夕凪の時間
森本 晃次
第1話 プロローグ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、説定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年7月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。
「場末のスナック」
という言葉をよく聞くことがある、
似たような表現として、
「隠れ家のような店」
という言葉で親しまれている店というのを聞いて、最初にピンとくるのは、
「昭和レトロというものを感じさせるお店」
といってもいいだろう。
「昭和」
というワードは、もうすでに、30年以上も前ということで、実際に、
「昭和の記憶」
というものを少しでも持っている人というと、
「50歳近くの人」
ということになり、それこそ、
「初老の男性」
といってもいいだろう。
だからこそ、
「昭和レトロ」
などと言われる時代であるのに対し、これが、大正時代ともなると、
「大正ロマン」
と呼ばれる時代だったりする。
「大正時代」
というと、
「15年間」
という、実に短い時代だったわけだが、その時代に凝縮されたイメージは、結構あるといってもいいのではないだろうか?
ただ、昭和というのは、正直、大きく分けて、前半と後半で、まったく違う時代であった。
昭和の当初というと、大正時代から続く、世界的な混乱とが入り混じり、そのくせ時代は、一つの大きな波があることで、
「避けて通れない」
という道を目指し、突き進んでいたという時代だったのだ。
いわゆる、
「軍国主義」
ということで、
「欧米列強」
というものを意識して、世界の混乱が、
「強国」
というもので固まろうとする中に、
「いかに食い込むか?」
ということが問題だったのだ。
だから、
「新興国で同盟を結び、強国に食い込む」
という体制となったのだが、そもそも、それが間違いだったといってもいいだろう。
要するに、
「結ぶ相手を間違えた」
ということになるのだ。
どうしても、
「世界大戦」
というものが、史上初で起こり、その戦後処理というものを間違えてしまったことと、その世界大戦というものの影響によって、世界情勢に狂いが生じ、
「経済情勢の崩壊」
というものから、
「政治不安」
というものが広がることで、その国の体制が、
「民族性」
であったり、
「国家の立地的な事情」
などが重なることで、
「利害関係の一致」
であったり、
「イデオロギーの共通性」
ということから、
「同盟を結ぶ」
ということになった。
その同盟というものが、
「同盟国が、他の国と戦争状態になった時は、同盟国とおなじくして、敵対した国に、戦線を布告する」
ということが義務付けられた同盟ということなので、
「局地的な戦争が、あっという間に、地域的、さらには、世界大戦に発展しないとも籠らない」
ということで、結局は、
「次なる世界大戦」
というものが生まれることになったのだ。
日本も、元々、
「大陸への進出」
という問題がはらんでいたということと、
「資源のない国」
ということから、
「資源確保」
というものが、急務だった。
そのため、
「諸外国からの圧力」
と、日本として、
「どうしても譲ることのできない一線を、圧力によって屈する」
と考えてしまえば、
「戦争は避けては通れない」
ということになるのであった。
紆余曲折があり、結局、結果論として、
「無謀な戦争に突き進んだ」
ということで、まるで当時の軍部が、
「無能だった」
などという考えは、
「歴史を知らない人間の偏見」
ということになるのではないだろうか?
結果論ではない考え方を理路整然と考えたとしても、
「歴史の大きな流れ」
というものに逆らうことができないので、どうしても、
「結果だけ」
というものを、時系列をしてみてしまうと、
「日本は無謀だった」
ということになるのであろうが、
「抗うことのできない時代の流れに、いかに乗って、そこで、亡国に導かないようにするか?」
ということで突謬した戦争は、
「いたし方のない」
ということであり、しかも、
「その当時として考えられた最良の方法」
というものを、軍部は考えていたということであった。
どうしても、
「結果論」
というものと、
「勝者の理論」
ということで、
「戦勝国によって押し付けられた民主主義」
というものによって、
「大日本帝国」
というものの、
「立憲君主」
ということによる、
「軍国主義」
というものが間違っていたといわれるようになってしまったということであろう。
だが、
「時代の流れ」
というものは、
「歴史の事実としての点」
というものを、
「時系列ということでの線」
というもので結ぶことによってできあがったものを、大きな意味での、
「歴史」
というのではないだろうか?
ただ、この歴史というのは、一つの同じ時代であっても、地域や、その範囲によって、見え方が違っている。
それは、
「見る角度が違う」
ということで、
「光があれば影がある」
というわけで、見え方が違うのは当たり前ということだ。
だから、それを、人によっては、
「錯覚」
とも感じるだろう。
それを、
「歴史」
ということでいうとすればm
「歴史認識」
というものの違いといってもいいのではないだろうか?
同じものを見ていても、地域であったり、環境によって、その捉え方が違う。
「まったく違う土地で、同じような発想であるが、その内容は違った話として伝わっている」
ということが多いだろう。
それが、
「日本におけるおとぎ話」
であったり、
「ギリシャ神話」
「聖書」
あるいは、
「イソップ寓話」
などである。
その中に、教訓というものがあるわけで、
「作られた時代も、地域もまったく違っているのに、すべてにおいて、似たような謂れというものがある」
ということで、たとえば、
「見るなのタブー」
なるものがある。
それは、
「見てはいけない」
「開けてはいけない」
と言われるもので、たとえば、
「おとぎ話であれば、浦島太郎や雪女」
「聖書であれば、ソドムとゴモラ」
「ギリシャ神話であれば、パンドラの匣」
などと言われるものが、共通しているものだといえるのではないだろうか?
逆に、
「世の中は昔はつながっていて、同じような発想」
であっても、
「その国の文化であったり、民族性」
などというものが影響し、
「自分たちのイデオロギーにふさわしい話」
として作られたものが伝わっているという考え方である。
だから、
「歴史」
というものは、
「時系列という縦の流れ」
というものと、
「地域制や民族性という横のつながり」
というものからできているといってもいいのではないだろうか?
「国によって、考え方やイデオロギーが違う」
というのは当たり前のことであり、
太古の昔から、
「弱肉強食」
という国家体制から、
「侵略の歴史が繰り返されてきた」
というわけであり、
「敗れた国は、併合されたり、植民地化される」
ということになる。
民族は、
「奴隷」
として扱われ、完全に、
「強くなければ生き残れない」
ということで、歴史というものは作られてきたのである。
その中での、
「哲学であったり、宗教」
というものが、
「民族の精神的なよりどころ」
ということになり、宗教が政治や社会に影響を与えるようになってきたといってもいいだろう。
それは、今の時代にもつながってくることで、宗教というと、
「その宗教を信じている民が救われる」
ということで、信じられるようになり、
「当然その宗教がその国の君主であったり、他の宗教から迫害される」
ということになれば、
「自分たちが信じるものを救うために、自分たちの命だって惜しくはない」
という考えになるのだ。
そもそも、
「信じていれば救われる」
ということだったはずの宗教を、
「信者が命がけで守る」
ということでは、普通に考えれば、
「本末転倒というものではないか?」
と思えるはずなのに、世界各国で、起こっている戦争の理由の多くは、それら宗教による、
「宗教戦争だ」
といってもいいのではないだろうか。
それは、国家間の戦争だけに限ったことではなく、
「政府ではない、一種の反政府組織」
というものによる、
「テロ攻撃」
というのも、
「一種の戦争だ」
といっていいだろう。
「自爆テロ」
などということが平然と行われていて、それは当然、
「信じるものを守る」
という強い思いがなければできることではない。
それは、日本においての、
「大東亜戦争時代」
における、
「カミカゼ特攻隊」
であったり、
「玉砕戦法」
と呼ばれるものが、それにあたるであろう。
「虜囚の辱めを受けず」
ということでの、
「戦陣訓」
と呼ばれるものであるが、確かに、それも一つであるが、当時日本は、敵国というものを、
「鬼畜米英」
などいう言葉で、
「敵は鬼や家畜同様なので、捕まれば、何をされるか分からない」
ということを教え込まれていたといってもいいだろう。
実際に、当時の戦争というものは、
「歴史の事実」
ということで、
「占領した村や町において、占領軍による、強奪、強姦、略奪というものが横行していた」
ということであった。
それが、
「大量虐殺事件」
ということで、大きな問題となり、特に、
「昔の中国軍」
という連中から、
「どれほどの虐殺であったり、迫害を受けたか?」
ということを考えると、
「占領されて捕虜になるくらいであれば、敵兵を一人でもやっつけて、死のう」
と考えるのも無理もないことであろう。
だから、
「虜囚の辱め」
という言葉になったのだ。
もっとも、これは、
「戦争というものにおける第一線での精神状態」
というものが、
「想像を絶するものだ」
ということからきているということになるのだろう。
それが、
「19世紀後半くらいから、20戦記前半」
までにかけての、
「民族主義」
というものから発展した
「戦乱の時代」
といってもいいだろう。
しかも、
「世界大戦」
ということで、
「大量虐殺」
ということでの兵器開発というものが、言われていた時代である。
「戦車や、戦闘機、化学兵器」
と言われるものが、
「第一次大戦」
によって開発され、さらに、
「その発展形の開発」
であったり、
「戦術的なものの発展」
ということが出てきたのが、
「第二次大戦だ」
ということになるだろう。
つまり、実際に、第一次大戦が終わると、
「一度発令されると、全滅しかありえないという戦争の形としてのパンドラの箱を開けてしまった」
と言われるようになり、さらには、
「これで、戦争をすることができなくなった」
と言われるようになったのが、
「第二次大戦」
であった。
その根拠となるものが、
「原爆」
というものであり、そこから始まる、
「核開発競争」
というものが、目に見えていたからではないだろうか?
つまりは、
「人類は、手にしてはいけない兵器を手に入れた」
ということで、
「パンドラの匣」
の話にある、
「人類に火を与えてはいけない」
と言われた、その火というものを、
「核兵器になぞらえた」
といってもいいだろう。
そんな昭和の時代の後半には、
「戦後復興」
というものが進み、
「平和な時代」
というものが確立されてきた。
この時代には、昼間くらいには、
「コーヒー専門店」
というような雰囲気の、
「純喫茶」
と呼ばれるものがあった。
木製平屋建ての雰囲気のある喫茶店で、扉のところには、まるで、
「アルプス高原の羊が、首からぶら下げている、鈍器のような鐘の音が響くような入り口」
といってもいい扉を開けると、
「夏であれば、木の香りが涼しさを醸し出している」
かのようで
「冬の間は、まるで、奥に暖炉でもあることから、出窓になったところに、結露が流れてきそうな雰囲気」
という感覚で、
「四季折々の感覚」
というものを味わわせてくれるかのようであった。
しかも、店で作るコーヒーは、サイフォンなどの、
「本格派」
ということで、店の中では、クラシックが流れていて、客も、その雰囲気に漂う雰囲気を味わうだけの度量をしっかり持っているということで、
「文庫本でももっていき、読書を楽しみたい」
という雰囲気を味わえるのであった。
そんな店であったが、夜に時間帯になると、バーに早変わりするのであった。
その店は、
「時間は決まっていないけど、ある程度の時間になれば、店の証明が、夜バージョンになる」
ということで、
「夜の時間は、バータイム」
ということであった。
今の時代にも、
「昼間はカフェでありながら、夜の時間はバータイム」
というところも少なくはない。
「むしろ、今の時代の方が多いのではないか?」
と言われるくらいで、
昼のクラシックとは違い、夜は、
「大人の時間」
ということで、
「バラードっぽいジャズ」
という音楽が流れていたのであった。
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