第四話

 ♢


 伊里くんの一回忌が終わった。


 岩に隠れてふうと煙を吐く。伊里くんから託されたマッチは底が見え始めていて、本当だったらこれは伊魚に渡さないといけないものなのにと思いながらもポケットにしまう。


「写真、撮らなきゃ」


 大きく香りを吸い込みながら首から下げたカメラを撫でる。


 最近どうも納得のいく写真が撮れない。月とあぜ道の写真ばかりが増えていくばかりだ。


 私は焦っていた。というのも、学校の進路指導で言われたことが原因だ。


 写真関係の仕事をしたいと前々から言っていた私に、写真部の顧問の先生から良い話が舞い込んだ。カメラを勉強しながら働けるアシスタント職を紹介してもらえたのだ。


 先方は人手が足りておらず、卒業したらすぐにでもという話に私は歓喜した。しかしその職に就くにはいくつか条件があり、ひとつはこの町を出ることになること。


 願ってもいない条件に喜んだが、問題は別の条件だった。


「ポートフォリオ……つくらなきゃいけないのに」


 現状どんな写真を撮るのかをアピールするために、作品のポートフォリオを提出しなければならないのだ。それが採用試験の代わりなのだという。働きたい側としては断る理由もない。


 ただここにきて大スランプに陥っている私にとっては高い壁だった。


 この町の風景しか撮れない私が一体なにを出せばいいのだろう。

 違う世界を撮るために写真家になりたいのに。


 ようやく頭痛が襲いかかる。吸い始めた頃はすぐに頭が痛くなっていたのに、今は少し時間がかかるようになっていた。


 この頭痛を超えて伊里くんに会うための葉の量が日に日に増えていく。


 目を閉じて頭痛をやり過ごす。畑には緑の絨毯がかかり、そういえばこの葉っぱずっと生えてるな。多年草なのかななんて疑問が頭をよぎった。


 そんなふうに完全に油断していたから、まさか畑で吸っているところを伊魚に見つかるなんて思ってもいなかった。


「誰かいるのか!?」

「わあっ!」


 パッと懐中電灯を当てられ、私は飛び上がった。


 とうとう見つかってしまった。しかも相手は伊魚。慌てて葉っぱを背中に隠す。さすがに私だと思わなかったのか伊魚も目を点にしている。


「……え? お前こんな夜になんでうちの畑に?」


 そんな至極当然の問いかけに、私は観念してその場に正座をした。


「ごめん! その、静かな場所でひとりで考え事をしたくて」

「だからって女子ひとりでこんなところに……」

「ごめんなさい、最近スランプで煮詰まっててつい」


 伊魚は私の持つカメラに目をやって、盛大にため息をついた。


「俺だったからよかったものの。うちの親だったらどうしてたんだよ」

「そのときはもう死んだフリでもしてなんとか……」

「あほ」

「伊魚はなんでここに?」

「俺は探しもの」


 こんな夜に探しものなんてと思いつつも手伝うよと声をかける。


「なに探してるの?」

「キーケース。そういえばここは探してなかったと思って」


 キーケース。心当たりがありすぎるが一応確認する。


「あのー、それってもしかして革のやつ? 去年にうちの店に落として行った」

「え! それだよ! もしかして店にあるのか?」


 ぱっと顔を上げる伊魚にやっぱりなという気持ちと申し訳ない気持ちが混ぜこぜになって、私は伊魚から目を逸らして頬を掻く。


「ううん。届けに行ったけど伊魚がいなかったから伊里くんに渡したの。そしたら伊里くん、庭から屋敷の方にぶん投げちゃって……。だから多分屋敷にあると思う」

「あいつ」

「ごめん言い忘れてて」

「いや俺も忘れてて、さっきうたた寝してたら夢に出てきたんだよ。畑に行ったら見つかる夢。まさかと思って来てみたらこれだ」

「そうだったんだ」


 正直伊魚とはまだ気まずい。それでもどちらかが悪いというわけではないのでなんとなく会話が進むのだから不思議だ。


「ここに来るのは伊里のため?」


 不意に放たれたその言葉に私は息を詰まらせる。


「なんで? そう見える?」

「いや、なんとなくだけど」


 二人で会ってたなら言ってくれればいいのに。なんて軽口を叩きながら伊魚は私の横に腰を下ろした。


「もしそうだとしたら伊里くんのためになにをしていると思うの?」

「え、うーん。祈ってるとか」


 畑でコソコソしているこれのどこが祈っているように見えるのか不思議だ。


「俺もよく伊里のこと祈ってたから。伊里の足が動くようになりますようにって」

「はは」


 だとしたらなんて残酷な話だろう。私は痛む頭をさりげなく抑える。


「ところでさ」

「うん」


「それなに隠してる?」と葉巻ごと体の後ろに隠した手を引かれる。


 しまった、伊魚は目ざといんだった。


 強い力に負けて腕が引きずり出される。そして私の手の中にあるそれを見て、伊魚は眉を顰めた。


「”螟蝨闃ア”?」


 伊魚の口からその単語が出て、私は思わずどきりとする。


「うん。ごめん、数枚泥棒してる。大人に言いつける?」

「別に言わないけど……ほしいなら言ってくれればいくらでもやるのに。でもそれ漢方の原料だぞ。どうするんだよ」


 そのままじゃ食えないからな? と怪訝そうに見てくる伊魚を見て、ああこれの使い方を本当に知らないんだなと思った。


 伊里くんが私に頼んだのはきっと、伊魚は自力では正解に辿り着けないと判断したからだ。


「自分で使うの。こうやって」


 ヂ、とマッチを擦って紙に当て、軽く振って火を消す。伊魚はそんな私のなんでもない動作を食い入るように見ていた。


「顔近づけるとと危ないよ」

「なにが」

「爆発するんだよ、この草」

「そんなわけないだろ」

「するって言ったよ伊里くんが」

「はあ? なんで伊里が」

「燃えやすいんだって」


 ああ爆発は冗談だったっけ。私は夜空を仰ぎ見て大きく香を吸い込む。


『好きだ』


 声が聞こえる。いつもの暗く濁った声ではなく、縋るような声だ。ぐらりと視界と体が揺れる。


『好きだよ』


 この声を私はよく知っている。これは伊魚の声? それとも――


『好き』『好き』『好き』『好き』「おい、大丈夫か」『好き』『好き』『好き』『好き』『好き』「おい!」


『海が好きだな』


「伊、里……く」


 バッと私の手から葉巻が奪われた。その衝撃で我に返った私はぱちっと目を開ける。


 目の前では伊魚が見たことのない表情をしていた。


 信じがたいものを見るような、怯えているような。


 そのまま私から奪い取った葉巻をぐしゃりと握り潰したかと思ったら、ハアハアと浅い呼吸を繰り返している。


「もう、これはやめろ」

「でも」

「これはダメだ!」


 そんなに怒らなくてもいいのに。


 伊里くんが隠れて吸っていたのはこうやって怒られるのが分かっていたからかもしれない。


 伊魚は私を見ずに地面を見たままずっと拳を握っていた。ごめん伊里くん。伊魚に使い方を教えてやってと言われたのに、これじゃあ無理かも。


「伊魚、これほしくない?」

「いい、俺はいらない」

「あ、そう」


 伊魚はいらないんだ。そう思うとどうしてか胸がもやもやとした。私は伊里くんにねだって教えてもらったのに。伊魚はいらないんだ。自分ちの畑で作っているのに。いつでも手に入るのに。


「もうここには来るな」

「ムキにならないでよ」

「俺は本気だぞ」


 その言い草にむっとした。


 自分の家の畑で作っているものがどういうものかも知らないくせに。頭ごなしにダメダメ言う伊魚にふつふつと反抗心が沸き上がる。


 もう一枚を紙にくるんで火をつける。「あ、こら!」と伊魚に咎められるのと同時に、私は伊魚の顎をすくった。


「ん」


 だって伊里くんに言われたんだから。伊魚に教えてやってって。伊里くんにそうされたように、私は伊魚の口に直接芳香を流し込んだ。


 ざあっと風が葉を撫でる音が私たちを包み込む。伊魚は私の袖口をぎゅっと握って、されるがまま私を受け入れていた。唇を離して呆然とする伊魚に問う。


「本当にいらない?」


 そう言って再び葉っぱを咥えると、伊魚ははっとした表情をしてカッと顔を赤くした。


「い、いらな……いや、いるけど。ソレはいらなくて」

「どっちなのそれ」


 伊魚はなんともいえない表情をしてから、私にそっと身を寄せて触れるだけの口付けをする。


「なにか聞こえた?」

「なにかって?」

「え……。人の声、とか」

「おいやめろって」


 その反応に私は目を丸くした。


 もしかして伊魚には聞こえないのだろうか。この葉を吸うと嫌でも聞こえてくる、耳を覆いたくなる陰口も知りたくない心の声も。


 ズドンと衝撃なのか落胆なのか分からない感情に殴られる。だとしたら、この行為にはなんの意味もないじゃないか。


「……もう終わり。帰って」

「はあ?」


 納得のいかない様子で私の腕を引く伊魚。私は目を合わさず夜空を見る。


「――エリ子に告白されたって、あれ嘘でしょ?」


 ビクリと視界の端で伊魚の肩が跳ねた。


「エリ子の好意を利用して、私を試したの?嫌なやつ」

「ごめん」

「許すから帰って」


 それでも伊魚はまだ去ろうとしない。


「なァ俺はどうすればいい? どうすれば俺を好きになってくれる? なんでもするから、」


 パキ、と手の中で使い終わったマッチ棒が折れた。私の中の暗い感情がジリジリと火種に変わってゆく。


「その感情の、ほんのひとかけらだけでも。伊里くんに向けられなかったの?」

「伊里? なんで、伊里……」

「帰らないなら先帰る」


 ぐらぐら揺れる視界に吐き気を抑えながら、あぜ道を歩く。躓いて、転びそうになりながら、伊魚から離れたい一心で。


「伊里くん今日はどうしてきてくれないの」


 問いかけても答えはなかった。伊里くんの言うとおりにしたのに。伊魚にあれの使い方を教えたのに。


「嫌、もう。嫌なの。伊里くん、どこ。伊里くん……っ」


 私は伊里くんがいないとこの道をまともに歩くことさえできない。

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