第3話


「さて、殿下」


 自分が出したとは思えないくらいに声が冷たく重い。

 シャンデリアの光が揺れるたび、壁や床に影が踊る。豪華な絨毯の金糸がちらりと光り、緊張感にほんの少し滑稽さを添えた。


「先の質問の答えをお聞かせ願えますか」


 視線を王太子に向けると、憎々しさを隠さず睨みつける。光が彼の表情を際立たせ、蝋燭の炎が冷たい眼差しに小さな点光を落とした。


「これは催しでも喜劇でもない。

 私は今、このオレリーヌに婚約破棄を申し付けたところだ」


 宣言の声が会場に響き、壁に反射して微かに震えた。王太子は令嬢の腰を抱いたまま、自らに陶酔しているように見えた。呆れればいいのか、嘆けばいいのか。宮中に優秀な医者など存在しないのだろう。

 足元の絨毯の模様に視線を落とす。細かく織り込まれた金糸が、今の緊張と不釣り合いに豪華で滑稽に見えた。


「……はあ、婚約破棄ですか」と、考える振りをして視線を宙に泳がせる。「それは、陛下の下知でしょうか。であれば、コーネリアス侯爵令嬢も異を唱えないでしょう」


 ですよね、とそう言ってコーネリアス令嬢に視線を向けてみれば、こくり、と首肯した。それはそうだろう。後処理など諸々は掛かるが陛下が決めたのならば、”婚約は破棄した“という事実の下、動かざる得ないだろう。例えそれが侯爵家であろうとも、それを拒絶することは難しい。何かしら賠償をして、それで終わりなのだが。


「……いや、父―――陛下は、知らぬ」

「御存じでない!? 陛下はこの事を知らないと仰るのですか!?」


 まあ、そのような事はないようである。

 わざと驚いた振りをすれば、空気が少し冷えた。炎の揺らぎに、殿下の怒気が陽炎のように映る。


「う、煩いぞ、ロワール! 王太子である私がそう決めたのだ! そ、それに陛下が外交中の今、私は全権代理人である!! 誰に憚られるものではない!」

「つまり、それは王家としての御言葉、という事でありましょうか?」


 周囲は一瞬息を呑む。シャンデリアの光が、床の絨毯に長く伸びた影を揺らす。王太子はそれでも怯まず口を開く。


「それ以外に何があるというのだ」

「……畏まりました、殿下。では、どういった理由で婚約破棄を?」


 俺は従順にも首を垂れてみせた。今の殿下の言葉は、陛下の言葉と同じ重みを持つ。なので、態度を改めたのだが、何を勘違いしているのか。殿下も我が意を得たりとばかりに得意げに鼻を鳴らした。


「この女は事もあろうに、身分をかさにかけ、リリを虐げていたのだ!」

「なるほど? …………え?」と一瞬呆けてしまい素の言葉が出てしまう。何言ってんだこいつ。「えっと、殿下。確認なのですが、身分をかさにかけ、そこの令嬢を虐げた、と」

「そうだ! 高位貴族の風上にも於けぬ所業だ!!」


 頭が痛くなってきた。やはり飲み過ぎたか。

 そんな風に現実逃避したくなってきたのだが、この殿下、本気で言っているのだから救えない。


「そうなのですか、ビルテスク男爵令嬢」


 一応確認の為に、件の令嬢へと向き直る。すると令嬢は見る者を惑わす程の笑みを浮かべ口を開こうとする。


「その前に!」が、それに待ったをかけた。「ビルテスク男爵令嬢。虚偽を言えば、罪となります事を申し上げておきます」

「え?」


 きょとん、と目を丸くする令嬢にも解り易く説明してやる。


「今の殿下は『陛下の全権代理人』というお立場です。その殿下の御前で、虚偽を働けば罪になるのは当然でしょう? それとも、ビルテスク男爵家は王家を蔑ろにしているのですか?」

「ま、まさか! そのような事はありません!」

「でしたら、問題はないでしょう。殿下もそうですよね?」


 そう告げれば、殿下は抑揚に頷いた。


「ああ。その通りだ」


 ならば、問題ないな、と俺は令嬢を見下ろし、話してよいと頷いてやる。すると、恐れを押し殺すような素振りで令嬢は口を開き言葉を紡いでいく。


「わ、わたしは、その、あの。そ、そこのオレリーヌ様から虐げられておりました」

「ふむ。具体的にどのような?」

「……え?」


 またも、一瞬呆気に取られ不思議そうに小首を傾げる令嬢に俺は疑問を呈す。


「いえ、ですから、どのように虐げられていたのかと問うたのです。

 高位貴族が低位貴族を気に掛けるのですからそれ相応の理由があるでしょう? どういった内容でしょうか?」

「貴様、無礼だぞ、ロワール。リリがそう言っているではないか」


 やや詰問するようにそう言えば、殿下が横から口を挟む。何言ってんだこいつ、と何度目かも分からない諦念が過ぎったがそれを頭を振って打ち消すと今度はコーネリアス侯爵令嬢へと向き直る。


「では、コーネリアス侯爵令嬢にお尋ねする。そのような事実はありますか?」

「御座いません。私は殿下の前に現れるからには態度を改めた方が良い、と忠言を申した事は幾度ともありましたが、虐げたという事実はありません。何よりそのような事をする必要がありません」


 まあ、そうだろうな。何せ、相手は男爵家の令嬢だ。仮に憎い相手であるならば、実家の力で別にどうとでもなるし。だって、男爵家と侯爵家だし。その家柄には月とすっぽんくらいの乖離がある。


「いいや、それは虚言だ! リリが虐げられたと涙ながらに訴えてきたのだ!」


 だが、殿下はそう思ってないらしく怒気を露わにしている。頭を抱えたくなるが、冷静にどうにか頭を振って俺は問い直す。


「涙ながらに訴えかけ、そう言ったからそうだと決めつけるのですか?

 恐れながら、殿下。証拠もなく、推定被害者からの証言だけで、本当に、そう思っていらっしゃるのですか?」

「リリが涙を浮かべて言っているから、そうだ、と言っているのだ。

 それに、証拠など、そこの女がすべて隠したに決まっている」


 更に頭が痛くなってきた。眉間を揉みながら冷静に尋ねる。


「もう一度申し上げます。証拠もなく、推定被害者のそこの令嬢が泣いて訴えただけで、殿下は判断なさるのですか?」

「ふん。勿論、それが決定的だったが、それだけではない。虐げられていたという証言が上がっているのだ」

「それは、誰が言っていたのでしょうか?」


 殿下はそっと視線を向ける。その先には今も項垂れ息を潜めている取り巻き四人衆の哀れな姿があった。


「ポール・レインマン伯爵令息、ジャン・リシャール侯爵令息、マッカーシン・ブレイブ伯爵令息、ロマン・プロヴァンス侯爵令息の四名だ」

「…………他にはいないのでしょうか?」

「おらぬが、四人もいるのだぞ、何が不満なのだ、貴様」


 訳が判らないとばかりに不機嫌そうに鼻を鳴らす殿下であったが、こっちが聞きたいくらいだ。


「全員殿下の側近でビルテスク男爵令嬢に近しい人物です。信憑性という観点からいえば証言には些か不十分かと」

「何を言うか!!」


 殿下が怒声を浴びせるが、頭に響くだけだ。不愉快な感情を押し殺し、別方面から話を進めるとする。そう思って、件の取り巻き四人衆へと視線を向けると、びくりと肩が震えたのが見えた。


「では、レインマン殿に問います。殿下は、貴方が『コーネリアス嬢がビルテスク男爵令嬢を虐げていたと言っていた』と仰っていますが、それは事実ですか?」

「…………い、いや、私は確かにそうは言ったが、だが、その言葉もリリからそう、聞いただけであって」

「ブレイブ殿は?」

「わ、私も、そうだ、と」

「…………まさか、とは思いますが、リシャール殿もプロヴァンス殿もですか?」


 二人は頷く。なんだこれは。


「これは、証言ではありません。ただの伝言です」

「何を言うのだ、貴様は!?」

「被害者から『聞いただけの言葉』が証言に使える訳がないでしょう」


 溜息を漏らしながら、煌びやかな会場の端の燭台へと目を向ける。揺れる炎が、今の茶番を嘲笑うかのように揺れていた。出来得るならば俺もそうしていたい所だが、そうもいかない。頭を振って、現実へと戻る。


「良いでしょう。仮に殿下がそのような沙汰を下すと仰るのであれば『コーネリアス嬢がビルテスク男爵令嬢を虐げていない』という反駁もまた、そのまま証言になりますがよろしいですか? 或いは反対に『ビルテスク男爵令嬢がコーネリアス嬢に対し狼藉を働いた』と彼女が涙ながらに訴えてみせればそうなってしまいますが?」


 どうやら、この茶番で誰が優位かがはっきりしたのだろう。会場の貴族子息子女たちが頷き、証言しても良いという意思表示をする。コーネリアス嬢は、泣けば許されるのでしょうか、とでも言わんばかりにハンカチを手に持ち、微笑を絶やさない余裕を見せている。

 そんな周囲の様子に殿下は一つ唸り声を上げた。


「ぬ、ぐぬぬ。だ、だったら、オレリーヌがリリを虐げていないという証拠を」

「証拠もなく訴えたのは殿下ですよ」と首を振る。「いや、正確にはビルテスク男爵令嬢です。男爵家の令嬢が侯爵家の令嬢を訴え出た、と」


 今更ながら事の次第に気付き始めたのだろう。小さく肩を震わせるビルテスク男爵令嬢は殿下に助けを求めるように凭れ掛かる。


「ひ、酷いですわ、ライナルト様。そんな寄ってたかって攻め立てるなんて」

「おお、リリ。泣くな、泣かないでくれ……」


 ひくひくとわざとらしく声を上げ涙を零す令嬢をあやすと、殿下は俺をきっと睨む。それを敢えて無視して、呆れたように口をへの字に曲げてやる。


「酷いのはどう考えてもお前の頭の中なんだが、まあいい。はてさて。何故、コーネリアス嬢が『証拠もない根拠もない証言もない骨董無形な言葉』に対して、私は『やっていない』などと証拠を提示しなければならないのでしょうか? それがまかり通るのであれば、王国法も必要ありませんが」


 わっ、と泣き出した令嬢を抱きしめ、怒りに震えた殿下が叫んだ。


「だ、黙れ、ロワール! リリを、私を、王家を愚弄するか!?」

「そこの男爵令嬢を私が愚弄しているのは事実ですが、王家を愚弄しているのは殿下の方です。王国法を無視し、王家の威光だけで罪と罰を与えるのであれば、それは歴々の王を愚弄するも同義です」


 と、そこで俺は皮肉気に口の端を引いて笑う。

 燭台の炎が揺れる度、俺の笑みもゆらりと揺れた。


「まさか、殿下自らが身分をかさにかけ虐げるというのですか! 高位貴族よりも尊き血筋で有らせられる王太子殿下が! 矜持を欠片も持ち合わせない毒婦のように振舞うのですか!?

 ならば、不肖この私。ロワール小辺境伯であるライナルトが然る御令嬢の如き涙を流し訴えかけ後押し致しましょう!」


 そこですかさず俺は胸元からハンカチを取り出し顔を覆って叫ぶ。


「皆さま! 殿下が! 殿下が身分をかさに虐めてきますぅ!」


 そうやって訴え掛ければ、周囲で抑えきれない笑いが巻き起こる。コーネリアス嬢は扇子で口元を隠しているが、我慢できなかったのか肩が震えているのが見えた。我が弟と妹は滅茶苦茶良い笑顔で笑っている。


「殿下、私の証言を受け入れて下さいますね?」


 俺は両手を広げ、道化如く恭しく首を垂れて見せた。


「ぐ、ぬぬぬ」


 不愉快極まりないとばかりに殿下は顔を真っ赤に染め上げるだけで言葉も出ないようだ。ここで追及の手を止めるのも癪なので、話を続ける。どうせだ。毒を食らうば皿までだ。


「ところで、殿下。婚約破棄した後にどうなさるおつもりだったのですか?」

「......ふん、知れたことを。リリを正妃にする」


 あまりの酔狂っぷりに周囲からどよめきが走る。腰に抱いた令嬢はすっかり涙も引っ込み頬を赤らめ、夢見心地でいる。どうやら自分が正妃になった姿を思い描いているようなので、確認のため恐る恐る尋ねた。


「つまり、殿下は王太子をお辞めになるという事でしょうか?」

「何故、そうなる!?」

「そうです、ライナルト様! そんな事、ありえませんわ!」


 え、と一瞬会場の空気が凍りついたように静まる。皆、唇を噛み、目を瞬かせて殿下を見つめる。呆れた視線が渦巻く中、ざわめきも途切れ、まるで時間が少し止まったかのようだった。

 僅かに俺の方が先に立ち直り、さらに追及する。


「いえ、男爵令嬢如きが王太子妃にも王妃にもなれる訳ないでしょう? 何を寝ぼけていらっしゃるのですか? 然るべき身分でなければ、王国民も納得しないのは明白ですし他国に示しがつきません。ですので、殿下は王位継承権を破棄するとばかりに」


 愛に準じるのか、手段はともかくとして身勝手だなとか適当な事を思っていると殿下は驚愕からなのだろうか。表情を明らかに歪ませ慄いた。


「わ、私が、王位継承権を破棄、だと……?」


 ええ、とまた周囲がどよめく。そんな事すら知らないとは教育はどうなってるのだろうか。そもそも、何故、ここまで拗れてるんだ、こいつは。

 そんな益体のない事を考えていると縋りつくような目で殿下は俺と周囲を見渡す。


「そ、そうだ! ビルテスク男爵を伯爵にしよう!」

「まあ! 本当ですか!」


 喜色満面の令嬢に殿下は得意気に胸を張るが、


「どういった功で?」


 さらりと水を投げかければ案の定殿下と令嬢は呆気に取られた。肩を竦め、俺は真面目に答えてやる。


「功もなく家格を上げたとなれば、他の貴族も黙ってはおりませんが。殿下は、他貴族に対しどのような説得をなさるおつもりですか?」

「ぐ、ぬぬ。で、では、養子縁組を」


 浅はかすぎるその考えに思わず不敬と知りながらも鼻で笑う。


「一体誰が? 失礼ながら、コーネリアス侯爵様と陛下との約定を反故にした殿下の命に従う酔狂な貴族は誰なのでしょうか?」

「う、ぐっ。だ、だが、王家に、王太子である私に貢献でき貸しを作れるのだ。枚挙に暇がないだろう」

「ええ、ええ。そうでしょうとも。

 ですがその代わりに、陛下とコーネリアス侯爵様から角が立ちますが……。果たして、賛同される貴族はいるのでしょうか? もしもいるのならば、お教え願えますか?」

「そ、それは、だな。…………今は言えない」


 まあ、いない事もないかもしれないが、わざわざこんな厄災を抱える利点も浮かばない。殿下は全権代理人ではあるが、あくまでも代理人に過ぎない。陛下に睨まれ、あまつさえ侯爵家からも睨まれる伯爵以上の家など、そう中々見つからないだろう。会場にいる者たちも、そんな無謀な話に眉をひそめている。

 冷めた心で黙って殿下を見ていると、急に妙案でも浮かんだのだろう。我が意を得たりとばかりに唾を飛ばしながら口を開く。


「そ、そうだ! わ、私が、リリを愛しているからだ! この私のリリへの真実の愛を貴族どもに訴えればきっとわかってもらえる!!」

「殿下」

「それに、家格など、愛の前へでは霞む」


 殿下の声が張り上げられるたびに、会場の空気は微かに震え、ちらほらと困惑の視線が飛ぶ。俺はそんな様子を横目に、あえて息を整えて口を挟む。


「であるならば、殿下。やはり、王位継承権を破棄する事を勧めます」

「何故また、そう言う話になる!?」

「そうですわ、ライナルト様!」


 それだけはどうしても譲れないらしく二人そろって慌てて声を荒げるが、臭いものに蓋をするように、それを遮って答える。


「家格を、身分を疎んじるは即ち、現王国法を軽んじるに他なりません。それは陛下への謀反へと繋がりましょう。

 王家を、国を、臣を。殿下は今、“真実の愛”とか意味の分からない殿下の言葉の上でしか存在していない不確かで曖昧で霞のようなもので、蔑ろにしているのです。違いますか?」

「き、貴様! 曖昧だと!? 私の愛は本物だ!!」


 待ってました、とばかりに俺は拍手を送る。


「では、その真実の愛を貫く御意思が固いようなので、どうぞ、王位継承権を破棄なさいませ。それが嫌だと仰るのであれば、全権代理人の今ならば陛下の調印は殿下が代わりにできますので大臣、貴族院、国民を納得させ法を変えてみて下さいませ」


 できるならやってみればいい、というくらいの気持ちで言ってやると殿下は思案するように中空へと視線を彷徨わせ厳かに頷いて見せる。仕草は一丁前だった。

 事のついでだ、とばかりに俺はコーネリアス嬢へと視線を向ける。


「それで、殿下。コーネリアス嬢の処遇は? 婚約破棄した後に、どうなさるおつもりで?」

「決まっている。そこの女は国外追」

「できるわ......失礼。できません」

「何故だ!?」


 できる訳ねえだろ、と言いたい所を飲み込んだ。危ない危ない。


「王太子妃として教育され、公務に深く携わっていた令嬢を国外に出すなど、もっての外。有り得ません」

「ふん、知れた事を。そこの女が持っている情報など、些末に過ぎん」


 何言ってんだこいつ。本当に何言ってんだ。

 まるで人の皮をかぶった猿と会話している気分だ。


「……本気で仰っていますか?」

「そなたが何を危惧しているのか皆目見当もつかんが。大方私を脅しているのだろう。

 そこの女が公務についているなど、片腹痛い。私ですら、まだ、そのような経験を積んでいないというのに」


 自慢気に無能を曝け出す王太子に、俺はコーネリアス嬢と王太子とを何度も交互に見る。え、まじで。王太子教育してないの。本当に。確認の意味を込めて、最後に令嬢へと視線を向ければ、首を僅かばかりに横に振った。俺は思わず天を仰ぐ。


「殿下。恐れながら、何故、公務をしなくて良かったのか見当もつきませんか?」

「ふん。父上、いや、陛下の御温情だ。学園生活に集中できるように、些事に構わずにいられるようにとの配慮だろう」


 自分の都合のいい様にしか物事を見れないとこんな化け物が生まれるのか、と戦々恐々としながらも、コーネリアス嬢へと視線を向ければ彼女は頷いた。


「恐れながら、殿下。殿下の公務は私が代わりに引き受けておりました。なので殿下は御公務に付かれなかったのでしょう」

「......なんだと? 嘘を申すな!」と殿下は激高して、腕を空に振るう。「貴様が私の代わりだと! ふざけた事を申すな! そのような事ある筈がない!」

「いえ、事実です。殿下」


 さらり、と俺が水を投げればあんぐりと口を開け呆ける。

 そのバカ面を今日だけで何度見てきたかすら数えるのも面倒になってきた俺は、淡々と答えた。


「すでに、コーネリアス嬢は、王妃様より王太子妃としての教育を全うされた事は周知の事実です。なので、殿下の代わりに公務を行うなど造作もない事でしょう。

 事実、ロワール小辺境伯である私と共に公務に当たったことも御座いましたので。疑うのであれば大臣や他の貴族の方々に確認を取って頂いても構いません」


 二の句も告げず、口をぱくぱくと魚のように開閉している殿下だったが、俺は構わず言葉を繋ぐ。


「既に、彼女は公務を全うし、国の中枢へと深く根を生やしておりますれば、その彼女を国外追放などと。

 他国に情報を売るような真似を本気で考えていらっしゃるのであるならば、殿下のその行いは王国に対する利敵行為とみなされますが? ま、まさか、恐れ多くも国家転覆を目論んでいらっしゃるので?」

「こっか、てんぷく? りて、き? な、何を言って、私は、そ、そのような事を」

「そうでしたか。安心しました」


 ほっと胸を撫でおろすと、私は一言だけ告げる。


「では、コーネリアス嬢の処分は『王宮にて幽閉するか、殺すか』の二択しかありません」


 ひゅ、と息を飲む音が走った。目の前の二人ばかりではない。会場にいる者たちも、信じられないものを見るような顔で俺を見ている。


「こ、ころ? ラ、ライナルト様、何を」

「え、は、あ? き、貴様は何を言っているのだ」


 なんで、そこまで考えられないんだ。

 いや、考えられたらこんな茶番劇は発生していないか。


「何を驚いているのですか。それを望んでいたのではないのですか? 王国の内情を深く知るコーネリアス嬢はもう、王宮以外に行き場がありません。であれば、その二択以外にないでしょう」


 会場の空気がすっと引き締まる。人々の視線が一斉に集まり、誰もが次の言葉を待つように息を詰める。その中でも、男爵令嬢は怯えたふりを続けながらも、目だけは笑ってはいなかった。瞳の奥で計算めいた光が宿り、どこか楽し気にも見える。

 なんて女なんだ、と思いつつも殿下の返答を待つ。蝋燭の炎が静かに揺れ、時間がほんの少しだけ遅くなったように感じられた。


「そ、そうだ。領地に! 領地で蟄居させれば!」

「……ええ、そうして反省していただければ」


 殿下が縋るような目で見てくるが、俺は首を左右に振り声をわざと低くし続けた。


「領で蟄居とはこれ如何に? コーネリアス侯爵家は取り潰すのでしょう? 領地は王家直轄領になるでしょうに」

「とり、なにをいっているのだ?」


 本気で理解できないとばかりに目を丸くする殿下に、俺は滔々と説明を続けた。


「極端な例を申し上げましたが、正直、この件についてははっきりした方がよいでしょう。

 憂いを残しては禍根が残ります。コーネリアス侯爵家が令嬢と共に国外に行くとも限りません。そうなると醜聞が諸国へと広がります。王太子は愛に狂い、忠臣たる侯爵家を蔑ろにしたと。民心は離れ、貴族も離れ、王家への求心力は低下する事でしょう。それでも、真実の愛で貫くのでしょう? 殿下が申した事ですよ。これは」


 矢継ぎ早に情報を投げ出してみれば、殿下は処理能力が足りてないらしく、葛藤するでもなく、ただただぼんやりと俺を見ていた。この辺が潮時だろう。


「まあ、私は辺境を侮辱したそこの令息の実家を筆頭に中央貴族を根絶やしにせねばなりませんので、王国貴族としてこの国の安寧だけは祈らせて頂きましょう」


 ようやく我に返った殿下であったが、しかし、何を言えばいいのかもわからなかったのだろう。わなわな震え、怒声を上げる。


「う、煩い! ごちゃごちゃごちゃごちゃと! 辺境伯令息風情が! 無礼だ! 私は王太子なのだぞ!」


 顔を真っ赤にした殿下の叫びは会場中を震わせ、蝋燭の灯りがゆらりと影を作った。

 まるで子どもの癇癪だ。さて、猿、いや、猿の方がもう少し賢いだろう。存在が痛い人間がこの世にいたとは夢にも思わなかった。


「そうだ、いっそ! 貴様がオレリーヌを―――!」


 踵を返し、この場を後にしようと思ったが殿下は何かを思い出したのだろう。

 ぽつりと、細い声が漏れたのが辛うじて聞こえた。


「…………そうか、そうだったな」


 その瞬間、会場のざわめきがわずかに止まる。蝋燭の炎が揺れ、静けさが一瞬支配する。顔は赤みを帯び、口元は震え、瞳には焦燥と困惑が入り混じる。これまでの高慢で軽率な態度とは正反対の、どこか滑稽で人間味のある姿だった。

 そして、途切れ途切れの小声に続いて、殿下の声は徐々に勢いを増す。


「お前は、そうだった、そうだった!」


 耳障りな笑いが微かにこだまし、会場の空気は再びざわめく。周囲の人間たちは、僅かばかりの同情と憐憫を混じえた目で殿下を見つめるが、殿下は構わず、隣の令嬢に囁く体で周囲に向けて告げた。


「リリ、こいつはな。この男はロワール小辺境伯とは名ばかりでしかないただの小者だ。何せ、生まれが薄汚い庶子との子なのだからな!」

「まあ! ライナルト様、それは本当ですか?」


 ふむ、と小さく息をつき、足を止めて振り返る。視線はあえて相手の目を直視せず、やや俯き気味に。燭光が長く影を引き、夜気の冷たさが頬を撫でるのが煩わしい。皮肉交じりの余裕を見せつつ、状況を見極めるように周囲をざっと眺めた。


「――事実ですよ、ビルテスク男爵令嬢。家督は弟が継ぎ、私はそれを補佐するつもりです」


 そう告げると、彼女は一瞬、微かな笑みを浮かべた。けれどその目は笑っていない。会場の灯火に照らされ、瞳の奥に計算めいた光がちらつく。まるで、同情や憐憫の色を装って周囲を欺きつつ、自分の立場を優位に保とうとしているようだった。


「あら、なるほど。庶子の子でありながら、あのような振る舞いを……紳士としての常識も逸脱していますね。前に愚弄していたことも認めたでしょう? さすがに見逃せません」


 その声は甘く響き、どこか穏やかに聞こえる。しかし頬はわずかに赤みを帯び、手には微かな震えがあった。癇癪の火種を隠しつつ、周囲の視線を集めるその姿は、まるで自分こそが被害者であると訴える舞台女優のようだ。

 やはり喜劇だったか。俺は彼女を眇めて見下ろす。蝋燭の炎が揺れ、壁に伸びる影もまた揺れる。影と同じように、彼女の態度も揺らぎながら嘘を巧妙に織り交ぜる。滑稽だな。いや、滑稽すぎて目が離せないとでも言うべきか。


「それに、殿下に対しても、あまりに不敬ですよ。封建国家を何だと思っているのですか。即刻、断罪すべきです、殿下」


 俺の内心を知ってか。令嬢は苛立ちを隠せず、怒気を声に乗せる。だがその声も、演技めいた抑揚が混ざっているのを見逃さなかった。どうやら根っからのヒロイン体質らしい。

 そして、殿下はもっぱらそれを護ろうとする騎士といったところか。


「ああ、まったく、リリの言う通りだ! 私への数々の無礼、許すことはできぬ。不敬罪だ! 平民風情が王太子たる私に意見するなど甚だしい! 衛兵、何をしている! この平民を牢へ連れて行け!!」


 突然の命令に、鈍い金属音を響かせながら近衛兵が会場へと雪崩れ込む。しかし、俺と殿下、令嬢を見比べた兵たちは立ち止まって逡巡した。平民と呼ばれる者が誰か、判断できなかったのだろう。


「何を呆けているんだ! 私は次期国王にして、全権代理人だぞ! 今すぐこの狼藉者を牢にぶち込め!!」

「殿下、どうかお考え直しを!」


 ついに、静観していたコーネリアス令嬢も声を上げた。だが、必死の懇願も殿下には届かない。むしろ鼻で笑ってみせるだけだった。


「喧しいぞ、オレリーヌ! 貴様も揃って不敬罪で牢にぶち込んでやりたいが、そうもいかんとは忌々しい奴め。

 ええい! 貴様ら何をしている! いいから、早くそこの平民を連れていけ!!」


 近衛兵の列に困惑の色が広がる。その中で、一人の若い衛士が勇気を振り絞り、口を開こうとした。だが俺は首を横に振り、静かに制する。


「全権代理人様の命です。構いません」


 俺が穏やかにそう告げると、青年は唇を噛み、項垂れて後ろに下がった。やがて他の衛士も従うように動き出す。

 煌びやかな会場に不釣り合いな、鎧が奏でる金属音と絹の衣擦れと混ざり合って不協和音のように響き渡る。まるで戦場のようだ。怯えるような縋るような視線と怒りに燃える視線とが絡み合い、互いを牽制し合う。

 それはつまり、中央と辺境がここに決別したのを如実に表していた。


「―――ああ、ビルテスク男爵令嬢」


 会場を出る直前、俺はふと足を止めて振り返った。

 もう、俺の顔など見たくもなかったろうが、呼ばれた以上は令嬢も無視はできなかったのだろう。不思議そうに小首を愛らしく傾げる素振りをみせる。それに応えるかのように、俺は皮肉気に眉を顰め薄く笑った。


「私は貴女に名を呼ぶ許しは与えておりません。気持ち悪くて吐き気すら催す。どうか、二度と私の名を口にしないでください」


 その瞬間、彼女の表情がどのように崩れたのか。

 背後で誰かが叫ぶ声を置き去りに、静かにこの舞台を後にした。





 夜の王都は、先程の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 遠くの方で鐘の音が間を置いて打たれ、石畳に冷たく沈んでは消えていく。篝火の炎は微かに揺れ、石壁や柱に橙色の光と濃い影を落としていた。濡れた石畳は、足音を柔らかく吸い込む。風は弱く、夜の空気はざらつき、嵐の前の静けさを確かに孕んでいた。


 ついさっきまでの宴会の喧騒は、嘘のように消えている。街灯や家々の窓から漏れる灯が闇に溶け込み、昼間の記憶すら夜の闇に呑まれたかのようだった。


 近衛を従え、石畳を踏みしめながら敷地を進む。篝火の揺らぎに壁と柱が陰と光を映す中、門前にしとやかに佇む存在を捉える。その瞬間、俺は小さく溜息を漏らした。


「―――ライナルト様」


 澄んだ鈴のような声が夜気を切る。

 篝火と月光に照らされた令嬢の金色の髪は光を纏い、揺れる炎のたびに微かに煌めく。肌は淡く光を帯び、足取りは静かで正確。まるで精緻なガラス細工が、ほんの一瞬だけ命を宿したようだった。


 この令嬢こそが、中央貴族のまとめ役、セラフィナ・ド・グランバリエ公爵令嬢だ。齢は俺より二つ上。学園では先輩に当たり、物腰も言葉も整っている。王太子の従姉妹という立場もあり、周囲の空気までが自然と彼女を中心に整えられているかのようだった。


 夜気に透ける静寂の中、俺はその存在を前に。小さく身を整え、視線を交わす。


「これはこれは、グランバリエ嬢。相変わらず御姿に目を奪われます。

 歩み一つで、まるで世界が劇場のように息を呑む。随分とお待たせしてしまったようで、心苦しい限りです」


 令嬢は扇子の隙間から、微かな笑みを零す。


「いいえ、どうかお気になさらないでください。夜の帳もまた、この逢瀬を優雅に彩る舞台のように感じられます。こうして貴方にお目にかかれるのですから、待ち侘びた時さえも、心地よく思えてしまいますの」


 微かな風が篝火を撫で、影は石畳の凹凸に沿って滑るように揺れた。

 音はなく、時間だけがゆっくりと息を潜める。


「お戯れを。私など貴方の劇の端役に過ぎません」

「お優しいお言葉、ありがとうございます。しかし、貴方の端役などと仰せになるお考え、私には到底理解できませんわ。私にとっては、こうして交わす逢瀬のひとときこそ、この夜の劇で最も輝く場面のように感じられますの」


 視線が、静かに令嬢の歩みに吸い寄せられる。

 扇子の隙間から零れる微かな笑み。肩の揺れが、波紋のように胸を撫でた。


「お言葉、恐れ入ります……。そのように仰っていただけるとは、身に余る光栄でございます。

 本来であれば、この夜の月光に言葉の旋律を漂わせ、貴方とのひとときにそっと華を咲かせ続けたいところですが、生憎と私にはこれから役目が御座います。どうか、この点だけはお許し願いたく……」


 そっと離れる。令嬢は身じろぎせず、伽藍洞の瞳が俺を映していた。

 表情は読めない。社交の舞台で彼女は俺とは違い権謀術策を磨いてきた。おそらく、この王国で彼女に適う者など存在しない。


 中央には知略の白蛇グランバリエ。

 辺境には武力の灰狼ロワール。


 魑魅魍魎が跋扈する王侯貴族、諸侯を相手にしてきた令嬢だ。その彼女が、ずい、と一歩近づき急に頭を下げだした。途端、兵たちから小さな息が漏れ、緊張が空気を震わせる。


「……謝罪を」


 一瞬、言葉の意味が胸を掠めたが、理解するより先に視線は彼女に捕えられた。


「あの場で中央貴族の総意などと申し上げた者がおりましたが、そのような事実は一切御座いません」


 全てを知っていることは、出てきた時点で明らかだった。

 損切りの早さが、彼女の中央での生存術を示す。その静かな威圧感に、疲弊した神経はほんの少しだけ強張った。


「なるほど、謝罪は不要です。中央と彼らには関係ない」


 篝火の揺らぎを見つめ、静かに息を吐く。冷気に混じる炎の温かさが、言葉に自然な余韻を添える。令嬢は扇子を軽く傾け、口元を隠す。立ち姿は柔らかくも、隙のない整った礼節を示していた。


「いえ、受けていただかねばなりません。灰狼閣下は王国の英雄です。このような些事で公務に支障などあってはなりません」


 扇子の角度をわずかに変え、肩を軽く揺らす。篝火の光が金色の髪に反射し、微かに揺らめいた。視線は静かで正確だが、かすかな期待を含んでいることがわかる。


「ええ、そうですね。父上の公務に支障が出るのは望むところではありません。処置をお約束いただければ幸いです」


 俺は微かに眉を緩め、視線を落として石畳を踏む。


「では、ライナルト様。後日、公爵家からご理解頂けるものをお届けに参ります。喜んでくだされば、光栄の至りですわ」

「……解りました。さあ、頭をお上げください」


 頭を上げた令嬢の伽藍の瞳が、そっと俺を映していた。

 馬車へと向かう俺の横で、篝火の影が揺れる中、令嬢の輪郭は影絵のように浮かび、消える。胸の奥で、微かに熱を帯びたざわめきが広がった。

 横を通り過ぎた瞬間、微かに薫る彼女の香りが風に乗り、胸の奥に刹那の波紋を残す。


 夜の冷気、石畳の湿った匂い、そして静かな緊張。

 篝火の揺らめきと微かな香りは、月光に抱かれるように夜の帳に消えた。


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