第2話・邂逅


 如月燈矢きさらぎとうやの生家は今出川通から一本南に入った小径添いにあり、東に寺町通、西に烏丸通を望む公家町の一角にあった。御所東北角の清和院門に近く、邸宅の裏手から清和院小径の裏門に通じていて、代々の当主が御所へ参内する際は決まってその道を通う。


 如月邸の東隣には高い生垣と土塀が築かれていた。その向こう側は、分家の長を務める東雲の家だ。燈矢は幼い頃、裏庭の竹林の間をひっそりと縫うように作られた小径に入り込み、よく隣の敷地を覗いていた。竹林の細い葉を揺らし、パァンと小気味良い音が立つ。その音は心地よく燈矢の内側を揺さぶり、高揚感を搔き立てた。


 師範を相手に剣術の稽古に励んでいるのは燈矢と同じ年ごろの少年で、日焼けした端正な顔立ちが眩しかった。稽古用の竹刀を振る腕は引き締まり、時折発する声も、張りがあって遠くまでよく通った。


「燈矢さま!」


 少年――東雲旭しののめあさひは竹林の合間に潜む燈矢を見つけると、顔をパッと輝かせて燈矢を呼んだ。旭に名前を呼ばれると、体の芯が熱く震える。燈矢は熱を逃がすようにフッと息を吐き出して、手招く旭のもとへ走り寄った。


 燈矢は、家の者から剣の稽古を禁じられている。


 鬼斬り一族の長でありながら、武芸から遠ざけられる理由が分からなかったが、先代は静かに「そういうものなのだ」とだけ言った。燈矢は元来大人しい性格だったこともあり、先代の命に従うまま、家の中では剣を手にすることなく育った。


 けれども、旭が剣を振るうのを見るうちに抑えきれない衝動が湧いて、旭に剣を教えてくれるようせがんでいた。実際は、剣を振るいたいという欲よりも、旭と並んで稽古がしたいという欲のほうが強かったように思う。


 旭はそれだけ、人を惹きつける性質を持っていた――まるで、その名の通り太陽のような。


 太陽の引力に引かれる月のように、燈矢は旭に親しんだ。師範の目を盗んで剣を振り、旭は燈矢の太刀筋を忖度なくよく褒めた。そして、並んで見上げた三日月に竹刀の先を向けながら、憧れを口にした。


「――見たか、あの月の先。あんな鋭い切っ先になりてえんだ」


 最初こそ身分の違いを重んじて敬語で話していた旭だったが、交流を重ねるうちに本来の砕けた口調で話すようになっていた。誰もがよそよそしく接してくる燈矢の日常の中で、旭のその気軽さは陽だまりのように心地よかった。そして旭の剣は、彼の内側をそのまま映すように、真っすぐだった。


「でも、その剣先だけじゃ、相手は逃げるかもしれない」


 ただでさえ旭の太刀筋は読みやすい。燈矢は竹刀の先を立てて、ゆっくり弧を描くように振る――「こうやって円を描けば、抜け道はなくなる」


 旭は金茶色の瞳を丸く見開いた後、わずかに口を尖らせた。


「でもそれじゃあ、お前がいないと完成しない技になる」

「それもそうか……――なら、離れぬ誓いをしよう」


 燈矢は竹刀の切っ先を旭の切っ先に重ねた。――カン、と夜空に響く音。三日月がふたりを見下ろしていた。


「明日もまた、続きの稽古をしよう」

「ああ――俺らの残月ざんげつ、完成させるためにな」


 いつの間に2人の技の名前を考えていたらしい旭に苦笑して、燈矢は月影を見上げる。光ばかり目が行くが、ぼんやりと透明な円を描く、闇に沈む輪郭。燈矢は、おのれの太刀が描くのはそちら側でいいと思った。光り輝く旭の太刀筋と、ひっそりと影のように添う、己の太刀筋。この光の傍にいられるのなら、己が影であろうと構わなかった。


――離れぬ誓い。幼い幻想は、数日の後に破られることになるのだけれども。



 未明から降る雨は山間に建つ小屋を取り囲み、音の膜の内に閉じ込めて尚、板間の隙間からじっとりと湿気を這わせて舐め上げるように空間を包んだ。燈矢は部屋の真ん中に座り、傍らに積んだ藁を編んでいた。藁の山の向こうではりんがぺたんとうつ伏せになって、湿った床に腹を押し付け伸びている。


「ひーまー」


 何度目かわからない間延びした文句に、燈矢はクスッとだけ微かに笑った。


「ねーえ、ひま! ひまひまひまひまひまひま、ひーまー!」

「そんなに暇なら掃除しておいてって言ってるのに」

「たった今暇やなくなった」

「はいはい」


 苦笑交じりに返して、燈矢は編み上げた草履を藁の山とは反対側に置いた。雨の日は畑仕事ができないから、こうして小屋に籠って手作業に没頭するしかない。じっとりと圧し掛かるような湿気は重く暑苦しい。時折キンッと鋭く響く痛みが、じわじわと心に昏い影を落としていった。燈矢は手元の単調な作業に意識を集中させることで、その影を見ないようにする。


「とーや」


 侵蝕を払うような、淡い輪郭の声。燈矢はハッと顔を上げて、不安げな金眼を向けるりんに向けて微笑みかけた。


「なに、りん」

「うち、今日また下の街に降りててん」

「ああ、うん」

「また死体が上がったぁて、騒ぎになっとったわ」

「……そう」


 射るように見つめる金眼に、燈矢は思わず視線を逸らす。りんは黒髪の上に突き出した三角耳をピンと立てて、大きな瞳の上の眉を吊り上げ小さな子供を叱る母親のような口調で言った。


「とーや、危ないことはしたらあかんで」

「しないし、してないよ。大丈夫」


 嘘はついていない。首を傾けて、一度伏せた瞳を向けながら。りんは燈矢の瞳の内を探るように不満げな目を向けていたが、やがて表情を輝かせて跳ねるように起き上がって、ピンと伸ばした人差し指を燈矢に突き立てた。


「しっっっかり聞いたからな! 約束破ったら許さへんで!」

「はいはい」

「だから! 気持ちが入ってへんのよ! もお!」


 ダンダンと床を踏み鳴らして暴れるりんに、燈矢は床が抜けまいかと心配する目線を彼女の足元へ向けた。どうやら大丈夫らしい。


「りん、これ終わったら蔵に行くんだけど、お前はどうする」

「え、蔵……?」


 りんはピタリと動きを止めて、引きつった表情を燈矢に向ける。小屋の裏手にある土蔵は、晴れた日でも暗く湿って気味が悪く、りんは近づきたがらない場所だった。


「暇なら手伝ってほしいんだけど」

「うっ、あ……暇やったけど、暇やなくなったってさっき言うたやろ!? うちもう帰るし」

「ああ、そう」


 燈矢は手にしかけた藁を置いて、膝についた屑を払いつつ立ち上がる。りんは唇を複雑に歪めて葛藤しているようだったが、結局折れたらしくハァと重い息を吐いた。やはり、年相応な怖がりである。燈矢はりんの頭をソッと撫でて、手洗い場に向かった。


「今日は雨やし、どこにも行かへんよね?」

「うん。そのつもりだよ」

「約束やで」


 りんは燈矢が振り返るのを待たず、戸を開け外へと出ていった。開け放したままの戸口から聞こえる雨音は未明よりも幾分和らいでいて、燈矢はホッと安堵の息を漏らす。


 藁の屑を箒で履いて集め、残った藁を部屋の隅へと片付けながら、燈矢は同じ姿勢でいたために凝り固まった背中と腕をグンと伸ばした。筋肉のしなる音がして、血流が増し痺れるような熱が抜けていく。燈矢はひとつ息を吐くと、室内を横切り玄関口へ向かった。草履を引っ掻け、覗いた軒先から少し離れた場所にある古蔵へと、掌を傘にしながら小走りで移る。


 錆びた閂を開けて、ギィと鈍い音を立てて開く扉。じっとりとこもる湿気は季節のせいではない。部屋全体をひやりと包む冷気に、ほんのわずかに内包された水分は恐らく、収められた書物や古文書の呼吸により生まれたもの。燈矢が根拠もなくそう思うのは、蔵に入ると必ずと言っていいほど、潜めた息遣いを感じるから。その正体は――


(決して、鬼ではない)


 鬼であれば燈矢の勘が働かないはずはない。それでも念のためにと、燈矢は気を練り上げて宙に浮く鬼火を灯し、傍らに置いた。


 鬼火は淡く光り、周囲を柔らかく照らし出す。満足な光源ではないが、煌々と明るく照らすのも憚られる気がした。鬼火は燈矢の肩のあたりに留まり、従順に従う。燈矢が棚の奥へ手を伸ばすと、鬼火もツゥと前に進み出てちょうど燈矢の手もとを照らした。


「……あった」


 古文書が積まれた棚の更に奥。納められているという風ではないのに、特別に場所をとってそこに在るように見える、ひとつの巻物。銀鼠色に見える外側の紙は、おそらくもとはもっと鮮やかな青だったのだろうと思う。日に焼けたようにくすんだ色と、ところどころに散る赤黒い、血のような染み。その染みはちょうど掌で握った形のようだと、手に取ってみた燈矢は思う。


 これだ、と直感が告げる。蔵の中に充満する湿気の正体。これが発する「気」のせいで、燈矢自身の気が乱されていた。燈矢は緩く結ばれた臙脂の紐をほどき、石造りの床に垂らす。端を引き出して見て、燈矢はすぐにその巻物の性質を理解した。これは系図だ。数多の名前が樹形図上に散らばり、下部まで続く。開いていくにつれ、聞き覚えのある名前も目にする。


 燈矢は、父母の名前を知らない。代わりに、先代の祖父の名前は憶えている。その直径にあたるはずの人物は黒く塗りつぶされ、それ以降の系図は途絶えている。そして、燈矢の名前は――記されていなかった。


 チリッ、と焼くような感覚がこめかみに走る。思い出すのは如月の当主を務めながら燈矢を育てくれた祖父の顔。祖父、と紹介されはしたが、事実を確かめるすべはなかった。ただ、時折燈矢を冷たい目で見ていたことをよく覚えている。


 燈矢は祖父の眼差しと、名前が記されていない自身、そして、判別ができない父母らしき人物の名前を思った。巻物をもとの形に畳みながら、祖父の代よりも古い場所に、もうひとつ黒く塗りつぶされた名前を見つける。


「これは……」


 小さく呟いたところで、周囲が暗闇に満ちた。燈矢の手元を照らしていた鬼火が尽きたのである。燈矢はもう一度鬼火を灯そうとして、ひどく疲れを覚えてやめた。こめかみを突き刺すように襲う鋭い痛みが顕著になる。いつの間にか、地面を打つ雨の音が濃くなっていた。


「痛……」


 燈矢は締め付けられるように痛む頭を押さえてその場に蹲る。ぐるぐると回るような視界が乱す脳内に、無理やり割り入ってくるように大きく響くノイズに似た雨音。ザァァと大音量の砂嵐が駆ける――哭いている。燈矢は喉を塞ぐ息の塊を溶かすように唾を呑みこみ、ようやくこじ開けた気道から空気を吐いた。


――雨の音は、鬼の哭く音だ。燈矢は先代からそう教えられていた。哭く鬼には心がある。鬼哭を決して、聞き逃すな。


 先代の教えは呪いのように燈矢を縛り、聞かねばと働く意志のせいで、正面からその音をくらってしまう。燈矢は圧し掛かる重圧に耐えきれずに膝をついた。積もる悲しみが内側を圧迫して、飽和させる。眦からは雫が溢れて、幾筋も頬を伝い落ちた。


「ふ、ぅ……ぐっ、ぁ……ぁあッ……」


 零れる嗚咽は喉を擦って裂くように、ザラついた感触で喉を傷めつける。燈矢は何度も唾を呑んで嗚咽を堪え、棚に手をついて立ち上がった。姿勢が変わると、血が巡るおかげか自身の正常な身体感覚が帰ってきた。燈矢はハァと息をつきなつつ、憐みの感情から口角をフッと緩める。


「なにを、そんなに哭くの……」


 燈矢の声音は儚く雨音に混ざり、限りなく優しい音で響いた。心なしか、弱まる雨音。燈矢は蔵の戸を開け外に出て、重く空を覆う雨雲を見て思う。今宵は、一晩中空が哭くのだろうと――それはまるで、助けを乞うようだった。



 湿気を吸って重たくなった尻尾が無意識に立ち上がり、パタンと降りる。ねぐらで目を覚ましたりんは、ブルッと体を震わせ自身の体を両腕で抱きしめた。木の根が絡んだ入口から、雨にけぶる外の景色が見える。夜の雨は、森が動いているように見えて特別に怖かった。震えたのは寒さのせいだ、と、りんは三角の耳を垂れてううっと小さく唸る。


 ねぐらには、りんの他に仲間はいない。狐一匹でいっぱいになってしまう狭いスペースのせいもあるけれど、りんはどこか、仲間から浮いているという自覚があった。人間に化けられるのも、肉以外のものが食べられるのも、りんだけだったから。


 人間との会話も普通の狐はできないらしい。燈矢と話しているところを見たという仲間の狐は「なにを言っているのかわからなかった」と言った。りんが発していた声についても同様に。


「うち……なんなんやろうなあ」


 りんは豊かな尻尾を引き寄せて、先っぽの柔らかい毛に顎を乗せた。湿った鼻で息を吐くたびに、黄金混じりの白く細い毛が繊細に揺れる。りんはしばらく自身の尻尾を眺めて過ごし、やがて飽きて尻尾をパタンと地面につけた。


「とーや」


 完全に目が覚めてしまった瞳を開いて、りんは小さくその名前を呼んでみる。ホゥ、と胸の中に優しい炎が灯るような感覚。りんはフフッと小さく微笑み尻尾に鼻を擦り寄せた。


 もっと一緒にいたいと思う素直な気持ちがある一方で、燈矢の得体の知れなさは怖いと思う心もあった。


 農村で目にする他の人間とは似通わない風貌。頼りなく抜けているように見えるのに、時折驚くほど鋭い勘を見せて、別人のような目をする。その目はまるで――射殺すような。


 りんは頭を左右に大きく振って、頭に浮かんだ不穏な言葉を打ち消す。


「とーやは、そんなことしない。約束もしたしっ」


 落ち葉の布団を踏んで体を起こしたりんは、ギュウと強く目を瞑って人間に変化した。三角の耳をぴこぴこと動かして、ふっくらした丸顔の頬のプゥと不満げに膨らませる。


「なんでうちがこんな不安な思いせなあかんの……もう、ぜんぶとーやのせいやん」


 バサッと落ち葉を散らして当たりつつ、りんは自身の中を占める燈矢の姿にじれったいような思いを味わった。


「雨やし……お家におるよね、とーや」


 透明な雨音は、りんの独り言に返事を寄越さない。けれどもりんはうんとひとつ頷いて、ねぐらから外へと飛び出した。囲む湿気と降り注ぐひんやりとした雨。りんはぶるりと頭を振ってから、轍の残る森の中を駆けていく。轍はいつもりんが燈矢のもとへ通うのについた跡。迷いなく、一直線に向かえる道。古びた稲荷の背が見えて、そこを超えれば、もう小屋のすぐそばに出る。


 りんは稲荷に手を添えて燈矢の小屋を覗き見た。


 家の明かりは夜らしく、燭台に灯された橙の炎が揺れている。不在の時はそこに小屋があるかも判別もつかないほど暗闇に溶け込んでしまうから、今宵はちゃんと「いる」という証。りんはホッと胸を撫でおろし、水たまりの浮かぶ小径に足を踏み入れようとする――瞬間。バチン、と静電気のような反発する衝撃が走って、りんは思わず足を止めた。


「んぇ……なんやあ……?」


 りんはもう一度、足を踏み出す。またぱしんと弾かれ、りんは思わずその場に立ち尽くした。近づけない、どうしても。


「なん、で……え、なんでえ!?」


 りんは混乱するままにドンッと目の前の空間目掛けて拳を打ち付けてみる。空を切るはずの拳は跳ね返されて、りんは不意打ちの衝撃にその場に尻餅をついた。


「なんやの、もう……」


 濡れた前髪がかかる視界に、大きな金眼を瞬かせる。睫毛が弾いた雫の向こうに、燈矢の小屋に近づく人影が見えた。菅笠を目深に被った、武士姿の男が2人。ぬかるんだ足場なのにほとんど足音が聞こえない。りんはサァと背筋の冷える思いを味わいながら、稲荷の社に齧りつくようにして身を隠し、男たちの行方に注視した。


 男たちは燈矢の小屋の玄関戸の前で立ち止まる。断りなく戸を開けて、何か言葉を交わすのが聞こえた。


 次の瞬間、雨が冷やす空気が一瞬で凍てつく。――キィン。刀がぶつかった。


「……っ、とーや!」


 りんは見えない膜の向こうに向けて叫ぶ。区切られた空間の外側で、雨音に押し込められた声はどこにも響かない。りんはじわぁと涙が滲む視界をぎゅっと握って、目の前の透明な膜に何度も拳をぶつけた。


「いやっ、とーや! とーや! とーやぁ……」


 小さな拳が赤く腫れて、ジンジンと痺れるように痛んだ。りんはその場に膝をつき、しゃっくりを上げて泣く。


「ひぐっ、うぅ、っ……。とーや……とーやあ……」


 泣き声の合間に、パァンと水の膜が弾ける音が立った。りんは真っ赤に腫れた目を上げて、金眼をパチパチと瞬く。目の前の光景は、なにも変わっていないように見えた。りんはこみあげるしゃっくりをグッと喉奥へ押し込めてから、膝をついた姿勢で前方にゆっくりと手を伸ばしてみる。弾かれた記憶に竦む指が、さっきよりも遠くの空間に触れる。りんはハッとして顔を上げ、地面に手をつき立ち上がった。


「とーや!」


 呼びながら、転がるような格好で開いたままの玄関戸に駆け込む。戸口近くに立っていた銀色の人影がハッと驚くように身を引いたが、りんは構わず真っすぐ上がり框に飛びついた。


 ハッハッとこみ上げるままに息を吐いて、瞬きを繰り返して慣らす視界。ようやくはっきりと見え始めた光景に、りんは「へぁ?」と間の抜けな声を上げて首を傾げる。


「りん……こんな夜中にどうしたの?」


 いつもと変わらない、燈矢の柔らかな声。りんは引っ込んだはずの涙がじわぁと湧いてくるのを感じて、バタバタと手足を動かし燈矢の膝まで移動した。


「どうしたやない! とーやの家の傍まで来たのに、なんかバチンッていうてぜんぜん近づけへんし、声も届かんしでえらい……えっらい心配したんやで!? ほんなのになに? 全然なんともなくて……ひぅっ……うっ、う……よか、ったあ……」


 りんは燈矢の膝にすがりていて、うわあんと声を上げて泣く。夜着の薄い衣を掴んで、腿から伝わる優しい熱に頬を擦り寄せた。やがて、三角耳を掠めて濡れた黒髪に触れる掌。優しい手つきに撫でられて、りんは徐々に泣き声を収める。


「落ち着いた?」

「んぅ……」


 ひくっ、とひとつしゃっくりを上げて、りんは燈矢の膝から体を起こした。燈矢は眉尻を下げてりんに笑いかけ、次いで、目線を前方へ向けた。燈矢の深緋の瞳が柔らかな光を帯びる。眩しいものに向けるように細められた形を見て、りんは燈矢の視線の先を見た。


 燈矢の正面には、武士姿の男が控えていた。抜き身の刀を傍らに置き、膝をついた姿勢でいる。りんの暮らす農村ではまず目にしない風貌の男に、りんは警戒の目を向けて燈矢の着物を握りしめた。


「りん、大丈夫だよ。彼は俺の……友人だ」

「ゆう、じん?」


 りんは燈矢と男とに交互に視線を向けて、きょとんと首を傾げた。男はフッと軽く噴き出して、崩していた姿勢を正した。


「友人とは、格別な温情を賜り恐縮にございます――燈矢さま」


 軽く握った拳を床について、男は深々と頭を下げる。燈矢はハハッと柔らかな笑い声を立てて、男に顔を上げるよう促した。


「その呼び方はもうずいぶん前に禁じたはずだろう。顔を上げてくれ、旭」


 ゆっくりと体を起こした男――旭は、燈矢と視線を交わして口角を持ち上げる。目尻をキュウと窄める笑い方は月のように微笑む燈矢とは対照的で、太陽のように眩しかった。


「ああ……久しいな、燈矢。こんなところで暮らしているとは、驚いたぞ」

「もうずいぶん長いんだ。如月の家を出てからは10年になる」

「10年か……」


 言葉を交わす2人は、2人だけの世界に入っていこうとする。頬を膨らませてムゥと唇を尖らせたりんは、パタパタと尻尾で床を叩いて抗議した。


「ちょっと、りん。埃立つからそれやめて」

「知らんし。うちなんもしとらん。尻尾が勝手してるだけや」

「りん……もう」


 フハッと吐息するように笑う燈矢は優しい。りんはキュッと唇を引き結んで、燈矢の胴に両手で抱き着く。


「すまない、旭」

「いいや、構わんよ。お嬢さんのほうが燈矢とずいぶん親しいようだから、突然邪魔をした俺を不審に思うのも仕方あるまい」

「ああ……りんは、村に馴染めない俺によくしてくれて、都の話も聞かせてくれる」


 燈矢に髪を撫でられるのは好き。でも今はやめてほしかった――眠くなってしまう。ただでさえ、極限まで張りつめていた緊張と不安から解放され、それまでは必死で気にしていなかった疲れがドッと襲ってくるのだ。抱き着いた燈矢の体から伝わる心地よい熱も相まって、りんはクワッと欠伸を吐いた。


「こんな格好で申し訳ないが、旭、話をしないか?」

「そうだな、改めて上がらせてもらう。火を入れよう」

「すまない。そちらのもう一人は」

「ああ、彼も――」


 もうひとり、りんはぼんやりと重たく被さってくる瞼の隙間から戸口を見る。影の中にひっそりと佇む銀色の影は、りんが玄関に飛び込む際に咄嗟に避けた人物だ。ただ、銀色という印象が焼き付いただけで、姿や顔は判別できない。


 旭が灯した燭台の明かりで、ぼんやりと橙色に照らされる室内。銀色の長い髪が、ほのかな灯りに照らされ揺れる。人物の姿がもう少しで見えると思ったところで、限界を迎えたりんの瞼はパタリと隙間を閉ざした。


 心地よい眠りに引き込まれるまま、りんはゆっくりと寝息を立て始める。柔らかな息の音と雨音が混じり、その夜は静かに更けていった。


《2/END》

 

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