第18話 ウェルティアンの神獣

 山頂が見えてしばらく。絶え間なく歩き続けて、ようやくその頂に辿り着いた。

 そこは小さな村程度なら作れてしまいそうな程に広く、目をこらさなければ反対側の縁が見えない。

 知識のある者が見たなら、噴火の跡ではないかと考えただろう。


 その大人一人分半ほど低くなった場所の中心に、それはいた。

 見た目は、白くて大きな狼。遠目にも分かるほどの美しい毛並みで、背丈はユーゲンの倍近くある。


 近づくほどに見える爪は鋭く、牙も彼の目には恐ろしい。感じる威圧感も尋常ではなく、何も知らずに出会っていたなら、Aランクの中でもそうとう上位の魔獣だと思っていただろう。

 ――これが、神獣の気配……。


 ユーゲンは息苦しさすら感じてしまう。箱庭で出会った神獣たちは、これほどに恐ろしかっただろうか。思い返してみるが、そんな記憶は無い。

 ――魔力が制御できていないから、なのか?


 目をこらしてよくよく見てみると、なるほど、たしかにラツェルの言うとおり、なにやら苦しげだ。


「やっぱり、夢で見たのと同じ子だ……」

「じゃあ、あの神獣が騒動の原因で間違いないってわけだな。よし」


 余りの重圧に震えそうになっている足にムチを打ち、ユーゲンは神獣に歩み寄る。

 神獣も彼に気がついて、牙をむき出しにし、喉を鳴らす。しかしその視線がラツェルに向くと、すぐに唸るのを止めた。


 今の一瞬の威嚇すら無理をしたのか、神獣はその場に伏せる。同時にユーゲンも猛烈な息苦しさを感じて胸を押さえた。


「なん、だ、これ……」

「ユーゲン!」


 慌てて駆け寄ったラツェルは、彼の背に手を添えて魔力を制御する。ぼんやりと光る膜に包まれて、ユーゲンは明らかに呼吸の楽になった。


「助かったぜ、ラツェル。で、今のってなんだったんだ?」

「高濃度の自由な魔力に魂が侵されたの。誰にも制御されていない魔力は、簡単に属性に変わって色んなものに影響しちゃうから……」


 そういえばラツェルは魔力の暴走がどうのと言っていたと、昨夜の話を思い出す。彼には相変わらず、細かな理屈は分からないままだが、そうとうに危ない状況だというのは、身をもって理解した。


 神獣は、伏せったまま。おそるおそる近づくユーゲンに、神獣が唸る様子はない。内心でこっそり胸を撫で下ろす。


 そうして近づいてはみたものの、彼にどうこうできる考えはない。そもそもただの人間にできることなんてあるのだろうかと、ここに来てようやく首を傾げた。


「ラツェルならどうにかできるのか?」

「どう、かな……?」


 不安の色を表情に浮かべつつ、ラツェルは神獣に歩み寄ってその首元へ手を当てる。その手に伝わってくる熱は、彼女思っていたよりもずっと高い。体調が悪くて魔力の制御を失っているわけではないらしい。

 むしろ、制御を失ったことで伏せってしまったのだろう。


 ではどうして、神獣ともあろうものがその役割である魔力の制御をできなくなるようなことになったのか。考えても、ラツェルには分からない。

 唯一、神獣自身から放出される魔力の量が多いことだけ気になった。


「何かあったの?」


 神獣なら当然言葉を発せられるはずだが、かぶりを振るばかりで口は開かない。声を出すことも辛いのだろう。ようやく口がかすかに動いたと思えば、漏れ出たのは、不意に、溢れて、という短いものだけだった。


 ただ、それでもこんな事態になった理由は分かった。


「この子の制御できる以上の魔力が溢れちゃったみたい。それで、抑えきれない部分が森を過剰に豊かにしたり、魔獣を生んだりするような変化をしちゃったんだね」

「ふーん? よく分かんねぇ部分はあるけど、とにかくその溢れた魔力をどうにかすればいいんだな?」

「うん」


 問題は、そのどうにかする方法だ。ユーゲンも一応呻りながら考えてはみるものの、魔力や魔法の知識が無いに等しい彼では、とっかかりさえ掴めない。頼りになるのは女神であるラツェルだけだ。


「……これなら、たぶん、どうにかできると思う」

「ホントか!?」


 返された首肯にユーゲンは喜色を浮かべる。これでもう、あの町は大丈夫。肩を並べた同僚たちも、血を流さないで済むだろう。

 そうやって喜ぶ彼へ向けられた神獣の視線には、ラツェルだけが気がついた。


「なんか手伝うことはあるか? 何でもするぞ?」

「えっと、じゃあ、魔法陣を描くのを手伝ってほしいかな」

「魔法陣?」


 彼が知らないのは無理もない。女神であるラツェルには常識的な技術だが、人間にはまだ知られていないものだ。


「えっと、魔法を補助する、図形? みたいな感じ?」

「そんなもんがあるんだな。詳しいことは説明されてもたぶん分かんねぇし、とりあえず、言われたとおりに描けばいいんだろ?」

「そう、だね。私も上手く説明できる自信が無いし」


 ラツェルもその全てを教われている訳ではないのだから、尚更だ。


「まずは、この子を中心に大きな円を描きたいかな」

「うし、了解!」


 そこからは早い。二人で協力して、模擬戦をするにも問題ない程度の範囲に魔法陣を描き上げた。

 いくつかの円と神族の文字の組み合わせで作られた図形は、まったく知識の無いユーゲンの目には、なんとなく凄そうなものとして映る。


 彼の視界の中では、どこか不安げな表情をしたラツェルが最後の確認を行っていた。

 この段階で彼にできることはなく、相棒の作業完了を少し離れた位置で見守る。空を仰げば、気がつかないうちにずいぶん太陽の位置が低くなっており、そうかからない内に茜色に染まり始めるだろうと知れた。


「――うん、大丈夫そう」


 ラツェルの表情に、不安は無い。代わりに安堵が浮かぶ。


「あとは、ここに魔力を流すだけ」


 若干の緊張が混ざったのは、その魔力を流し魔法陣に効果を発揮させる作業も彼女がしなければならないからだ。ユーゲンは作業の途中、ここまで大きな魔法陣を描くのは初めてだと彼女の言うのを聞いていた。


「それじゃあ、やるね」

「お、おう、頼んだ!」


 緊張が移ったのか、ユーゲンの声も固くなる。

 ゴクリと鍔を飲み込む彼の視線の先で、ラツェルは深呼吸をした。彼女を見守っているのは、苦しげな表情の神獣も同じだ。魔法陣の中央で、幼い女神に空のように青い双眸を向けている。


 ラツェルが魔法陣へ両手を翳した直後、ユーゲンは全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。その感覚はまるで、タナトススネークと対峙してしまったときのようで、強大な力の中にあるのだと否が応でも彼に自覚させる。


 これまで人間の友人のように接してきてはいたが、よくよく考えればラツェルは女神なのだから、当然だ。そうと頭で理解しても彼女との関わり方を変えようと思わずに済んでいるのは、肌で感じた力に優しさと温かさを覚えたからだ。


 やや遅れて、魔法陣が銀色の光を放つ。ラツェルの髪と同じ色だ。

 目が潰れるほどの強さではないが、淡くもない、そんな美しい光。その中で、同じ銀が巻き上がる風に揺れる。


 ユーゲンが思わず見蕩れてしまったのは、相棒のその姿になのか、魔法陣の光になのか。彼自身分かっていない。


 ハッと我に返って神獣へ視線を向けるも、下からの光が作った影でよく分からない。

 その光が、徐々に収まっていく。ラツェルの銀が、神獣の表情が、少しずつはっきりしていく。


 ユーゲンの耳に大きく息を吐く音が聞こえたときには、魔法陣の銀光は淡く昼の日に紛れてしまう程度になっていた。


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