泡沫
αβーアルファベーター
花のような少女
第一章 孤独の森に生きる少年
◇◆◇
森は静寂に包まれていた。
鳥の声も風のざわめきも、遠くで小川が流れる音すらも、ひどく遠くに聞こえる。
エルフの少年リィエルは、森の大樹の根元に腰を下ろし、眼を閉じた。
彼は見た目こそ十六歳ほどの華奢な少年にしか見えない。
透き通るような白い肌と、銀色の髪、翡翠の瞳。
だがその内に刻まれた時は、すでに三百年を数えていた。
エルフの寿命は長い。数百年、時に千年に及ぶ。
だからこそ、彼は知っていた。
人間や獣人の友を得ても、彼らは儚く散り、置き去りにされるのだと。
――かつて、仲間がいた。
剣を学び、狩りをし、歌を紡ぎ合った友たち。
しかし戦乱の炎は容赦なく彼らを奪い去り、病は次々と命を飲み込んでいった。
気づけば、ただ一人だけが森に残されていた。
季節は巡り、花が咲いては枯れ、雪が舞っては消える。
数百回も繰り返されるその循環の中で、リィエルの心は乾いていった。
人を愛することは、痛みを背負うこと。
だから、もう誰も心に入れはしない――そう固く誓った。
しかし、その誓いはある春の日に破られる。
◇◆◇
第二章 希望の丘での出会い
◇◆◇
森を抜けると、一面に広がる丘があった。
そこは「希望の丘」と呼ばれる土地。
大昔から、人々が祈りを捧げる場所として知られている。
丘一帯には無数の花々が咲き誇り、
色彩は空の青さに負けぬほど鮮やかだった。
その丘の中心に、一人の少女がいた。
白いワンピースを纏い、膝をついて花を摘んでいる。
亜麻色の髪が春の風に揺れ、光を受けて淡くきらめく。
彼女の指先は器用に花を編んでいた。
赤や黄、紫の小花を組み合わせ、丸い輪――花冠を作っていたのだ。
その横顔は穏やかで、まるで花の精霊そのもののように見えた。
リィエルの胸が、不意に熱くなった。
数百年ぶりに、心臓が強く打つのを感じた。
「……君は?」
思わず声が出た。
少女は驚いたように顔を上げた。
青い瞳が空のように澄んでいて、
そこに映った自分を見て、リィエルは息を呑む。
「私?アリアっていうの。ここ、よく来るんだ。
花たちとおしゃべりするのが好きなの」
彼女は屈託なく微笑んだ。
その笑顔は春の光よりも柔らかく、リィエルの心にすっと入り込んできた。
「僕は……リィエル。森に住んでいる」
「森の人? もしかして、エルフね」
「……ああ」
ほんの短いやりとりなのに、リィエルの胸は高鳴り続けていた。
◇◆◇
第三章 花のような少女
◇◆◇
それから、リィエルとアリアは何度も丘で顔を合わせた。
彼女は花の話をした。
赤い花は情熱、白い花は希望、スイートピーは別れを意味すること。
そして「花はね、見てくれる人がいないと寂しいんだよ」と、笑いながら言った。
人間らしい、儚くて温かな考え方。
それは数百年を孤独に生きてきたリィエルには新鮮だった。
やがて二人は丘を飛び出し、外の世界を歩くようになった。
村の市場で甘い果実を分け合い、湖畔で水を掛け合い、星空の下で歌を口ずさむ。
リィエルは驚いた。どんな景色も、アリアと共に見るだけで輝きを増すのだ。
「リィエルって、いつも少し寂しそうな目をするよね」
「そう見えるか?」
「うん。でもね、私といる時は、ちゃんと笑ってる」
彼女にそう言われ、リィエルは言葉を失った。
アリアが、自分の心の乾きを潤しているのだと気づいてしまったから。
◇◆◇
第四章 秘密の影
◇◆◇
その夜、二人は焚き火を囲んでいた。
炎に照らされるアリアの顔は、どこか弱々しく、咳が止まらない。
「……アリア、何か隠しているだろう?」
リィエルの声は震えていた。
長い沈黙のあと、アリアは小さく頷いた。
「私ね……生まれつき体が弱くて、お医者さまに言われたの。余命は一年だって」
「一年……」
「でもね、もう残りは一週間しかないの…ごめんね、隠してて」
リィエルの世界が音を立てて崩れた。
膝から崩れ落ち、土を握りしめる。
彼の長い寿命の中で、人間の一年は一瞬にすぎない。
だが、その一瞬すらも、もう尽きようとしているというのか。
「どうして……どうして言ってくれなかった!」
嗚咽交じりに叫ぶリィエルに、アリアは微笑んで言った。
「だって……最後まで笑っていて欲しかったから」
◇◆◇
第五章 最後の一週間の旅
◇◆◇
残された七日間。二人は旅に出た。
――谷一面に咲く花畑を駆け回り、アリアは花びらを空に放り投げて踊った。
――湖畔に寝転び、満天の星を眺めながらお互いに肩を寄せ合った。
――雪山に登り、手を取り合いながら凍える風を越えた。
――村の祭りで踊り、灯りが夜空に舞い上がるのを見送った。
――突然の雨に追われ、古い小屋で肩を寄せ合い、雨音に耳を澄ませた。
――廃墟の城に入り、風が奏でる音を「昔の人々の歌」だと語り合った。
――希望の丘へと帰り着いた。
その旅の中で、アリアは常に笑っていた。
けれどリィエルの目には、少しずつ削られていく命の輝きが見えていた。
だから彼は必死に笑った。彼女の願いを叶えるために。
◇◆◇
第六章 別れの朝
◇◆◇
七日目の朝。丘の上で、アリアは静かに横たわっていた。
「リィエル……手を、握ってて……」
「ああ、ずっと……」
リィエルはその手を両手で包み込み、涙をこらえた。
けれど、温もりはゆっくりと薄れていく。
「ありがとう……リィエル……大好き……」
その言葉を最後に、アリアは眠るように目を閉じた。
彼女の唇からは、二度と声が紡がれることはなかった。
「アリア……!」
丘にリィエルの声が響いた。
人間の寿命の儚さを、
永遠を生きる彼はこの瞬間、骨の髄まで痛感したのだった。
◇◆◇
第七章 泡沫の記憶
◇◆◇
幾度も季節が巡った。
リィエルは再び希望の丘に立っていた。
花々は相変わらず風に揺れ、空は青く澄んでいる。
その中に、一輪だけ鮮やかに咲くスイートピーがあった。
アリアの好きだった花。
花言葉は――「別れ」そして「永遠の喜び」。
「アリア……」
リィエルはその花の前に膝をつき、静かに微笑んだ。
彼女はもういない。
けれど確かに、泡沫のように儚い一瞬の中で、彼は生きる意味を与えられたのだ。
スイートピーが風に揺れ、それがまるでアリアのように見えた。
――そして、永遠を生きるエルフの心に、
彼女の笑顔は決して消えることなく咲き続けるのだった。
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