第3話 箱庭の外へ
③
ラツェルが先頭に立ち、二人は森の中を走る。
ユーゲンはともかく、ラツェルも意外と体力があるようだ。足場の悪い森の中を淀みなく、それなりの速度で駆け抜ける。
「意外と、足速いな!」
「え、そうなの? 神獣たちには、いつも、全然勝てないんだけど……」
「そりゃそうだ!」
なるほど、だからかとユーゲンは納得する。神獣たちと競争していたら、走るのにも慣れる。
それにラツェルは神族だ。人間よりずっと体力があってもおかしくない。
ユーゲンも負けてはいない。体格に対して大きな剣、金属の塊を担いでいるのに、息を切らすことなく走り続けている。
「――ラツェル! ラツェル! 出てきなさい! 害虫を駆除しないと!」
遠くから金切り声が届いた。レーテルの声だ。
同時に雷の鳴る音がして、大地が揺れる。
「お前の母ちゃん、なんで、こんなに、怒ってるんだよ! 人間が神様の領域にいるから、って感じじゃ、ないよな!」
ユーゲンは縮こまりそうになるのを堪えながら、怒り狂う神の娘に問いかける。
「わ、分からないけど、私のことになると、いつもこうなの!」
「ええっ……」
ユーゲンは自分の母親を思い浮かべてみるが、新しく友達を作ったからといって怒られた記憶はない。
ましてや、その友人を害虫呼ばわりだなんて、
これ以上考えても女神の気持ちが分かるはずもない。ユーゲンは諦めて、これから向かう先に意識を向ける。
「それでっ、その心当たりってのは、なんなんだ!?」
「前に一度、お母様が言ってたの! あそこにだけは、近づいちゃ駄目だ、って!」
それがどうして、と一瞬考えたユーゲンも、すぐに答えに辿り着いた。
娘をあれほど猫かわいがりしている母親だ。箱庭の出口がある場所には近づくなと言うかもしれない。
「なるほどな! ところでさっ」
「なにっ?」
「なんか、爆音が、近づいてる気がするんだけど!?」
「うん! たぶんもう見つかってる!」
嘘だろ、とユーゲンは内心で呟く。
これだけ地面を揺らすような攻撃を向けられたら、彼などひとたまりもない。
「大丈夫! そんなに遠くないから!」
二人はひたすらに走る、走る。穏やかな木漏れ日とは対称的な音を右手に聞きながら、森の中を疾走する。
動物たちも音のするのとは逆方向に逃げている。その中に神獣の姿はない。
主であるレーテルの怒りに巻き込まれるのを恐れているのだろうか。彼らが追手に加わっていない幸運に、ラツェルもユーゲンも心の内で感謝する。
「その木を左に、行った先!」
「分かっ――げっ」
右手のずっと先、花畑になっているところの中空にレーテルがいた。
鬼のような形相だ。
あれが慈愛に満ちた女神と聞いて、誰が信じるだろう。
「ラツェル! それが悪い虫なのね! さあっ、離れなさい!」
どうやら娘を気にして大規模な攻撃ができないらしい。
ユーゲンとしてはラツェルを盾にしているようで情けないが、相手は創世の女神だ。そんな甘えたことは言ってられない。
二人とも足を止めず、むしろスピードを上げる。
娘のその様子にレーテルはイラだったのか、よりいっそう甲高くなった声で、ラツェルの名を呼んだ。
「急げ!」
「わ、分かってる!」
まだそれなりに距離があるのに、ユーゲンの肌はピリピリと痺れる。レーテルの気配のせいだ。
一瞬見えた向こう側にはいくつもクレーターができていたし、もし捕まれば、どんな酷い目に遭わされるのか。
ひと思いに殺されたらマシなんではないだろうかとすら、ユーゲンには思えてしまう。
ラツェルとしてはまさか母がそこまでするとは思っていないが、あの様子では、その自信も失ってしまいそうだ。
「はぁっはぁっはぁっ……」
「頑張れラツェル!」
「う、うん!」
さすがにラツェルの体力の底が見えてきた。
ユーゲンもそれほど余裕はない。
「待てぇっ! 害虫が!」
加えてこの圧だ。ユーゲンは足が縺れないよう、必死に動かす。
いつしか周囲には霧が出てきており、視界も悪い。
「ダメよ、ラツェル! そっちに行っては!」
「あれだけ慌ててるんだ。きっと、出口だぞ!」
「うん!」
そう言って励ますが、聞こえる声はさっきよりもずっと近い。
少し先に青い光が見えた。ユーゲンには見覚えのある光だ。
今度の光は亀裂ではなくて、扉のように四角くなっている。
出口だ、間違いない。口角を上げるユーゲンのすぐ横で、別の光が弾けた。
白いそれは、天を裂くはずの雷だ。
「きゃっ!?」
「くそっ!」
地面が弾け、礫が飛ぶ。
怪我をするほどではないが、確実に足は鈍った。
――なりふり構わなくなってきやがった! 間に合うか!?
出口らしき光までは、もう百メートルもない。
二人は最後の力を振り絞り、足に力を込める。
「うぉぉぉおおおっ!」
そして、光へ飛び込んだ。
一瞬にして霧が晴れ、二人の鼻孔をさっきまでとは違う匂いが満たす。
気がつけば、二人は崖の中腹の、少し壁の凹んだ辺りにいた。
凹んだ内側は遺跡のようになっていて、中央に四角い青の光がある。その向こうから、レーテルの金切り声が聞こえてきた。
「イヤァァアアア! ラツェルぅぅぅうううっ!」
慌てて周囲を見るが、箱庭への入り口を塞げそうなものは無い。
「く、来るぞ!」
後ろは崖。伝って降りることはできるし、よく見れば細い道もある。
しかしそこは、空を飛べるレーテルが追いつく絶好の場でしかない。
この状況を解決する手段は、ラツェルが持っていた。
「これで、お願い!」
ラツェルが前に手を翳すと、光が生まれ、そして雷と化す。
雷は箱庭の入り口のすぐ上の岩盤を砕き、振ってきた大岩が青い光を封じた。
金切り声は、変わらず聞こえてくる。
しかし女神が飛び出してくる様子はない。
それでも不安で、しばらく二人は、じっと箱庭の入り口があった場所を見つめる。
「……出て、こない、な」
「……うん」
はぁぁっ、と響いたのは、二人の溜め息だ。
背中を合わせて崩れ落ち、岩の地面にへたり込む。
「こ、怖かった……。ラツェルの母ちゃん、怖すぎだろ……」
「う、うん。だから言ったでしょう。見つかったら、大変だって……」
極度の緊張もあって、二人とも体力を使い果たしてしまった。
崖を下りるには、もう少し休憩が必要だろう。
「別の方法で追いかけてきたりは、しないよな?」
「たぶん……。お母様は力が強すぎて、人間の世界には簡単には来られないって、前に言ってたから……」
ラツェルの声には、自信があまり見られない。
「神様だしなぁ……。あ、ラツェルは大丈夫なのか?」
「うん。私はまだまだ未熟だから」
「あんだけすげぇ魔法が使えて未熟って……。
箱庭の入り口を塞いだような規模の魔法、人間では数えるほどしか使える者がいないだろう。
時間をかければ別だが、少なくとも先ほどラツェルがしたように、一瞬で発動するのは限られた高位の魔法使いの特権だ。
「あれ、そういえばラツェルって何歳なんだ?」
「私? 十五、かな? もうすぐ十六歳だと思う」
「それじゃあ俺の方が年上だな! 先月十六になった!」
ほとんど同い年でしょう、と思うラツェルだったが、口には出さない。
ユーゲンがあまりに得意げにするから、水を差すのが可哀想になったのだ。
「でもそっか。十六になる歳か。じゃあ、冒険者登録は問題ないな」
「え?」
「えって、なるだろ? 冒険者。そんで俺と、世界中を見て回るんだ」
当然のように言われて、ラツェルは翡翠色の目をぱちくりとさせる。
たしかに、そうしたいとは思っていた。それに、勢いでとはいえせっかく外の世界に飛び出したのだし、何より今レーテルのところに戻るのは怖い。
「……うん! もちろんだよ!」
だから、ラツェルは満面の笑みで頷いた。
その笑みについ照れて、ユーゲンの頬が染まる。
――お母様の作った世界、かぁ。楽しみだなぁ……。
ラツェルは、そしてユーゲンはこれからの冒険に思いを馳せ、胸を高鳴らせた。
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