 フユがそう答えると、ラクが動揺したような様子を見せ、その後決心したかのようにこちらを見据える。

「そっか。……悪いけど、二人とも、アキちゃんのことは忘れてもらうね」

「ラク……?」

「……フユちゃんは、アキちゃんに会っちゃダメなの!」

 ラクのヘアピン──魔導具「認識ふわふわヘアピン」──が光を放ち始める。フユが何かに気付いたようにこちらを見る。

「ユキ! 今すぐシミュレーションから出て!」

「フユ!?」

「ユキがアキのこと忘れたらマズいでしょ!」

 そう叫びながら、フユはラクに飛びつく。

「きゃっ!? ……わたしたちの邪魔、しないでよぉ!」

 ラクの悲鳴を後に、フユの稼いだ隙を使って、私は逃げるようにシミュレーションから退出した。



「……私のミスだ」

 恐らく、ラクはアキと関わる中で、アキとフユの相性が良いであろうことを感じていたのだろう。

 そんな中、フユが人間界に居て、アキと同じ学校の同じクラスにいるというのは明確な脅威になるはずだ。アキを取られるかも、と恐怖してもおかしくない。魔導具で認識に干渉してアキのことを忘れさせる、というのはラクにとって唯一の選択肢だったのだろう。

 ……あれからずっと、ラクの悲痛な叫びが耳にこびりついている。

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