3.銀牙王レイギルト

 全身が震える。まるで空気そのものが圧力に変わったかのような威圧に、息が詰まりそうだった。それでも、私は必死に声を絞り出す。


「えっと……私は、急にこの土地に転移させられて……」

「転移、だと?」


 低く響く声。その瞬間、空気が一段と重くなる。銀色の巨狼がゆっくりと牙を剥いた。


「銀牙王レイギルトの領域に、無断で転移してきたというのか!」

「ひっ……!」


 怒号のような咆哮が森を揺らした。地面が震え、風が逆巻く。私は思わず尻もちをつき、草の上に手をついた。目の前にそびえるその姿。銀の毛並みは光を受けて輝き、双眸は鋭い。


「ここは私の土地。侵入者には相応の報いを受けてもらう」

「む、報いって……?」

「――お前を、喰らう!」


 咆哮とともに、銀牙王レイギルトは口を開いた。鋭い牙が光を反射して、まるで刃のように煌めく。


 やばい、このままじゃ本当に食べられる!逃げ場はない。どうすれば……。そうだ、英霊たちの力!


 私は急いでウィンドウを呼び出す。光のパネルが目の前に展開され、そこに刻まれた英霊たちの名が浮かび上がった。


 この中で、最も強い力を持つ者――。


「……この人!」


 私は迷わず指先で名前をタッチした。


 瞬間、全身に衝撃が走る。熱い何かが体の中心から溢れ出し、血管を駆け巡った。脳裏に響く咆哮。視界の端に金色の輝きが閃く。


「ぬ……? 気配が、変わった……だと!」


 レイギルトの声音が低く唸る。警戒するように私と距離を取り、その巨体を沈める。銀牙王レイギルトが、私を敵として認識したのだ。


 私は震える手を握りしめ、立ち上がった。それだけで空気が震え、私と言う圧倒的な存在が誇示されるようだ。


「ぬ、ぬぬぬっ……! この気配、ただものではない! お前、何者だっ!」


 銀牙王レイギルトの目が細められる。空気がピリピリと震え、森の風さえ止まった。私はゆっくりと顔を上げ、その視線をまっすぐに受け止める。


「私に宿したのは――英霊拳王。己の拳ひとつで幾千の戦を制した、最強の武人」


 その名を告げた瞬間、レイギルトの背中の毛が逆立った。


「なにっ……拳王、だと……!?」


 その声に、わずかな怯えが混じる。私は一歩、前に踏み出した。地面がパキリと音を立て、足下から微かな衝撃波が広がる。


「今の私なら、あなたを倒せる」

「ほ、ほざけぇっ! この銀牙王レイギルトに勝てると思うな! 我が牙で引き裂いてくれるわ!」


 咆哮と同時に、レイギルトの巨体が閃光のように跳んだ。疾風が走り、木々がしなる。


 だが、その軌道を、私は見切っていた。


「はっ!」


 身を沈め、滑り込むように足を滑らせる。巨大な腹の下をすり抜けながら、右拳を握りしめた。拳に炎のような闘気が迸る。


「はぁっ!」


 ドガァァンッ――!!


 小さな拳が、雷鳴のような轟音を放つ。銀狼の体が宙に舞い、数メートル上空へと吹き飛ばされた。


「ぐはぁっ……!」


 息を詰まらせるような呻き声。その隙を逃さず、私は地面を蹴った。爆発的な反動で空を裂き、跳躍する。


 飛び上がるレイギルトの背へ、両腕を組み――。


「これで終わりっ!!」


 渾身の一撃を叩きつける。


 ズガァァンッ!!!


 大地が震え、砂煙が舞い上がる。轟音の中で、銀色の巨体が地面に叩きつけられた。その衝撃で地面がひび割れ、周囲の木々の葉が一斉に舞い落ちる。


「ぐ、ぬぅぅ……ば、ばかな……!」


 レイギルトは、地に伏したまま体を痙攣させていた。その圧倒的な存在を、私は、己の拳でねじ伏せたのだ。


 拳を下ろし、息を吐く。拳王の力がまだ体の奥でうねっている。だが、それ以上に、胸の奥に熱いものがこみ上げていた。


 これが、英霊の力。知識をくれるだけでなく、様々な力を授けてくれる。この力があれば、幼子の私でも生きていける!


 そんな事を思いながら、手を握りしめていると、レイギルトが震える体を起こした。


「この銀牙王レイギルトがっ……負けるはずなの、ない! 私は、この森の王、なのだ!」


 遠吠えをすると、先ほどよりも鋭い眼光で睨みつけてくる。どうやら、まだやる気のようだ。


「私の心は折れない! この体が朽ちるまで、何度でもお前を噛み殺しに行く!」

「だったら、私はその心を折る!」

「グルアァァッ!」

「はぁっ!」


 レイギルトは真っすぐに突進してくると、私も地面を蹴った。このレイギルトを屈服しないと、先へは進めないらしい。ならば、徹底的に殴りつくしだけだ。


 ◇


「うっ……ぐぅ……」


 小さなうめき声とともに、銀牙王レイギルトはその巨体を地に伏せた。途端に、あれほど荒れ狂っていた森が嘘のように静まり返る。


「よしっ……勝った!」


 私は息を整えながら拳を見つめた。


 立っているのは、私だけ。あれほどの巨獣を、何度も打ち据え、そして――ついに倒したのだ。


 それなのに、息は乱れていない。拳も痛くない。全身に残るのは、ただ燃えるような高揚感だけだった。


「これが……英霊の力……すごい……」


 拳王の力が、私の体の隅々まで満ちている。まるで、自分が別の存在になったような、そんな感覚。


「でも、これで森を抜けられそう」


 もう怯える必要はない。この力があれば、道を切り開ける。


 そう思ったその時――。


「ぬぅ……」


 地を擦るような低い声がした。レイギルトが、ゆっくりと体を起こす。


「まだやる気!?」


 私は反射的に身構えた。だが、その瞳から、先ほどの威圧は消えていた。代わりに宿っているのは、静かな意思。


「……もう、お前を噛み殺したりはせぬ」

「え?」

「この銀牙王レイギルトがここまで叩きのめされたのは、生涯でただ一度、今この瞬間のみだ」


 レイギルトはゆっくりと頭を垂れ、低く唸るように続けた。


「名を、聞こう」

「私の名前? ルナ、だよ」

「ルナ……ふむ、良い名だ」


 レイギルトは静かに近づくと、私の目の前でその巨体を伏せた。


「ルナ。お前の強さ、魂の輝き、確かに見た。我が牙も爪も、お前には届かぬ。ゆえに、この身を捧げよう」

「えっ?」

「今より我は、銀牙王レイギルトではない。お前の忠実なる僕、ルナの剣として仕えよう」


 レイギルトの額が、私の足もとに触れる。その仕草はまるで、忠誠の誓いのようだった。


「ま、待ってよ! そんなつもりじゃ――」

「礼を言うのは、私の方だ。お前に敗れたことで、私は己の傲慢を知った。誇り高き者が誰かを敬う、これは義だ」


 レイギルトは顔を上げ、柔らかく笑ったように見えた。


「ルナ。これからはお前の道を共に歩もう。銀牙王レイギルトの名にかけて、命ある限り、お前と共にある」


 その瞳に嘘はなかった。森の奥でただ一人だった私に、初めて仲間ができた瞬間だった。


「……うん。よろしくね、レイギルト……ううん、レイ!」


 銀の王は静かに頷き、尾をひと振りした。陽光が差し込み、彼の毛並みがまるで月光のように輝いた。


 こうして、私は森の王を従えた。

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