第五話
翡翠の脳内はすでに暴風圏内だった。荒波に翻弄される小舟よろしく、思考は絡まり倒れて——着岸先は、なし。
(……怖い。ぶたれる。……それに、はしたない!こんなの、お父様とお兄様たちにみられたら……ただじゃすまない!)
月蘭の身体は恐怖で震え通しだが、その震えの裏で翡翠は翡翠で別の格闘をしていた。
(急所なら蹴れる。いや、相手は宦官かもしれない。気を逸らして隙を作るか?この火事でさえできないことを試すのはやめとこう。ならば……)
(……って、これ壁ドンじゃないか!?神様、趣味悪くないですか?)
前世はいつも色仕掛けする側だった翡翠は、元加害者として心が痛い。
琥珀色の瞳は、翡翠の顔をじっと射抜いていた。息遣いひとつなく、ただ観察するような視線。翡翠は瞬きを抑え、表面上は怯えた少女を演じ続ける。だが、内心では脱出経路を急速に計算していた。壁際、男の腕が退路を塞ぐ。背後には廊下の曲がり角。力任せは無理——この身体の筋力では、相手の袖を引っ張るだけで精一杯だろう。
「お前、逃げようとしているな。」
男の低い声に、肩がわずかに強張る。月蘭の感情が滲み、涙腺が緩みそうになるが、翡翠はそれを冷たく押し殺した。泣くのは最後の手段。まずは、隙を待つ。
その瞬間——
「妃様が火傷を! 早く侍医を!」
風花亭の方から、叫び声が響いた。混乱の波が廊下まで広がり、煙の匂いが強くなる。男の視線が一瞬、声の方向へ逸れた。琥珀の瞳にわずかな揺らぎ。集中が解けた——今だ。
翡翠は即座に動いた。膝を折り、身体を低く沈め、男の足の間にスライディングで潜り抜ける。砂利の摩擦で皮膚が擦れ、悲鳴を飲み込む。
くそ、痛い!前世ならこんな幼稚な脱出はしなかったのに、この身体のせいで選択肢が限られる。
「っ……!」
男が反応し、手を伸ばすが、翡翠の身体はすでに抜けていた。地面から立ち上がり、廊下を駆け出す——駆け出そうとする。
月蘭の貧弱な体は言うことを聞かない。足がもつれ、膝がガクガクと震える。呼吸がすぐに乱れ、胸の奥が焼けるように痛む。身体はそろそろ限界を迎えていた。
走れない。まともに走れない。翡翠は歯を食いしばり、壁に手をついて支えながら、よろよろと進んだ。後ろから足音が近づく気配。男の気配が迫る。
(くそ……この身体、玩具どころか、壊れかけの玩具だ!)
思考を回転させる。直進は無理。曲がり角を活用。視界の端に、柱の影が見えた。そこへ滑り込み、息を潜める。男の足音が近づき——通り過ぎる。
翡翠は再び動き出した。廊下の端を這い、脇道へ入る。厨房へ向かう裏道、女官たちの控え室を抜け、庭の茂みへ。息が上がる。肺が潰れそう。だが、止まらない。止まれば終わりだ。
ようやく、部屋の近くまで戻った。翡翠は襖を潜り、寝台に崩れ落ちた。心臓が激しく鳴り、腕と膝の擦過傷に汗が沁みて痛い。だが、逃げ切った。男の気配はもうない。
「……ふう。」
翡翠は深呼吸をし、月蘭の震えがようやく収まる。
彼女はふっと笑った。師匠なら鼻で笑いながら「任務を軽視するな」とぶちぶち説教しただろう。
(今回は、本当にやらかしちゃったな……)
*
翡翠は卓上の灯火に薄く紙障子の影を映しながら、髪をほどいて櫛を通していた。湯浴みも済ませ、そろそろ横になろうかという静かな刻限。外はすでに虫の声も細り、廊下の灯も落ちている。
――その静けさを、何の断りもなく襖を開く音が破った。
ガラリ。
翡翠は振り返るより先に心臓が跳ねた。扉口に立っていたのは、白磁めいた顔に笑みすら浮かべた侍女頭の静霞。その背後で、他の三人の侍女は遠慮という概念を忘れた顔で控えている。
「……何か用ですか。」
翡翠の声は低く抑えられていたが、問いかけを最後まで言い切る前に、静霞はずかずかと床を踏み鳴らしながら中に入った。襖は開け放たれ、夜の冷気がひゅうと入り込む。
「用?あるに決まっているでしょう。あなた、人の前でずいぶん余計なことをしたらしいじゃない。」
静霞は室内を見下ろす位置に立ちながら、唇だけで笑った。取り巻きの侍女たちは肩を寄せ合い、翡翠を見るたびに喉の奥でくすくすと笑いを漏らしている。隠そうともしないあからさまな嘲りだった。
翡翠は眉を寄せた。
「何のことで――」
「何のことかわからないとは言わせないわよ。証拠がないだけで、誰もがあなたを疑っているの。まさか、自分だけ無傷で済むと思ってる?」
静霞は一歩、さらに近づく。その足取りに合わせて、背後で他の三人は楽しげに目を輝かせた。翡翠が反射的に身構えると、静霞はわざとらしく手首を撫でてみせる。
「それに――あの朝のこと、忘れたと思った?」
翡翠の喉が音もなく詰まる。静霞の目が細まり、薄闇の中でもわかるほど冷たく光った。
次の瞬間、空気が湿り気を帯びるのを翡翠は感じた。静霞の指先に集まる蒼白い水気。灯火が揺れ、床板の上にうっすらと冷気が走る。
「肉弾戦が得意と思うなら、今度は避けてみなさいな。魔術相手にどこまで粘れるか、見ものだわ。」
背後で、次女たちが歓楽に満ちたくぐもった笑い声を洩らした。
翡翠は無意識に後ずさる。だが部屋の壁はすぐ背中に触れた。逃げ場は最初から用意されていない。
静霞の指先から、細い鞭のような水がしゅるりと伸び、灯りに濡れた蛇のように揺れながら翡翠の足元を狙う。
翡翠は咄嗟に避けようとするが、水は地を這うように追いすがり、足首に絡みついた。氷のような冷たさが肌を刺し、息が詰まる。
「っ――!」
反射的に手で払おうとしたが、水はまるで意志を持つかのように形を変え、手首へと這い上がる。掴もうとすれば指の間から逃げ、振り払ってもなお締め付ける。
「声も出ないの?骨をへし折る腕っぷしはどうしたのかしら。」
静霞の嘲笑。取り巻きたちは扇で口元を隠すふりをしつつ、肩を揺らして笑う。
翡翠は反撃の手立ても防御の術も知らない。ただ苦しさと寒さに耐えるだけで精一杯だった。逃げようにも足が動かない。水は足首を締め付け、床板に貼り付けるように拘束する。
呼吸が荒くなるたび、悔しさが胸の奥で膨らむ。拳を握っても意味がない。腕を振り上げても、届く前にまた水が絡みつく。身体は生きているのに、力がどこにも届かない。
――これが、魔術。
自分の無知と無力を、今さらながら骨の髄まで思い知らされる。静霞の視線には憎悪よりも優越感が濃く、翡翠を責め立てる言葉より、黙って苦しむ姿こそが望みであるとわかる。
そしてその願いは、何の抵抗もなく叶えられていく。
灯火がふっと揺れ、翡翠の影が歪んだ。呻き声は喉まで来ているのに、零せば余計に嗤われると分かって飲み込む。その沈黙さえ、彼女たちの笑いをさらに甘くした。
静霞は満足げに鞭水を引き絞りながら、ゆっくりと言葉を落とす。
「あなたはね、力があると勘違いしているだけ。こういうのは『本物』っていうのよ。」
翡翠の胸中に渦巻いたのは痛みよりも――焼け付くような、悔恨と屈辱。
逃げられたはずの夜が、ゆっくりと奪われていく音がした。
「思ったより静かで助かるわ。泣き叫ばれても迷惑だから」
言い捨てる静霞の足取りは軽かった。取り巻きの侍女たちは翡翠を一瞥し、にやり、と笑いながらついていった。誰ひとり、振り返らない。残されたのは湿気を含んだ冷気と、濡れた畳の筋だけだった。
扉が閉まる音がしたあと、翡翠はしばらく動けずにいた。冷え切った空気がまだ足首に絡みついているようで、喉の奥から息が抜けるたび、微かな震えが漏れる。
(――どれほど体を鍛え、何度死線をくぐったと思っている。)
閉じた目の裏で、前世の記憶がふっと浮かんだ。剣戟も毒も罠も、全て凌いできた。腕一本で斬ってきたし、足一本で跳んできた。気力と技術だけで権力者すら屈服させたこともある。
なのに。
魔術というだけで、ただ足と手首を縛られただけで、抵抗すらできなかった。
痛みはもう引いているのに、感覚だけが残っていた。触れてもいないはずの水が、まだ皮膚の下で蠢いているように錯覚する。無意識に指を握ったが、手はかすかに震えた。体が思い通りに動かず、その事実が胸に杭のように刺さる。
(……これが、この身体か)
前世の自分なら、あの瞬間に敵の喉笛を噛み切ってでも反撃していた。だが月蘭の体は、走ることさえまともにできず、魔力も弱い。膝をついたまま上体を起こそうとしたが、肺の奥にまだ冷たい痺れが残っていて、息を吸うたびかすかな痛みが走る。
唇を噛んだとき、じわりと鉄の味が滲んだ。情けなさではない、だがそれは苛立ちとも違う。もっと静かな、鈍い衝撃だった。
(敗れたのか?)
その言葉は心の中で呻くように転がった。負けた、と認めたくて言ったわけではない。ただ、思考が自然にその形を取った。
今まで一度も、自分の能力を疑ったことはなかった。周囲が信じずとも、自分だけは己を疑わなかった。その自負だけが生きる糧であり、武器だった。
だが今、自身の手駒のひとつ――剣も毒も術も通じない、異質な力を前に、翡翠は初めて立ち位置を測り損ねたと感じたのだ。
脈が一定に戻るまで、どれほど時間が過ぎたのかもわからない。立ち上がろうとしたとき、足首に力が入らず、痺れと引き攣るような違和感が残っていることに気づいた。畳に触れる足裏が冷え切っている。息を吐くと、胸の奥がひゅう、と鳴った。
布団に身を沈めると、目蓋の裏で再び水の鞭が閃いた。反射的に肩が跳ねる。視線を逸らしたくても、記憶は勝手に蘇る。
――もし次があるなら、どうする。
その問いに即答できなかった。反撃の方法が思いつかないことに、背筋を刺すような薄い恐怖を感じていると気づく。眉間に皺が寄る。
(……恐怖? 私が?)
信じがたい。だが否定する材料がない。悔しさと混ざった得体の知れない感覚が、肺の奥で燻っている。それでも最後に残った思考は、不屈でも怒りでもなかった。
――対処できない武器を、いつまで放置するつもりか。
灯火もない闇の中で、翡翠の瞳だけが薄く開かれる。冷えた呼吸のたびに後遺症の疼きが体を刺したが、その痛みを指先で押し込みながら、翡翠は静かに決めた。
(知らぬままでは終わらせない。奪われたなら、奪い返す。)
夜が更けても瞼は落ちなかった。水の痺れは消えないまま、体の奥のどこかで凍りついた怒りが音もなく根を降ろしていく。
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