世界一テキトーで世界一美味しい食卓

風葉

第1話 いわしカレーライス

時間は、金曜の昼過ぎ。


葵は、昨日から優斗に「明日の昼はカレーが良いな〜」とねだられていたが、午前中は陽菜を公園で遊ばせるので精一杯だった。昼食は、適当なうどんで済ませる。


(やばい、優斗にカレー作るって言ってたのに……まあ、夜ごはんに回せばいっか)

むしろ、いわしカレーは昼に作って夕飯に食べる方が、味が馴染んで美味しくなることを、葵は経験上知っている。特に、テキトーに入れられたスパイスたちが、時間をかけてイワシと和風だしと溶け合うのが肝だ。


「よし、今のうちに仕込んどこ」


葵はそう呟くと、冷蔵庫からイワシのミンチ、トマトジュース、野菜室のしなびかけたナスと玉ねぎ、そして家庭菜園でもらったやたらたくさんあるししとうを取り出した。

まな板の上で、ナス、玉ねぎ、ししとうがガシガシと切られていく。大きさは、陽菜が食べやすいようにと、適当に小さめ。すべてだいたい同じくらい。


深めの、大きいフライパンに油をひき、玉ねぎとナスを投入する。炒める時間もテキトーだ。


「このくらいでいっか」

ナスが少ししんなりしたところで、イワシのミンチを迷わず加える。イワシの臭み?そんなものはスパイスで吹き飛ばす。火が通るのを確認し、いよいよ水分投入だ。


「トマトジュースは……半分くらい?」

パックのトマトジュースをいい感じの量だけ注ぎ、続いて牛乳。これもまたいい感じの量。色合いが、「ちょっとオレンジがかった薄茶色」になったところでOKだ。


ここからが、葵の料理の真骨頂。

小皿に乗せたスパイスの山が、大胆にフライパンに振り込まれる。

クミン、コリアンダー、ターメリック。


「クミンは、香り付けだから、多めに。コリアンダーは、ちょっと控えめ。ターメリックは、色だよね、このくらい?」


分量はすべて直感。目分量と、手の感覚。計量スプーンなんて、飾りだ。


ぐつぐつと沸騰してきたところで、葵は隠し味を入れる。それは、粉末だし。和風だし。


「いわしだしね、和風のものを入れとこう」


煮詰めている間に、フライパンの中身はどんどん水分を飛ばし、とろみを増していく。


「ママ、まんまー!」

ブロック遊びに飽きた陽菜が、足元にまとわりついてきた。


「はーい、もう少しだよ」

フライパンを火からおろし、お玉で陽菜用の小さな器によそう。この時点ではまだ辛味がない、いわしと野菜のまろやかなトマト煮込みだ。


陽菜の分を取り分けたら、葵は残りのカレーにししとうを全て投入した。


「よし、ここからは大人の味!」


ここからは、味の調整という名の最後の遊びだ。

ガラムマサラを再びテキトーに振りかけ、塩と砂糖を味見をしながら入れる。塩と砂糖のバランスが、このテキトーカレーを「世界一美味しい」家庭料理に変えるたった一つのこだわりだ。


「ん、もうちょっと塩」ひとつまみ。

「ん、甘みも欲しい」ふたつまみ。

グツグツと煮詰まって、カレーとルーの間のようなとろみがついたところで火を止める。


「はい、陽菜の分はこっちね。今日のは夜までおやすみだよ」

陽菜は、小さなスプーンでカレーを口に運ぶ。


「んまー!」

幸せそうに目をつぶり、満面の笑みでカレーを頬張る娘を見て、葵は今日の疲れが半分吹き飛ぶのを感じた。


葵は残りのカレーが入ったフライパンに蓋をし、ダイニングテーブルの隅に置いた。


「よし、これで夜には世界一テキトーで世界一美味しい、いわしカレーの完成っと」


そして、時刻は午後7時。

「ただいまー……くっそ、疲れた」

玄関のドアを開けるやいなや、優斗はソファに倒れ込んだ。


「あ、パパ!カレー!」

陽菜がブロック遊びを中断して、フライパンを指さして声を上げる。

優斗はカレーという単語にピクリと反応し、キッチンを覗く。


「お、今日の晩飯はこれか!いい匂いするな。…って、あれ、煮込みすぎてない?なんかもう、ルーと完全に一体化してるけど?」

優斗が見たのは、昼間に作られ、時間をかけてさらに味が凝縮したいわしカレー。


「それが美味しいんだよ!2日目のカレーが一番って言うでしょ?わざわざ昼に作っといたんだから!」

葵は、再加熱したカレーにガラムマサラを再度振りかけ、そして夫の分だけ一味唐辛子を容赦なく振った。


食卓に、米の上に盛られた「いわしカレーライス」が並ぶ。


優斗は、一口食べ、目を閉じたまま首を傾げた。


「なんだこれ、魚介だし?いや、違う。なんだかエキゾチックなのに、すげー懐かしい味……昼間に仕込んだから、スパイスとイワシの風味が、より深く、まろやかに溶け合ってる。うまい、うますぎる!」


「和風だしと、時間が隠し味ってわけ」


優斗はスプーンを止めない。彼の大きな胃袋が、今日の仕事の疲れを溶かしていくように、カレーを吸い込んでいく。


テキトーな分量。テキトーな手順。そして、家族それぞれの好みに合わせたテキトーな辛さ。

でも、この料理には、テキトーな気分で買った材料を、家族の「美味しい」のために「美味しくなーれ」と直感で仕上げた、葵の今日の愛情が、全部詰まっている。


優斗は額の汗を拭い、目を輝かせて言った。

「なあ、葵。このいわしカレー、世界一テキトーなくせに、なんで世界一美味いんだろうな」


葵は、ししとうのピリッとした辛さを感じながら、にっこり笑った。


「ふふ、時間が、ママのテキトーさを許してくれたんじゃない?」


娘が「んまー!」と叫び、夫が最高の笑顔でカレーをかきこむ。


今日も、世界一テキトーな食卓に、世界一幸せな家族の笑い声が響きわたった。

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