第18話:月下の共犯者
月明かりだけが、街路を淡く照らし出す深夜。
悠夜は建物の屋上から、手早くロープを固定する。
眼下に見えるバルコニー。
昼間、あの女が戻っていった部屋は、間違いなくあそこだ。
(この女の正体を、徹底的に調べ上げる)
悠夜は静かに息を殺す。
決意を固め、悠夜は闇に溶け込むようにロープを伝い、音もなくバルコニーに着地した。
慎重に部屋の中へと侵入する。
中は静まり返っていた。
ベッドに人の気配はない。
(おかしい。外出している様子はなかったはずだが……)
そう思った瞬間だった。
悠夜の意識は、ぷつりと途切れ、深い闇へと落ちていった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
悠夜が再び目を開けた時、彼は椅子に縄で雁字搦めにされていた。
部屋に灯りはなく、窓から差し込む月光だけが、床にかすかな模様を描いている。
「――やっとお目覚め?」
背後から、蠱惑的な声が響いた。
あの女の声だ。
「泥棒さん。夜分遅くに、淑女の部屋に忍び込むなんて、あまり行儀がよろしくないわよ?」
その声は、絹のように滑らかでありながら警告を帯びていた。
「誤解だ! あなたに話があって来たんだ!」
悠夜は慌てて弁明する。
「気づいているんだろう? 米の価格のことだ」
「ええ、もちろん」
女は笑う。
「あまりにも拙劣な手口だったもの」
女は悠夜の背後をゆっくりと歩き回る。
その気配が、悠夜の肌を粟立たせた。
「あなた、何者? どうしてあのネコ――マカカチなんかと一緒にいるの?」
「私は冥川悠夜。ただの商人。彼女たちは、ビジネスパートナーだ」
「……どうして彼女たちがネコ族だとしてる?」
「匂いよ」
女はこともなげに言った。
「血の匂い。ケモノの匂い。そして……あなたの匂い」
女の気配が、すぐ背後で止まる。
「あなたの匂いは、人間とも違う。どの種族とも違う……とても興味深い匂いがするわ」
甘い囁きと共に、長い髪が悠夜の首筋を掠めた。
ぞくり、と悪寒が走る。
「そうだな。実を言うと、俺も自分が何者なのかよく分かっていない。多分、人間だとは思うが」
(この反応……間違いない、吸血鬼か)
彼は、敢えて挑発するように言った。
「吸血鬼が、どうして人間の国でこんな地味な仕事をしているんだ? 魔族の領域にいた方が、性に合っているんじゃないか?」
ぴたりと女の気配が固まった。
静寂が部屋を支配する。
やがて、女は諦めたようにため息をついた。
「……私にも、自分の種族が何なのか分からないの」
「ただ、吸血鬼と人間のハーフだってことだけ。だから、こうして太陽の下でも活動できる」
「吸血鬼、なんて呼ばないで。私の名前は、ロザリア」
そう言うと、ロザリアは闇の中から、月光が差し込む窓辺へと、ゆっくりと歩み出た。
その一歩一歩が、まるで舞踏のようになめらかで、音ひとつ立てない。
青白い光が、彼女の姿を照らし出す。
それは、まるで精緻な彫刻のような、完璧な造形美だった。
闇に溶けるような、艶やかな黒髪。
月光を反射して、濡れたように輝く赤い瞳。
身体の線をしなやかに拾う黒いネグリジェから伸びる、雪のように白い手足。
それは、この世の理から外れた美しさ。
だが、その完璧な美貌の奥には、拭い去れない深い孤独と、諦念にも似た憂いが影を落としている。
壁に背を預けた彼女は、まるで世界から切り離された一枚の絵のようだった。
「ハーフだから……人間としても、吸血鬼としても生きられない」
「こうして、世界の片隅で、息を潜めて生きるしかないのよ」
ロザリアは自嘲するように微笑んだ。
その時、悠夜は首筋にチクリとした、鋭い痛みを感じた。
「!」
悠夜の反応に、ロザリアは興味深そうに目を細めた。
「あら、ごめんなさい。あまりに興味深いサンプルだったから、少しだけ組成を調べてみたの」
「安心して。ハーフの吸血鬼は、血を吸うだけ。眷属を増やす力なんてないから」
(なるほど。さっき気を失ったのは、こいつに血を吸われたからか)
悠夜は状況を理解した。
「……どうして、俺を殺さない? 侵入者だろう」
問いかけると、長い沈黙が返ってきた。
やがて、ロザリアはぽつり、と呟いた。
「匂い、かしら」
「あなたの血の匂い……どこか、母様の匂いに似ているの」
「母親は、吸血鬼なのか? 今一緒に暮らしてる?」
ロザリアは答えなかった。
ただ、その赤い瞳が、悲しげに揺らめいただけだった。
悠夜は、彼女の抱える孤独の深さを垣間見た気がした。
「……どうして、財務庁のような場所で働いているんだ?」
思わず、悠夜は口にしていた。
ロザリアはゆっくりと瞬きをした。
その赤い唇が、かすかに開かれる。
「……今、私が興味があるのは、数学だけ」
「数学だけが、この混沌とした世界を、理性的に見せてくれる」
「数学だけが、過去を忘れさせてくれる」
「財務庁は、確かにつまらない人間関係ばかりで吐き気がするわ。でも、無限の数字と戯れていられる。それだけで、十分に幸せよ」
ならば――。
理由は分からない。けれど、悠夜は心を突き動かされた。
目の前の、あまりにも気高く美しい存在が浮かべる、深い孤独の影に。
それはロザリアの美しさへの魅了か、あるいはもっと論理的な思考の結果か、悠夜自身にも分からなかった。
ただ、言わなければならないと思った。
「あんたは、一人でいる必要はない」
静かに、だが確信を込めて悠夜は語りかける。
「一人でこの世界に浮かんで、世界の残酷さに、たった一人で向き合う必要なんかない」
少しの間を置いて、彼は続けた。
「私と……一緒に、ここを出よう」
その真摯な言葉に、ロザリアの心の奥が、微かに揺れた。
どうしようもない孤独。
今まで、こんな風に自分と向き合ってくれた者はいなかった。
悠夜は、さらに言葉を重ねる。
「私が、ロザリアに世界で最も難しい数学の問題を与えよう」
悠夜は、確信を持って言った。
「商業における、最適化問題だ。それは、状況によって無限に答えが変化し続ける。決して、確定した解を見つけることのできない、永遠の問いだ」
「そして、煩わしい人間関係に一切悩む必要はなくなる」
「ただ、純粋に、数学の世界にだけ没頭すればいい」
ロザリアの赤い瞳が輝きを増した。
「……面白い男ね」
「でも、どうして私があなたを信じられるのかしら?」
試すような、探るような視線。
だが、その言葉とは裏腹に、ロザリアの心は既に決まっていた。
悠夜の言葉が、彼女の記憶の扉をこじ開けたのだ。
独りで過ごした、永い、永い時間。
(……運命、なのかしら)
今の生活への倦怠か、未来への期待か。
それはロザリアにも分からない。
ただ、数学という理性で押さえつけてきた感情の壁を、この男がいとも容易く壊してしまったことだけは、確かだった。
「俺の命を賭けよう」
悠夜は、まっすぐにロザリアの瞳を見つめて言った。
(……なんて、純粋で、非合理的な男)
ロザリアは、初めて心の底から微笑んだ。
「いいわ。その話、乗ってあげる」
その言葉が響き終わらないうちに鋭い音がした。
見ると、悠夜を縛り付けていた縄が、跡形もなく断ち切られている。
ロザリアのなめらかな背中が、音もなく裂けた。
静かに、しかし圧倒的な存在感を放って、一対の翼が広がったのだ。
夜の闇そのものを凝縮したような、漆黒の翼、吸血鬼の翼だ。
翼が生え出た傷口からは鮮血がゆっくりと流れ出し、それは声なき痛みのようだった。
翼は優雅に広がり、部屋の月光をさえぎった。
一瞬にして、世界は彼女の翼が作り出す闇に閉ざされる。
ふわり、と甘い香りの匂いが鼻腔をくすぐる。
気づけば、ロザリアは悠夜の目の前に立っていた。
彼女の細い腕が、何の躊躇いもなく悠夜の背中に回される。
そして、まるで契約を交わすかのように、その身体を預けてきた。
漆黒の翼が、二人を優しく包み込んでいく。
完全な闇と静寂。
聞こえるのは、すぐ耳元で鳴る、彼女の心臓の音だけ。
ロザリアの身体は、吸血鬼という言葉から連想されるような冷たさはなく、むしろ驚くほど温かかった。
ネグリジェ越しに伝わる柔らかな感触と、身体の起伏が、悠夜の理性を少しずつ溶かしていく。
「契約の『前金』よ」
吐息まじりの囁きが、耳をくすぐる。
悠夜は、彼女の永遠にも思える孤独が、その温もりを通して伝わってくるような錯覚に陥った。
ロザリアの顔が、ゆっくりと彼の首筋に埋められる。
長い髪が肌を掠める感触に、思わず身じろぎすると、彼女はそれを宥めるように、抱きしめる腕に僅かに力を込めた。
抗うという選択肢は、もう悠夜の中にはなかった。
むしろ、この孤高な魂が初めて見せた、ほんの僅かな隙間を、受け入れてやりたいとさえ思った。
彼は、されるがままに、静かに首を傾ける。
チクリ、という微かな痛み。
それは痛みというよりも、むしろ甘美な疼きに近かった。
自分の生命が、少しずつ流れ出していく感覚。
それに反比例するように、腕の中の身体が、微かに満たされていくような気配がした。
二人の身体は、翼が作り出した小さな世界で、静かに一つに重なる。
失われていくものと、与えられていくもの。
互いの鼓動だけが、この儀式を、静かに証明していた。
翼の隙間から漏れた一筋の月光が、二人の姿を淡く照らし出していた。
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