第三話
伊里くんの葬儀は家族内でしめやかに営まれた。せめてお線香だけでもと私は伊魚に頼んで古蒔の屋敷にお邪魔した。
仏壇に手を合わせながら、私はずっと伊里くんのことを考えていた。
あの夜私がなにかしていれば、あるいはなにかをしていなければ。伊里くんは死ななかったかもしれない。もしも私があの時……。
いまさらどうしようもない後悔が私を責め立てる。きっとこのもしもは一生消えることはないだろう。それでもいい気がしていた。
「伊里のためにありがとな」
伊魚はそう言って疲れた顔で笑った。
「伊魚」
「ん?」
「伊魚は伊里くんのこと、どう思ってた?」
私のその唐突な問いに伊魚は顔を強張らせる。そして肺の中の空気を全部出し切るようにしてから口を開いた。
「そうだな、俺は伊里にとても――嫌われていたと思う。子どもの頃はそうでもなかったけど、最近は話もしてなかった。それでも俺にとってはたったひとりの兄貴で……。こんなことになってほしかったわけじゃない」
伊魚はぽつりぽつりと語り、私の肩口に顔を埋めた。
だったら伊魚は伊里くんが養子に出されることは知っていた?
そのせいで伊里くんが不幸な目に遭うことも?
伊里くんが本当は自分のことよりも伊魚を想っていたことは?
――伊里くんが海を見たがっていたことは?
何も言わない私を伊魚はぎゅうっと抱きしめる。いつの間にか随分大きくなった体に包まれて、身じろぎひとつかなわない。
「今だけはそばにいてくれ……頼む」
耳元で囁く声は兄弟でよく似ていた。私は伊魚に抱きしめられながら、あの日確かに伊里くんの腕の中にいたことを思い出していた。
♢
「それでもあなたを認めることはできません」
古蒔の屋敷を後にする際、伊魚の母親に呼び止められた。彼女は私の最も苦手とする人物のひとりで、ことあるごとにこうして私に釘を刺してくる。
「伊魚のことは諦めなさいと何度も言いました」
「諦めるもなにも……別にそういうのじゃないです」
「伊里がいなくなった今うちにはもう伊魚しかいないの。残念だけどあなたは古蒔の家にふさわしくないのよ」
言い方がいちいちカチンとくる。素直にうちの母親が気に入らないと言えばいいのに。伊里くんだって手放すつもりだったくせに。
「分かったらもううちには来ないでちょうだい」
彼女は一方的にそう言い捨ててパシンと戸を閉めた。
二度と来るかこんなところ。冷たい家だ。長男が亡くなったばかりなのに次男の心配ばかり。
伊魚のことは嫌いじゃないけれど、古蒔の家は大嫌い。
♢
いけないことだということは重々承知の上で、私は月の出る夜に古蒔家の畑に通うようになっていた。
伊里くんが死んでも時は流れる。高校生になった今も携えているカメラには、いつの間にか小さな傷が増えていた。
夜の散歩と言って家を出る。十歩で渡れる橋と暗いあぜ道を抜け、いつものように”螟蝨闃ア”の畑に辿り着いた。
伊里くんがあの日していたように葉を摘み、月光に透かし、赤い葉脈を確認してから岩に腰掛ける。
最近気付いて嬉しかったのが、岩の影に隠された空き缶の存在だ。伊里くんがくず入れに使っていたのだろう。折れたマッチがたくさん入っている。
私は葉を紙に巻いて、マッチを擦って火をつける。もうこの動作にもすっかり慣れてしまった。マッチを振ってから缶に捨て、私は大きくその芳香を吸い込んだ。
『誤って川に落ちてしまったのかしら』『あの足じゃあ泳げもせんだろうに』『いいところに養子に決まっていたのにねえ』『おかしくなって飛び込んだんだろう。昔から変わったやつだった』
聞こえてくるうわさ話。人の心の声。みんな分かっていない。伊里くんは海を見たかっただけなのだ。
「でも伊里くん、あの川は海に繋がってないんだよ」
町のみんなが伊里くんを理解できなかったように伊里くんも海が分からなかった。ただ、それだけ。
葉巻きを咥えて何度か息をすると、不意にうわさ話のターゲットが切り替わる。
『ホラ、あそこの家。大病院のボンボンに遊ばれて妊娠してすぐ捨てられた馬鹿な女の』『ああ、娘を産んですぐ純粋そうなカメラマン引っかけたっていう』『でもその男もすぐに死んじゃって。今度は古蒔の家に娘を嫁がせようとしてるんでしょう? 強かで恐ろしいわあ』『全くいつまでこの町に居座るつもりかしら。早く潰れればいいのに、あんな本屋』
「う、ぇ」
母と私に対するストレートな陰口に思わず吐きそうになる。
ガンガンと頭の中で警鐘が鳴った。葉の力で人の心の声が聞こえるようになる代償に、おぞましい雑言まで拾ってしまう。
こんなのただの自傷行為だ。それでも私はこれがやめられない。なぜならこれらの声に耐えて頭痛が通り過ぎる頃、あの日の伊里くんが姿を現してくれるからだ。
『帰ろうか』
ほらこうやって、ぐったりとする私に向けて手を差し出してくれる。
ふらつきながら伊里くんと手を繋いで家に帰る。このために、このためだけに私は畑に通い続ける。
コツンコツンと伊里くんが杖をつく音が心地いい。視界はずっとぼやけているけれど、伊里くんが導いてくれるから平気だ。
『親父は先見の明があるからなァ』
何度も何度も聞いた話を伊里くんはまた喋り出す。
『”螟蝨闃ア”は近々規制される。栽培も使用も、畑を持つことさえ許されなくなるかもしれない。だから要領のいい伊魚に畑を継がせて、どうにか活路を見出したいんだと思う』
「でもそれと伊里くんが養子に出されることは関係ない」
『うーん親父は俺をこの家から逃そうとしてくれたんじゃないかな。家業がどうなるか分からないから』
「でも」
『だから伊魚を頼むよ。好きにならなくてもいいから。あいつはどこにも行けないんだ。俺の弟に生まれたばっかりに』
どこにも行けなかったのは、伊里くんも同じじゃない。
月が出る夜は伊里くんに会いに行く。話す内容が同じでも、頭痛と眩暈に苦しんでも構わない。伊里くんとの記憶を擦り切れるまで追体験する。
それでも、いつもこのあと死なないでって言えない。
言ったらもう二度と会えなくなるような気がして。
♢
月の写真が増えていく。それも似たような画角のものが何枚も。
畑からの帰り道、どうしても伊里くんの写真が撮りたくて毎回シャッターをきってしまう。
その時は上手く撮れたと思っているのに現像して月が浮くあぜ道しか写っていないのを見て虚しくなる。
もうやめようと思っているのに、毎回律儀に手を繋いでくれる伊里くんを見るとどうしてもやめられない。
雨の日や月が出ない日の夜はただ一枚生きている伊里くんがいる写真を眺めてから眠る。光が足りなくて伊里くんの顔を半分は影になってしまっているけれど、私にはこれしかない。
たった一夜の出来事にすがってこれからも生きていくつもり?
私は私に問いかける。
こんなに執念じみた思いを向けられて伊里くんもあの世でさぞ困惑していることだろう。
しとしとと地を打つ雨音を聴きながら布団に潜り込む。明日は晴れますように。月が出ますように。
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