第3話 世界的なパンデミック

 みゆとすれば、

「昼職は普通にこなし、夜はホステスをこの店で」

 と思っていたようだったが、昼職も、最初はなかなか見つからなかったので、

「夜だけ働こうかしら」

 と思っていたが、とりあえず、

「派遣社員として会計会社で働きながら勉強するか」

 と思っていた。

 それが、数年続いたが、実際に、父親が定年退職して、店のオーナーになると、

「これから、店をどうしていこうか?」

 ということを考えるようになった時、みゆの方も、

「いずれは、この店のママになって、経営にも参加したいな」

 とは思っていたが、父親から、だしぬけに、

「お前、ママをやってみないか?」

 というのであった。

 元々、昼間の、

「純喫茶」

 という顔も、夜の、

「場末のスナック」

 という趣きを持った顔もあったのだが、どちらかというと、

「夜がメイン」

 ということであった。

 しかし、オーナーとすれば、

「昼のお店も充実させたい」

 と考えていたようだった。

「常連さんが、増えてきたのも間違いないし、何よりも私が、昼の純喫茶を充実させたいという思いを持っている」

 ということからであった。

「これは、私のわがままでもあるんだが、お前に夜が任せられれば、昼は、私の方で、充実した店にしたいんだ」

 ということで、みゆの目からは、

「どうやら本気のようね」

 ということで、納得したのだった。

 父親は、

「経営コンサルタント会社勤務」

 ということで、娘は、

「経営学部を卒業し、会計会社での事務経験もある」

 ということで、

「ずぶの素人」

 というわけでもないので、その経営指針も、

「別に無理がある」

 というわけでもなく、

「銀行側との折衝」

 というもの、しっかりできていて、それは、娘のみゆにしても同じことであった。

「銀行の営業」

 の方としても、

「これなら安心ですね」

 ということで、融資に関しても、心配しているわけではなかった。

 それを考えると、

「店の外観は、今まで通り」

 ということであったが、内装を少し変えて、

「老朽化の部分をこの機会に一掃する」

 ということに力を注ぐことで、

「みかけはあまり変わらない」

 ということであるが、名目は、

「リニューアルオープン」

 ということで、始めたのが、今から3年前のことであった。

 もちろん、

「不安がなかった」

 というわけではなかった。

 というのも、今から4年前くらいから、

「世界的なパンデミック」

 というものが猛威を振るい、

「もし、あの時と重なれば、店を開店できたかどうか分からない」

 ということで、少なくとも、

「店の改装」

 というのは、ままならないといってもよかったであろう。

 それどころか、

「今のままのこの店でも、存続できるかどうか分からない」

 ということで、

「最悪の場合は、店を閉めるしかない」

 ということになっていた。

 そうなると、

「定年退職と同時に、この店のオーナーになる」

 ということで、ここ数年頑張ってきたことが、水の泡になってしまう。

 当然、娘のみゆに対しても、

「ここ数年、娘に対して、人生を左右する選択を促した責任が、親として、この私にはある」

 ということで、どうしても、気にしてしまっていたのであった。

 それを考えると、

「お父さん、しょうがないよ」

 と、

「最悪の場合」

 を娘と話し合った時、覚悟を決めているかのようなみゆが、父親としては、不憫で仕方がなかったのである。

 みゆとすれば、夜の店に対しての考えをいろいろ持っていたが、その当時、ハッキリしていたのは、

「スナック」

 というよりも、

「バー」

 という雰囲気の店の方がいいと思っていたようだ。

「おいしい食事と、オリジナルのカクテル」

 というものを売りにしての、

「隠れ家のような、いかにも場末のバー」

 と言ったお店を考えていたのである。

 大学時代にアルバイトで勤めていたお店は、

「スナックというよりも、クラブというイメージが強かった」

 といってもいい、

「接待などで使う人が多く、客層は悪くはなく、お金もしっかりと落としてくれる」

 という人が多かったことから、

「上客」

 ということであった。

 しかし、店は、どうしても、

「利益重視」

 ということで、相手が、

「上客である」

 ということをいいことに、

「同伴」

 であったり、

「アフター」

 というものを、女の子に奨励するというようなことをしていた。

 しかも、女の子には、その成果での、

「色」

 というものを、破格な値段にすることで、女の子をその気にさせていたのであった。

 みゆとすれば、

「あくまでも、大学時代のアルバイト」

 という思いと、

「将来のための勉強」

 というイメージがあったことで、

「そこまで金の亡者にはなれない」

 と思っていた。

 店の方は、

「アフターなどの奨励はするが、何も無理にというわけではない」

 といっていた。

 ましてや、大学生のアルバイトに、それを強いると、今度は、

「辞める」

 と言い出されても困ると思っている。

 彼女たちにも、それぞれに、

「常連客」

 というものがついているのだ。

「大事にしていこう」

 というのも、店の方針だったというのは、実に彼女たちにすれば、ありがたいことだったのであった。

 そういう意味では、

「働きやすい店」

 ということだっただろう。

 しかし、

「もし、自分が経営者になるとすれば」

 ということになると、

「こういう店じゃない」

 と思えて仕方がない。

 この店もそれなりに自由であったが、みゆが考えているのは、

「雇われた女の子が、自由に意見を出せる」

 というような、

「開けた環境」

 ということであった。

 そもそも、そんなに大きな店ではなく、

「隠れ家のような店」

 ということなのだから、

「それも当たり前のことだ」

 といえるだろう。

「世界的なパンデミック」

 というのは、四年前の年末くらいから、いきなり、

「外国のある地域で流行りだした伝染病」

 というものだった。

 最初は、

「新型のインフルエンザ」

 と言われ、

「その地域における流行を、見守っている」

 という感じであったが、徐々にその猛威が、他の地域にも広がっていき、

「その地域を旅行した人が、そのウイルスを本国に持ち帰る」

 ということで、

「本国での大流行」

 を生むことになる。

 さらに、そこから、関係諸国に広がっていくと、あっという間に、

「世界的なパンデミック」

 と呼ばれるようになったのであった。

 実際に日本でも、最初は少数であったが、感染が確認されるようになると、さすがに国家も、対策を練り始めた。

 ただ。その対策が、実際には、

「あまりにもお粗末」

 であるということは、4年が経った今としては、

「結果論といっていいのか?」

 というほどのものだったのだ。

 なんといっても、

「伝染病が流行った時は、まずは、水際対策」

 というのは、当たり前のことだった。

 しかし、当時の政府が最初にやったことは、

「学校封鎖」

 だったのだ。

「公立の小中学校を全国一律で休校にする」

 という、

「とんでもない政策」

 をぶちまけたのだ。

 というのも、

「その政策を行うのが、ソーリの独断だった」

 というとことである。

「ソーリの側近も知らなかった」

 というほどであるのは、お粗末としか言いようがない。

 なんといっても、

「学校の一斉休校」

 というのをするのであれば、

「事前の、調整」

 というものが必要で、

「水面下で、いろいろな調整を行っていなければ、パニックになる」

 というのは分かり切ったことだ。

「政府は、今の共稼ぎの現状を知らないとでもいうのか?」

 ということであった。

 学校側も、子供のいる家庭も、さらには、託児所などの体制も、まったくできていない。

 それどころか、話すら聞いていない、

「寝耳に水」

 という状態ではなかったか。

 それを思えば、

「ソーリの独断」

 というのは、

「まわりから反対されれば困るので、後戻りできない状態にしておくしかない」

 ということだったのだろう。

 そのせいで、

「教育現場や家庭」

 では、当然のごとくのパニックとなり、

「政府に対しての不満が爆発もしていたことだろう」

 しかも悪いことに、その時まで、

「水際対策」

 というものすら、何もしていなかったのである。

 実際に政府が、

「緊急事態宣言」

 ということで、

「飲食店を中心とした店に、休業要請を掛け、会社での仕事をなるべく、リモートワークにすることで、人流を抑制する」

 という対策にしたのは、一か月後のことであった。

 その時、やっと、

「海外の渡航者を、シャットアウトする」

 という、

「水際対策の徹底」

 を行ったのだ。

「本来なら、これが一番最初だったはず」

 ということで、

「第一波の感染を阻止できなかったのは、政府の水際対策の不手際からだ」

 と言われたが、

「それに対しては誰も言い訳できない」

 といってもいい状態だったのだ。

 それが、今の時代における

「日本政府の平和ボケ」

 といってもいい状況で、

「頭の中が、お花畑だ」

 と言われても仕方がないだろう。

 それ以降も、政府のやり方は、

「後手後手」

 に回っていて、ひどいものとして、

「政府政策による、イメージビデオ」

 が大ひんしゅくを買ったのだ。

 それは、

「不要不急の外出を控える」

 ということでの促進ビデオだったのだが、ソーリが主演していて、

「自分の部屋で、自分のペットである室内犬を抱いて、安楽椅子に腰かけた状態で、ニコニコしながら、言葉を発しいぇいる」

 というものだった。

 その言葉というのが、

「おうち時間を楽しんでください」

 というような内容で、満面の笑みを浮かべていた。

 それを見た国民は、怒りに震えていた。

「お前はそんなことしている暇ないだろう」

 であったり、

「お前のような、そんな贅沢誰ができるんだ」

 と、

「仕事にも出られず、給料も雀の涙」

 ということで、

「いつ首になるか分からない」

 という状態からの、あの

「贅沢な映像」

 というのは、

「国民の怒りを買ってこそ」

 であり、

「誰があんなソーリのいうことを聞くものか」

 ということで、

「完全なお門違いなビデオだった」

 ということである。

 実際に、

「政府に対しての、誹謗中傷」

 というのは、ピークに達していて、

「有事であれば、支持率は上がる」

 と言われていたことで、諸外国政府が、軒並み支持率を上げ、

「もう少しで、破綻していた」

 と言われるある国の政府も、

「世界的なパンデミック」

 のおかげで、政権維持ができた。

 という時であったにも関わらず、

「日本政府の支持率は急落した」

 ということで、世界に、

「日本政府のお粗末さ」

 というものをさらけ出す結果になったのだ。

 結局、政府は、その間に、

「2回変わった」

 ということであったが、

「今のあの政府でさえなければ、まだマシな政治ができるだろう」

 ということで、

「日本を救ってくれる」

 とまでは期待しているわけはないが、せめて、

「今よりはマシだ」

 ということで変わった政府が、なんと、

「前の方がよかったくらいじゃないか?」

 ということで、実際に

「何がどう悪いのか分からない」

 ということであった。

「史上最悪の政府だから、変われば、いくらかはマシのはず」

 と思っていたのだから、変わった政府は、

「想像を絶するというほどひどいものだったのだ」

 ということになるのだ。

 そんな時代において、

「とりあえず、パンデミックの波がすぎてよかった」

 といえるだろう。

 ただ。まだまだその余韻は残っていて、

「経済はめちゃくちゃ」

 ということで、波というブームは去ったが、その影響は計り知れないといってもいいだろう。

 だが、

「そういう意味で、パンデミックの真っ最中」

 という時代に、

「店を改装して、新しくして経営する」

 ということは、

「かなりの冒険」

 といってもいいだろう。

 せめて、

「政府がもう少しまともであれば」

 ということでの不安が一番大きかった。

 特に、

「緊急事態宣言」

 の時と、

「ワクチン接種」

 の時による、

「政府が、促進するためについた嘘が、大きな社会問題を引き起こした」

 ということであるが、世間は、どうしても、

「当時の混乱」

 というものと、

「人のうわさも七十五日」

 ということで、

「喉元過ぎれば、熱さも忘れる」

 ということで、本来では忘れてはいけないことも、忘れてしまうという、

「政府にとって都合のいい」

 ということで、政府は、ごまかしたつもりだった。

 しかし、政府は、

「簡単につぶすわけにはいかない」

 ということがやっと国民にも分かった。

 以前は

「この政府さえ変われば」

 と思っていたのを、何度、新政府に裏切られたということになるのだろうか。

 要するに、

「今の政府を壊しても、その後にできる人がいない」

 ということである。

 へたに潰して、他のやつにやらせると、

「さらに最悪になる」

 ということであれば、

「このままの政府の方がましだ」

 ということになるのは当たり前というものだ。

 そんな政府を、

「誰が期待する」

 というのか?

 だから、

「今の政府がどんなにひどいことをしようとも、簡単に辞めさせるわけにはいかない」

 ということになるのだ。

 政府も分かっているからか、

「任期満了までは何とかなる」

 ということで、その間に、

「少しでも法案を成立させよう」

 とする。

「どうせ、任期までなのだから」

 という開き直りが、そうさせるのだろう。

 それを考えると、

「もう、国家は信じられない」

 ということになる。

 当然、

「政治への関心を持たない」

 という人が増えることだろう。

「パンデミックのランク」

 というものを引き下げたことで、

「政府もマスゴミも、パンデミックについて何も言わなくなった」

 つまりは、

「あとは、自分のことは自分で守ればいい」

 ということで、政府は、国民に、

「丸投げした」

 ということになるのであった。

 国民の一人一人は、そう簡単に忘れられないものだろうが、社会が前のように回るようになると、

「パンデミックだけを気にしていては、生きてはいけない」

 ということになる。

 しかし、その後遺症というべきものは残っていて、

「経済の崩壊」

 というものが、特にそうだったのであろう。

 それでも、何とか社会はまわっていく。

 そういう意味で、この店の改装や、新規開店に関して、

「最初に考えていたよりも、かなり自粛ムードだった」

 というのも、無理はないだろう。

 特に、その当時、

「つまりは、パンデミック発生から1年経過した」

 という頃だったので、

「一番大きな波が襲ってくるあたりくらいだった」

 という時期だったから、他の人からみれば、

「この時期に、新装開店というのは」

 ということであっただろう。

 確かに、最初は、

「ちょっと早まったかも?」

 と考えてしまうくらいであったが、だからといって、ずっと計画してきたことを、簡単に辞めるわけにはいかない。

「元々の土台がない」

 というわけではなく、

「前からの常連客も、それなりの評判もあった」

 ということから、新装開店を決めたということであるから、

「それなりの自信」

 というものがあったといってもいいだろう。

 そんな中で、

「昼間と夜、両方はちょっと」

 ということで、最初の一年くらいは、

「メインは昼」

 ということで、夜は、

「時短営業」

 であったり、

「アルコール類の提供は禁止」

 ということであったりしたので。逆にいえば、

「昼夜を通した店として開店しておいたのは、怪我の功名だった」

 といってもよかっただろう。

 だから、昼間は、

「店の中は、椅子を半分減らし、半分だけの人を入れられるようにした」

 という状態において、半分の売り上げを、

「弁当の販売」

 ということで賄ったのだ。

 そもそも、人は失業者とっしてあふれていたので、

「お弁当を作るアルバイト」

 を臨時で雇い、何とか回していた。

 似たようなやり方をする店も増えてきたが、

「このあたりで最初に思いついて始めたのは、うちだったんだ」

 とばかりに、自慢できることであった。

 もっとも、

「俺たちだって考えないわけではなかった」

 と、同業他社の、特に夜の町を彩っている店は、考えないわけではなかったというのは、まんざら嘘ではなかった。

 しかし、

「夜の店で、昼の店の上前を撥ねるような真似はできない」

 と言いながら、要するに、

「プライドが許さなかった」

 ということであろうが、時期が時期だけに、

「従業員の雇用を守る」

 ということを考えれば、

「迷っている暇はない」

 といってもいいだろう。

 それを考えると、

「あの時期のパンデミックでの新装開店」

 を思えば、

「今の落ち着いた時代に商売をするのは、何でもない」

 とも思っていた。

 つまりは、

「今こそ、以前から考えていたことを、思う存分できる時がやってきた」

 ということになるだろう。

 実際には簡単にできないと思っていたことも、

「パンデミックを乗り越える」

 ということで自信がついたというのは、これこそが、

「けがの功名だ」

 といってもいいだろう。


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