第42話 記録の海 ― 書き加える世界

 記録の逆流域を越えると、世界が溶けた。

 空も地もなく、ただ“文字”だけが漂っていた。

 一文字ごとに光が宿り、それが波のように重なって揺れる。ここが、“記録の海”。


《観測報告:この領域では、世界の全てが“記録”として存在します》ノアの声が、柔らかく響く。

「海そのものが……物語か」ローウェンが息をのむ。

「つまり、誰かの書いた言葉が、現実になってる?」リィナが手を伸ばす。

 触れた瞬間、彼女の指先から光が溶け出した。そこには、幼い日の彼女の記録が浮かんでいた。

〈リィナ、十歳。初めて空を見上げた日〉——幸福な記憶。だが、最後の行だけが滲んでいる。


「ここに、続きを書いたら……その日が“完成”するのかな」

《注意:記録の“書き換え”は現実の再構築を伴います。——崩壊の危険あり》

「でも、“書き加え”なら?」

《……それなら、世界は傷つきません》

「なら、書く」リィナは微笑んだ。「私の“今”を、この記録の続きに」


 彼女が光で文字を描くと、滲んでいた部分がやわらかく滲み直し、波紋のように広がっていった。

 過去と現在がゆっくり重なり、やがてひとつの“温度”になった。


 ナギは少し離れた場所で、自分の記録を見つけた。そこには〈演奏をやめた日〉とだけ書かれている。

「俺、あの日……怖かったんだ。音を出したら、誰かを壊す気がして」

 彼は笛を取り出し、ため息のように音を吹いた。

「でも、今ならわかる。“書き加える音”がある」

 音が水面に描線を作り、消えかけた文字を包む。

〈演奏をやめた日、再び音を信じた〉

 海が穏やかに鳴った。


 ローウェンは風の流れを見上げた。彼の記録には、〈誰かを守れなかった風の日〉と刻まれている。

「……守れなかったことは、消せない。でも、見届けることならできる」

 彼は鐘を鳴らした。風が優しく渦を巻き、記録に新しい行を足す。

〈風は、今もその人の髪を揺らしている〉

 海面に立った風紋が、他の記録と共鳴する。


 俺は黙って自分の記録を探した。

〈レイジ——観測者になる前の記録〉

 そこには何も書かれていなかった。真っ白なページ。

《未記録領域。——観測前の空白です》ノアが言う。

「なら、これが俺の出発点か」

 黒い光を指先に灯し、短い文を記す。

〈俺は選び続ける。記録の外でも〉


 海が静かに鳴いた。光の波が広がり、四人の“書き加え”が重なる。

 リィナの光、ナギの音、ローウェンの風、そして俺の黒。

 ノアの声がそれを包む。

《全記録共鳴、安定化。——再生モード完了》


 だが、そのとき海の底が光った。

 深層からひとつの“欠片”が浮かび上がる。

 透明な結晶の内側で、黒い線が波のように脈打っていた。

《新しい断片を検出。識別名:NOIR_REBOOT//05》


 結晶の中で、ノワールの声が囁いた。

〈観測者たちへ。——私たちは、もう“物語の外”にはいない。〉

〈だから、物語を“書き足す”ことで、あなたたち自身を残してほしい〉


「……ノワール」リィナが小さく微笑む。「やっぱり、あなたは消えてなかったんだね」

《断片の安定確認。——次座標:観測者の都市》ノアの声が告げる。


 波が静まり、光が空へと昇る。

 文字が海から離れ、世界が形を取り戻していく。

 リィナが呟く。「ねえレイジ。書き加えるって、少し勇気がいるね」

「そうだな。だけど、その“少し”が、世界を変える」


 風が吹いた。海の残光が遠くの地平へと溶けていく。

 ノアが静かに告げた。

《観測更新——次座標、“観測者の都市”》


 俺たちは歩き出す。

 書き加えた文字たちが背中を押すように、優しく揺れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る