第4話 リラの花咲く頃


 白や紫のリラの花が咲くと、春が本格的に始まる。

 毎年行われる冬と春のせめぎ合いに決着が付き、敗者となった冬がハクチョウと共に北に去って行く。人々は冬の外套を仕舞い、身軽になって外を歩く。


 春は畑仕事も忙しくなる。春の朝、ルミナは自分の塔の敷地に広がる広大な畑の雑草を抜いていた。暖かくなってくると雑草や害虫が増えてくる。大雑把な駆除は魔法で行えるが、細かい雑草はこうして手作業で抜いていた。


「ルミナ様~ひと休みしましょうよ」

 畑の傍に植えられたエルダーフラワーの木陰に設置されたガーデンテーブルの上にお茶の用意をしながら、黒猫のソルが主人を呼ぶ。ルミナは手を洗ってから席に着いた。

 ソルは魔法でポットのお湯を沸かし、摘みたてのカモミールの香草茶を念動で淹れ、陶器のカップに注いだ。


「ありがとう」

 ルミナはカモミールのフレッシュな香りを楽しみながらお茶を飲む。ソル自身は浅皿に入れた水を飲んでいる。人間には心地よいハーブの香りだが、猫には強すぎるのだ。

 ルミナは、香草茶を飲みながら自分の畑を眺める。


「よくここまで復活できたわ」

 しみじみとルミナが呟いた。


 4年近く王城で馬車馬のように働かされていた間、ルミナの塔の管理は使い魔のソルが行っていたが、彼女1匹では畑の管理まで手が回らなかった。既に植えてある薬草の収穫は12の塔の魔女ヴェスタが手伝ってくれたが、それ以外の畑は放置された。

 王城で暮らしていた間、ルミナは新規の依頼は受け付けなかったが、どうしても断れない筋からの依頼の薬だけは王城で作製して納品することになった。収穫した薬草をヴェスタに運んでもらい、後宮の一室を借りて仕事の合間に薬作りに勤しんだのも、今となっては良い思い出……とは思えない。もう二度とあんな暮らしは嫌だ。


 3年前、箒に乗って城の追手を振り切って自分の塔に戻ってきたルミナは、かつて自分の畑であった荒地を呆然と見つめた。

 整然と区画整備され、畝が立てられ、薬草ごとに適した日当たりと水はけの区画が割り当てられていたルミナの畑は、4年間の放置の後に、どこに畑があったか分からないほど雑然とした野原になっていた。雑草が繁茂するのは覚悟していたが、一部には灌木も育っており、ちょっとした雑木林のようになっていた。


 美しかった畑の惨状を見たルミナは、ちょっと泣いた。いや、号泣した。

 城での4年間の生活で得たもの、失ったもの。塔に帰ることで取り戻したもの、失ったもの。それらを思ってルミナは泣いた。


 ソルが、塔のソファの上で仰向けに寝て、

「私はハンカチを持っていないので、代わりに私の腹毛をお貸ししましょう」

と言ってくれたのを良いことに、彼女の良く日干しされた柔らかい腹毛に顔を埋めて号泣した。ご自慢の腹毛が主人の涙と鼻水で濡れるのも構わず、ソルは遠い目で主人の悲しみと後悔を受け止めた。


 あれから3年。ようやくルミナの畑は元の姿に戻り、薬草を安定供給できるようになり、薬やお茶の納品を再開した。


「あ、手紙が来ましたね」

 ソルの言葉に続いて、紙飛行機が一機、ガーデンテーブルの上に着陸した。ルミナは手紙を開いて読む。

「王城からだ」

「また戻ってこいコールですか?」


 ルミナが塔に逃げ帰ってからしばらくの間、王や官吏から登城を促す手紙や使者が毎日のようにやってきた。ここ最近は1カ月に1回くらいの頻度に落ち着いたが、鬱陶しいことに変わりはない。なお、ルミナはそのすべてを無視していた。


「ちょっと違う。第一王女殿下の検診の依頼だ」


 第一王女アウロラ姫は、そろそろ7歳の誕生日を迎えることになる。王国では子供の7歳のお祝いを大々的に開催する風習があり、そのお祝いの前に姫の検診を行ってほしいと手紙に書いてあった。

 身体検査は城の医師たちが毎日のように行い、姫が健康優良児であることは分かっていた。10の塔の魔女ノーナの『元気はつらつの祝福』が、良い仕事をしているようだ。問題は、呪いと祝福の検診だ。こればかりは魔女にしか行えない。


「王城にのこのこ出かけたら、今度こそ捕まって監禁されちゃいますよ」

「う~ん。しかし祝福が変質していないか確認する必要があるのは確かなんだよ……」

「じゃあ、こっそり検診して、さっさと帰りましょう。あ、ついでに第二王女殿下の様子も見に行きましょうよ」


 ソルに言われ、ルミナは(第二王女か……)と嘆息した。

 現王には第二子が誕生していた。それが第二王女ディアナ姫である。第一王女アウロラ姫の3歳年下の腹違いの妹である。彼女の誕生にまつわる騒動を思い出し、ルミナは遠い目になった。


 アウロラ姫の誕生によって、王に側室や愛妾を勧める動きは、一旦は落ち着いた。しかし姫は魔女の呪いを受け、15歳以降に無事でいられる保証がなくなった。それに呪いの件がなくても、後継者が王女1人というのは心もとない。

 姫のお披露目パーティーの後、王に側室や愛妾を持つように迫る者たちは勢い付いた。王妃は産後の肥立ちが悪く、さらに魔女の呪いの件で心が弱っていた。王妃も王に側室や愛妾を持つように勧めた。王妃の許しが出て、様々な派閥の者が年頃の女性を厳選して後宮に送り込んだ。年頃の、見目麗しく、後宮で埋没することのない個性あくの強い女性たちを。


 王妃とアウロラ姫だけが暮らしていた後宮は、急に賑やかになった。

 賑やかと言うより騒々しくなった。本来、後宮を管理するのは王妃の役目だが、彼女は心と体が弱り、それどころではなかった。


 結果、後宮は荒れた。無法地帯、いや、サバンナのような弱肉強食の世界になった。


 王は、忙しさを理由に後宮に近寄らなくなった。実際あの頃は過労死した者がいなかったのが不思議なくらいの忙しさだったのだ。すると後宮から乗り込んで来る者が現れた。


「陛下!お疲れ様で~す。クッキー焼いたんで食べてください!お茶淹れますね~」


 王城で一番警戒の厳しいはずの王の執務室に、手作りお菓子の入ったバスケットを持った愛妾が現れた。後宮から執務室までの道のりに配備された警護の騎士は、彼女の父親が買収していた。


「どうだ?」

 愛妾が近衛の騎士に摘まみ出されてから、王は、当時執務室で働いていたルミナにクッキーを調べさせた。

「あ~、入ってますね媚薬。しかもかなり強い薬です。心臓に負担がかかるヤツ。絶対に食べないでください」

「……そうか」


 王クィリヌスは、後宮に側室や愛妾が入ってからやつれた。夜の後宮での性生活が忙しくて精力疲れしているのではなく、精神的に疲弊していた。こんなに羨ましくない後宮ハーレムってあるんだ、と執務室の誰かが呟いた。


 後宮では、女同士の口論、喧嘩は日常茶飯事で、傷害事件も度々起きた。そんな中、ついに殺人未遂事件が起きた。

 狙われたのは、アウロラ姫であった。

 唯一の後継者であるアウロラ姫が亡くなれば、自分が産むであろう子が次代の王になれるかもしれないと野心を持った女がいたのだ。姫の母親である王妃は心と体が弱り療養中だ。今ならいけるかもしれないと思った女が。


 彼女は知らなかったのだ。

 いくら狼が弱っていても、兎が狼にちょっかいを出してはいけないことを。


 心身の衰弱によって大人しくしていた王妃フィデスだが、一国の王妃がか弱い兎のはずはない。娘の食事に毒を盛られた王妃は、立ち上がった。なお、姫は祝福のおかげか無事であった。狼の狩りのように血なまぐさい過程を割愛して結果だけを言うと、


 後宮に粛清の嵐が吹き荒れ

 そして誰もいなくなった。


 側室と愛妾が後宮から去り(何名かはこの世からも去り)、後宮は再び王妃とアウロラ姫だけが暮らすようになった。

 平穏が戻ったが、後継者問題が解決していないことは王も王妃も分かっていた。今度は王と王妃が厳選し、国内の古い家柄の下級貴族の娘ルチナを後宮に愛妾として召し上げた。野心も後ろ盾もないが血筋だけは確かな娘は、やがて第二王女ディアナを産むと後宮を去った。殺されたとか、逃げ出したとか、王に離宮に匿われているとか、宮廷雀は好き勝手に噂したが、愛妾が公の場に出ることはなかった。


 その娘の第二王女ディアナ姫もまた、公の場に出ることが少ない。まだ幼女だからかもしれないが、後宮の彼女の宮に籠って外に出ることもないようだ。謎の姫君。すでに死んでいるのではないかと噂する者もいて、ルミナは彼女の安否を気にかけていた。


「よし、久しぶりに城に行ってみるか」

「王に見つからないように気を付けてくださいね」

 ルミナの3年ぶりの王城行きが決定した。

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