わたしの全て
「じゃあ、行ってきます」
仕度を終えて、玄関に出た。
「うん。とにかく、少しでも体調が悪くなったら、連絡して」
「大丈夫だよ」
顔を上げて、笑う。
「どこに行くかは決めた?」
「うん。本屋さんとか、カフェとか」
「そう。夕方くらいに仕事が済んだら、電話するから」
「……行ってきます」
響くんの顔を見ていられなくなって、歩き出した。行きたいところなんて、どこもない。それでも、夕方までは時間をつぶさなくちゃいけない。
最初から綺麗に整理されてるのに、
連絡が来るまで、わたしには帰る場所がないんだから、どこでもいい。歩いているうち、目についたカフェに入って、目についた飲みものを注文すると、響くんに借りておいたショパンの解説本を開いた。
二週間前、新宿に行ったのは、楽譜がほしかったからだっけ。昨日の響くんの話を聞いてから、ピアノのことも考えていた。わたしと響くんの唯一のつながり。わたしは、お母さんでも、沙羅さんでもない。だから、わたしには、ピアノしかないの。
でも、わたしのピアノを弾く手は錆びついてしまって、響くんに魅力を感じてもらえるようなものではなくなってしまった。いいかげん、響くんに依存するのをやめないと、わたしのことだって、いつまで気にしてもらえるのかもわからないけれど。
「…………」
それでも、ある曲名が目に入って、ページをめくっていた手が止まった。楽譜を見たときから、心に引っかかって、弾いてみたら、響くんみたいだと思った曲。いつか、聴いてもらえることはあるのかな。
そんなことを考えながら、数時間、本のページをめくったり、ぼんやりしたりをくり返しているうち、思っていたよりも早く、響くんから『今、どこ?』というメールが届いた。
気を遣わせちゃいけない。一応、店の名前も入れたけど、もう少しゆっくりするつもりだと返信した。今は、一人でいるの? それとも、まだ……。
「花」
「あ……」
気がつくと、すぐ横に立っていたのは、響くん。
「ごめん、一人にして。すぐ帰ろう」
「…………!」
次の瞬間、響くんに手を引っ張られていた。
「響くん?」
会計を済ませてくれると、先を急ぐように歩き出す響くんに、わけのわからないまま、ついていく。
「仕事は終わったの?」
「うん」
機嫌は悪いわけじゃなさそうなのに、口数が少ない。いったい、何があるんだろう? もしかして、部屋にいる彼女を紹介しようとしているとか? 頭の中が整理できないまま、響くんのマンションに着いてしまった。
「待って、響くん」
玄関の前で、響くんの腕をつかんで止めようとしたけれど、間に合わない。
「入って、花」
「待……」
中のようすを確認する間もなく、リビングのドアの前まで押し進められていた。なぜか、そのドアがわたしの手で開けられるのを待っているようすの響くん。
「どうしたの? 開けなよ、花」
「……うん」
響くんの考えていることがわからなくて、不安だけれど、どんな状況でも逃げられない。腹をくくって、一気にドアを引くと。
「え……?」
そこにあるはずのないものが、視界に入った。
「プレイエル?」
「さすが、花」
隣の響くんの顔を見上げると、満足そうな表情をしていた。これは、現実……? 再び前に視線を戻しても、昨日までは何もなかった空間に、それはたしかに存在してる。艶のない、上品なブラウンのグランドピアノ。
「これ……どうしたの?」
実物は見たことがなかったけれど、一目でわかった。まぎれもなく、わたしの大好きなショパンが愛用していたという、フランスのプレイエル社のもの。今、製造は中止されているから、ものすごく稀少なもののはず。
「花に、プレゼント」
何てことないように、響くんが笑う。
「プレゼントって、そんな……」
「弾きたくないの?」
状況が状況なだけに、体が硬直して、近寄ることもできない。だって、これを手に入れるのに、どれだけのお金と労力をかけてくれたの?
「花にというより、自分にかもね。俺が、花のピアノを聴きたいだけだから」
響くんがピアノに触れて、簡単な和音を滑らせると、宝石の粒のような音色が響いた。どこまでも澄んで、静謐な。涙がこぼれた。
「俺はね、もどかしいんだよ。花に、してあげられないことばかりで」
「そんな……」
そんなことない。いつだって、響くんは、わたしのことを考えてくれていたのに。わたしは今まで、何を見ていたんだろう?
「本当は、アップライトのを探してたんだけどね。そうすれば、類と璃子に相談して、花のところに置いてもらえただろうから。でも、納得のいく状態のが見つからなくて」
「…………」
言葉が出ない。
「……花は」
少し間を置いて、響くんが口を開いた。
「花は、ピアノを弾くべきだと思う。コンクールの結果だとか、将来のこととかは関係なく。ピアノさえ弾けば、何かが見えるようになるよ」
言葉が出ないよ、響くん。
「無責任なようだけど、それしかわからない。でも、それだけは絶対に言いきれる」
「わたし……」
涙越しに響くんを見た。
「お母さんのことが、うらやましかった。沙羅さんのことも。できることなら、お母さんや沙羅さんになりたいと思ったこともある。でも」
ここまでたどり着くのに、あまりに時間がかかったけれど。
「わたしは、わたしのままでいたい」
たとえ、恋愛対象としては、響くんに見てもらえることがなくても。
「わたしは……」
響くんが、わたしを大切に思ってくれる気持ち。わたしが響くんを想い続ける気持ち。そんな、わたしと響くんだけのつながりは、何ものにも変えられないから。
「生まれ変わっても、遊佐 花として、響くんと出会いたい」
そして、懲りずに、響くんに恋をするの。何度でも、永遠に。
「ありがとう、響くん……わたしがわたしで、本当に幸せ」
響くんは、言葉を探しているように見えた。全部の気持ちが伝わりすぎて、困らせちゃったかもしれないね。
「弾いていい? 響くん」
黙ったまま、少しだけ笑って、響くんがうなずく。今、あの曲を響くんに聴いてほしい。ピアノの前に座って、呼吸を整えた。
わたしも、響くんの気持ちが理解できた気がする。自分を好きにならないから、好きだとか。沙羅さんが言っていたことの半分は合っているかもしれないけれど、半分は正しくない。好きでいることに、理由はない。そういうことだよね?
「聴いててね、響くん」
「うん」
一度、目を閉じた。この数分間に、わたしの全てをかけよう。響くんのために。そんな思いで、最初の和音を響かせると。
「…………」
なぜか、響くんの動揺が伝わってきたのが不思議だったんだけれど、すぐに思い直して、自分の音に集中した。
ショパンのノクターン、第17番。まさか、プレイエルのグランドピアノで弾けるなんて、夢にも思っていなかった。
唐突な和音のあとに現れる、美しく透明な主旋律。中間部の緊張感、転調の連続、繊細なトリルで再現される主部。この曲は、わたしの中の響くん、そのもの。
最初の記憶の中の響くんも、今の響くんも、見た目の雰囲気の印象は全く変わっていないけれど、小さい頃はわからなかったことも、時を経るにつれて、感じ取れるようになった。
頭がよくて、何でもできて、
「わたしがいちばん、好きな曲なの」
ところどころ、指も回らなかったし、演奏としてはひどい出来だったかもしれない。それでも、最後の一音まで自分の納得のいくように弾き終えることができたんだけれど —————どうしてか、響くんはこっちを見ようとしない。
「響くん?」
「……この部屋ごと、花にあげるよ」
「えっ?」
「弾きたいとき、弾きにくればいい。不要になったり、負担になったりしたときは、花の判断で処分してもらえればいい。留学資金にしても、結婚費用にでも好きなように……」
「何か怒ってる? 響くん」
さっきから、視線を合わせてくれない。
「怒ってないよ。さっき、言ったとおり。ただ、もどかしいだけ。花に、俺ができることをしたい。それだけだから」
「響くん、本気で言ってるの? そんなわけにはいかないよ。そんな簡単に」
「いいんだよ。何かを残しておきたいと思えるの、花以外にいないし」
そこまで話すと、やっといつもの笑みを浮かべて、わたしの方を見た響くん。そう、いつもの響くん。だけど……。
「響くん、寂しいの?」
「え?」
一瞬、面食らった表情で、響くんが聞き返す。
「家族がほしいたんじゃない? 子どもがほしかったんじゃない?」
今、そんなものに対する、響くんの憧れの感情を感じ取ったの。
「花みたいな子なら、いてもよかったね」
またすぐに、響くんは、さらりと笑ったんだけれど。
「なら、わたしが産んであげる」
反射的に、口から出ていた。
「わたしみたいな響くんの子。わたしが産んであげる」
「また、バカなことを……」
「バカなことじゃないよ」
全然、バカなことじゃない。
「したくなかったら、結婚なんてしてくれなくていいよ。だから、今……」
「まだ、そんなこと言ってんの?」
顔を背けられて、表情はわからないけれど、怒ってるんだろうね。でも、冗談で、こんなことは言わない。
「本気で俺がその気になったら、どうするつもりなんだよ?」
「響くんが……?」
響くんと目が合った。
「響くんが、一回でも、その気になってくれたら」
そんなの。
「うれしくて、死んじゃう。ううん」
答えてから、思い直した。
「一回でも、その気になってもらえたなら……その一回だけで、この先、何があっても大丈夫。わたしは幸せだと思いながら、生きていける」
「…………」
「あ……なんて、ね」
さすがに、気まずい沈黙に耐えきれなくなった。
「ごめんね、響くん。怒ってるよね? 今の、冗談」
「花」
「はい?」
わたしを呼ぶ響くんの声に顔を上げると、変な表現だけれど、あきらめたような、そのくせ、挑むような。でも、優しい笑みを浮かべていて、そして ————— 。
「来いよ、花」
大きな右手を差し出して、響くんは言った。頭が真っ白になって、その手と響くんの顔を交互に見る。
「一回で済まなくなっていいなら」
「…………」
「どうする?」
「いい……!」
響くんに駆け寄って、その差し出された手を取った瞬間、わたしが泣きそうになるような笑顔を響くんは見せてくれた。そして、そのまま、強くない力で寝室の中へ引き込まれ、わたしの体は響くんの腕に包まれた。
「待って、響く……」
口がきけなくなる、その前に。一言だけ、これだけは言わせてほしいの。響くん。あなたは永遠に、わたしの全てです。
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