鬼哭しぐれ

依近

プロローグ

プロローグ


 鬼の哭く音は地を穿ち、水たまりに数多の波紋を刻む。冷たく、温度を殺す音階。湿気を孕んだ雨音が耳底を打つのに、不思議と蒸し暑さは感じない。体温を奪う温度に薄い布団を引き寄せ、中で両脚を折り身体を縮こまらせた。


 瞼を下していても訪れることのない眠気。――雨の日だけは、と。夜の勤めを免除したことへの罰のように、眠りは遠ざかっていく。


 観念して薄く目を開けば、行燈の炎がユラと揺れ、まるで魂を宿しているかのように橙色の光を吐き出していた。薄い布団を避け上半身を起こす。背中を丸めてフゥと短く吐き出す息。山間の村外れに建つ小屋を取り囲む雨音があらゆる方向から染みてきて、閉じ込められたように息苦しかった。


――サァサァ、サァサァ。家の周りの土を満たして、泥に変え、いくつも生まれた水たまりの表面を叩いては、波紋を広げていく光景が脳裡に浮かぶ。生まれたての水面を打つ冷たい雫。その音を聞きながら、再び瞼を伏せた。


 ふと、布団の上に落ちる影。隙間風に煽られた炎が揺らぎ、過ぎった影も一瞬でフッと掻き消える。


 次の瞬間、戸を叩く音が聞こえた。寝巻の前を掻き合わせ、枕元に置いた鞘に手を伸ばす。


 チリッ、と。こめかみ辺りを掠める研ぎ澄まされた気配――殺気。己が勤めを怠ったでいで、わざわざ向こうからこちらを訪ねてくるなんてことはあるだろうか――いや、それはあり得ない。ならばこれは、狩るために来た気配だ。


 己の立場を思い知れ、と。地獄の底から警告するような声が、心の底で渦巻いている。


 確信を胸に寝床から立ち上がり、フッと蠟燭の火を吹き消した。


 明かりなどなくとも、闇はもとより自分の居場所。夜目の効く視界で、暗がりに沈む訪問者を探る。


 小屋の中の空気が変わる。大きく聞こえだす雨音が、訪問者が戸を開けたことを知らせた。


 裸の足で畳の目を踏みながら、顎を上げ、突き出した鼻腔をスンと鳴らして匂いを嗅ぐ。


「……どちらさまで?」


 暗闇の中に立つ影に向けて、潜めた声を投げた。菅笠で顔を隠した武士姿の男は、口を噤んで答えない。


 濡れた着物が体に張り付いているせいで細く見える体つき。だが放つ気配は夜の雨のように重く、鋭い。男は菅笠に添えた指をクッと小さく持ち上げて、微かに瞳を覗かせる。


 まともにその視線を食らうわけにはいかない、と、男の視線からわずかに目を逸らして対峙する。


「如月の当主の家というのは、ここか」


「……その名をどこで」


「当たりだな」


 男は菅笠を脱がぬまま、刀を抜き放って躍りかかってきた。泥で汚れた草履が畳の目を踏んで飛び上がり、暗闇を白い影が裂く。突き出された切っ先は一直線に見えて、眼前で翻り滑らかな円弧を描いた――その頂点で白刃が音もなく跳ね上がり、喉元を狙う。


「あ……」


 その太刀筋には、覚えがあった。漆黒の夜に浮かんだ金色の三日月。その欠け際から円を描くように伸びる刃――


――あの月の先。あんな鋭い切っ先になりてぇんだ。


 目に見える真実を真っすぐ見つめる眼差しが、目の前の男の瞳に重なる。


 雨音が急に遠のく。


 世界から色も音も抜け落ちたような、静かな間。


 滴る水の一粒一粒が、空気を裂く音を立てて地面に落ちる。


 合間に、寝巻の薄い布の内側で、鼓動が大きく脈打つのを聞いた。


――ドクン。


――ドクン。


 声を出そうとしても、喉が詰まったように下手くそな息遣いが漏れるだけ。


 ただ、懐かしい名前が心の奥で熾火を燃やすように燻っていた。


 やっとのことで零れた名前が、震えながら静謐な雨粒に溶けて、落ちる。


「……――あさひ


 見交わす瞳が驚愕で零れそうなほど見開いた後、男の瞳が痛そうに歪んだ。


《プロローグ・END》

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