【文化祭編】第9話 ハプニング
文化祭一日目の午後の陽光が、体育館の窓から斜めに差し込み、これから始まるであろう祝祭の熱を帯びた埃をキラキラと照らし出していた。特設ステージの緞帳が閉ざされた向こう側からは、観客たちの期待に満ちたざわめきが、まるで地鳴りのように舞台裏まで伝わってくる。開演まで、あと三十分。俺たち1年3組の演劇「秋風のプレリュード」の舞台裏は、キャストとスタッフの最終準備の慌ただしさと、本番特有の心地よい緊張感、そして一種の神聖さすら漂う静けさが、奇妙なコントラストを描いていた。
午前中の出し物巡りでリフレッシュした俺たちだったが、昼食を済ませ、控室である教室に戻ってからは、一気に本番モードへと切り替わっていた。衣装に着替え、プロのメイクさんによって施された舞台メイクをまとった役者たちは、いつもとは全く違う、物語の登場人物そのもののオーラを放っている。彼らはそれぞれの役に入り込もうと、あるいは高まる緊張を紛らわそうと、小声でセリフを呟いたり、軽く体を動かしたり、じっと目を閉じて精神を集中させたりしていた。
大道具、小道具、音響、照明の各スタッフも、最後のチェックに余念がない。舞台袖の薄暗がりの中、ヘッドセットをつけた彼らが、小さな声で指示を交わし合いながら機敏に動き回る姿は、まるで秘密基地の作戦実行前夜のようだ。
監督である俺、雪村恒成は、胸の高鳴りを必死で抑えながら、舞台全体を見渡し、スタッフに細かな指示を飛ばしていた。
「照明、冒頭のシーンのブルーライト、もう少しだけ彩度を落として、もっと幻想的な、夢の中のような雰囲気でいこう。観客を一気に物語の世界に引き込むんだ」
「音響、主人公がタイムリープする瞬間の効果音、あの『キーン』っていう高周波の音、スピーカーが割れないギリギリの音量で、もっと鋭く、空間を切り裂くような感じで頼む」
いつの間にか、俺の口からは、以前では考えられないほど具体的で、そして少しだけ専門的な言葉がスラスラと出てくるようになっていた。この数週間、寝る間も惜しんで読み漁った演劇の専門書や、敬愛するアニメ監督のインタビュー記事、そして何よりも、この舞台を最高の形で届けたいという強い想いが、俺を突き動かしていた。
主演の斎藤幸誠は、主人公の衣装を身にまとい、静かに精神統一をしている。その横顔は、普段のクールな彼とは違う、物語の主人公が持つ葛藤と決意を宿しているように見えた。
しかし、その隣にいるはずのヒロイン、西条美沙希の様子が、少しだけおかしかった。午前中の出し物巡りの時から、時折顔色の悪さを見せてはいたが、ここにきて明らかにその度合いが増している。額には脂汗が浮かび、呼吸も少しだけ荒い。
「西条さん、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
一番にその異変に気づいたのは、やはり幸誠だった。
「…ええ、大丈夫ですわ、幸誠さん。きっと、少し緊張しているだけですの。本番が始まれば、きっと…」
美沙希は、力なく微笑んでみせるが、その声はかすかに震えていた。
そして、その時だった。
「…っ!」
美沙希は、小さく呻き声を上げると、ふらりと体を揺らし、幸誠の腕の中に崩れるように倒れ込んだのだ。
「西条さんっ!!」
幸誠の悲鳴に近い叫び声が、それまでの熱気を切り裂いて、舞台裏に響き渡った。
「美沙希ちゃん!」
「どうしたんだ!?」
周囲にいた女子たちの悲鳴と、スタッフたちの動揺した声が交錯する。さっきまでの高揚感は一瞬にして消え去り、舞台裏は騒然となった。俺と西井加奈も、信じられない光景に言葉を失い、その場に立ち尽くす。
すぐに美玖先生や保健の先生が駆けつけ、騒然とする現場を落ち着かせようとする。美沙希は高熱を出しており、意識も朦朧としているようだ。過労とプレッシャーが、彼女の限界を超えさせてしまったのだろう。
「すぐに病院に運びます! みんなは落ち着いて!」
先生たちの緊迫した声が飛び交う中、美沙希は担架に乗せられ、体育館の裏口から運び出されていった。
ヒロインの、突然の離脱。
開演まで、あと二十分。
舞台裏は、深い絶望感と、どうしようもない無力感に包まれた。
「…そんな…美沙希さんが…」
幸誠は、美沙希が倒れた場所に力なく膝をつき、顔面蒼白で呟いている。彼にとって、美沙希は単なる共演者ではない。特別な想いを寄せる相手であり、この舞台を共に成功させようと誓い合った、かけがえのないパートナーだったのだ。その衝撃は、計り知れない。
「どうするんだよ、恒成…ヒロインがいなきゃ、演劇なんて、できるわけないじゃないか…!」
謙介が、悲痛な声で俺に問いかける。
「中止…しかないのか…?」
遼も、力なく呟く。クラスのみんなの顔にも、諦めの色が濃く浮かんでいた。今日まで、みんなで必死に頑張ってきた。その努力が、全て水の泡になってしまうのか…。
俺も、頭が真っ白になった。監督として、この状況をどうにかしなければならない。でも、どうすれば…? ヒロインなしで、この物語は成立しない。代役なんて、この短い時間で立てられるわけがない。中止…その二文字が、重く、そして冷たく俺の心にのしかかってくる。
重苦しい沈黙が、舞台裏を支配していた。誰もが俯き、言葉を発することができない。観客たちの楽しそうなざわめきだけが、壁の向こうから残酷なほど明るく響いてくる。
その、息が詰まるような静寂を、破ったのは――。
「…私が、やるしかないでしょ」
凛とした、しかしどこか震える声だった。
声の主は、西井加奈だった。
彼女は、いつものからかうような表情ではなく、どこか吹っ切れたような、真剣な、そして少しだけ挑戦的な瞳で、俺を、そしてクラスのみんなを見据えていた。
「え…? 加奈が…?」
俺は、自分の耳を疑った。確かに、加奈は脚本家として、誰よりもこの物語を理解している。そして、ヒロインの親友役として、美沙希の演技も間近で見てきた。でも、だからといって、いきなりヒロインの代役なんて、無謀すぎる。
「だって、他にいないでしょ? 脚本もセリフも、全部頭に入ってる。美沙希がどんな想いでこの役を演じようとしてたのかも、私が一番分かってるつもりだよ。…それに」
加奈は一度言葉を切り、そして、俺の目を真っ直ぐに見つめて、少しだけ唇の端を上げてみせた。その表情は、絶望的な状況を楽しむかのような、不敵な笑みに見えた。
「恒成が、あんなに一生懸懸命頑張ってたのに、こんな形で終わらせるなんて、私が許さないんだから。監督さんの努力、無駄にさせちゃ悪いじゃない?」
その言葉は、力強く、そしてどこか温かかった。俺は、加奈のその言葉と、真っ直ぐな瞳に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「でも…加奈、お前、自分の役もあるだろ? それに、衣装とか、動きとか…」
俺が戸惑いながら言うと、加奈はふふっと息を吐くように笑った。その笑顔は、いつもの余裕を取り戻した、しかしどこか覚悟を決めたような、そんな強さを感じさせた。
「大丈夫だって。親友役の出番は少し調整して、他の子に代わってもらえばいい。衣装だって、美沙希と私、身長も体型もそんなに変わらないから、なんとかなるでしょ。…それとももしかして〜? 恒成は、私がヒロインじゃ、役不足だって言いたいのかなー?」
加奈は、わざと唇を尖らせ、上目遣いで俺を見つめてくる。その表情には、いつもの「意地悪さ」が戻っていたが、その奥には、この状況を何とかしようという強い意志と、そして俺への絶対的な信頼が感じられた。ヒロインの衣装に着替える前の、まだ親友役の活発なワンピース姿の彼女。その衣装から覗く白い首筋や、覚悟を決めたことでより一層輝きを増した瞳が、妙に色っぽく俺の目に映る。
「…そんなわけ、ないだろ! お前しか、いない…!」
俺は、彼女の気迫に押されるように、そう答えるのが精一杯だった。
加奈のその言葉で、クラスの空気は一変した。絶望の淵にいた仲間たちの目に、再び闘志の光が灯り始める。
「西井さん…本当に、やってくれるのか!?」
幸誠が、信じられないといった表情で、しかしどこか縋るような目で加奈に詰め寄る。
「うん。任せといてよ、幸誠くん。美沙希の分まで、私が最高のヒロイン、演じてみせるから。だから、幸誠くんも、私をちゃんとリードしてよね? 主演男優さん」
加奈は、幸誠に向かって力強く微笑んだ。その姿は、もはやいつものからかう少女ではない。クラスの希望を一身に背負った、女神のように美しく、そして力強い。
幸誠は、加奈のその言葉と瞳に、何かを打ち砕かれたようにハッと顔を上げた。そして、自分の頬を強く叩くと、涙を拭い、力強く頷いた。
「…ああ。任せろ、西井。最高の舞台にしよう。美沙希のためにも…!」
絶望は、希望へと変わった。開演まであとわずか。嵐のような、最後の準備が始まった。加奈は、美沙希のために用意されていた純白のヒロインの衣装へと急いで着替える。その姿は、まるで戦場へ向かう騎士のようだった。俺は監督として、変更点を各セクションに的確に指示し、舞台全体を急ピッチで再構築していく。
クラス全員が、加奈を、そしてこの舞台を成功させるために、一つになった。舞台袖の緊張は、先ほどとは全く違う、悲壮感と、しかしそれ以上の強い決意と絆に満ち溢れている。
運命の幕が、今、上がろうとしていた。
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