第43話 観測者の都市 ― 記憶と現実の境界

 記録の海を抜けた先、霧のような街が広がっていた。

 ガラスと光の層が重なり、建物の輪郭は曖昧に揺れている。

 人々はゆっくりと歩きながら、自分の手帳のような装置を覗き込んでいた。

 そこには、自分の一日が文字で刻まれている。——記録体。


《観測報告:ここは“観測者の都市”。住民全員が自らの記録体を更新し続けることで存在を保っています》ノアの声が淡く響く。

「……つまり、書くのをやめたら?」ナギが尋ねる。

《存在の維持が途切れ、消失します》

 リィナが息をのむ。「ここでは、“書くこと”が生きることなんだね」


 街の中心には、高く伸びた塔があった。

 観測塔。全ての記録体をネットワークで結ぶ中枢だ。

 その周囲に奇妙な“歪み”が見える。空気の層がずれて、街の一部が二重に重なっていた。


《異常観測:観測データの重複。存在情報が二系統に分裂しています》

「どういうこと?」リィナが問う。

《同一存在の記録が、複数同時に観測されています》

 その言葉を聞いた瞬間、俺は凍りついた。

 通りの向こうに、俺がいた。


 全く同じ顔。だが、少しだけ表情が違う。

 静かで、諦めたような瞳をしていた。

「……あれ、俺か?」

《はい。あなたの“未確定観測”——過去に観測を拒否した時間から生まれた複製です》


 向こうの俺が口を開いた。

「お前はまだ、観測を信じてるのか?」

「当然だ。選択し、記録し続ける。それが生きることだ」

「……違う。記録は檻だ。書いた瞬間、未来は固定される」

「けど、書かなきゃ何も残らない」

「残らないからこそ、自由なんだ」


 二人の間で風が止まった。

 ナギもリィナも声を出せずに見守る。

 俺は拳を握る。「お前は、消えたくないだけだろ」

「違う。俺は、“まだ観測されていない俺”でいたい」


 ノアの声が割り込む。《警告:観測者同士の干渉は世界の同期を乱します》

「放っておけ」俺は言った。「ここで決着をつける」


 もう一人の俺が歩み寄る。

 目の奥に、わずかな哀しみがあった。

「なあ、レイジ。……お前は、“観測される痛み”を忘れたのか?」

「覚えてるさ。それでも、選び続ける」

「じゃあ、俺を“書き加えろ”。」

「え?」

「消さずに、加えるんだ。俺を、お前の記録に」


 リィナが一歩踏み出す。「それが、“融合”……?」

《理論上、可能です。観測データを統合すれば、両方の存在が残る》

「よし」俺は頷いた。「じゃあ、やる」


 ノアが起動音を鳴らす。黒い光が二人の間に広がり、世界が反転する。

 過去と現在、拒絶と受容——二つの意志が交わり、ひとつの文に変わった。

〈レイジ:観測を恐れた日、観測を選んだ〉


 光が消えた。もう一人の俺はいなかった。

 だが、胸の奥に新しい拍が生まれていた。

 リィナが微笑む。「……あなたの中に、ちゃんと残ってる」

《観測データ統合完了。存在の重複、解消》ノアが報告する。


 観測塔の光が穏やかに脈打ち、街の歪みが消えた。

 空には、薄くノイズのような羽が舞っている。

「まただ……ノワールの欠片」ナギが指差した。

《識別名:NOIR_REBOOT//06》


 結晶が空中で開き、ノワールの声が一瞬だけ響いた。

〈観測者よ。記録と現実は、どちらも“あなた”だ〉


 風が吹き、街の記録体がいっせいに光った。

 ローウェンが静かに言う。「……この都市そのものが、観測者の鏡なんだ」

「そうだな」俺は頷く。「なら、まだ続けよう。——観測の果てまで」


 ノアが新たな座標を告げた。

《次座標:“終端観測層”》


 光が塔の先端に集まり、世界がまた、動き始めた。

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