第2話 女神の逆鱗

 ラツェルの暮らす真っ白な宮殿は、箱庭の中央にある。木でも石でもない、不思議な材質で、月明かりに照らされる姿が美しい。


 その二階、楽園のような女神の箱庭がよく見渡せる部屋で、ラツェルは母と二人夕食を食べていた。

 テーブルに並んでいるのは、パンが一つと様々な種類の果実だ。


「お母様、お母様はいつも、どこから箱庭に出入りしているの?」

「転移で直接よ」


 ラツェルの母、レーテルは娘をそのまま大人にしたようなうり二つの顔に微笑みを浮かべる。


「じゃあ、神獣たちも?」

「いいえ。彼らには彼ら用の入り口を用意しているの。でも、突然どうしたの?」


 怪訝そうにするレーテルへ、ラツェルは慌てて首を横に振る。

 怪しまれすぎてユーゲンの存在がバレたらいけない。


「ちょっと、気になっただけ」

「そう?」


 幸い、レーテルはそれほど気に留めてはいないようだ。

 ラツェルはこっそり息を吐いて、手に持っていた果実を小さく囓った。


「……あら、ラツェル、髪が乱れてるわね?」

「あっ、えっと、少し走ったから……」


 心臓の跳ねるのを感じた。


「まぁ! ダメじゃない! そんなことしたら! 転んだらどうするの!」

「ごめんなさい……」

「はぁ……。仕方ない子ね。いらっしゃい。梳いてあげる」

「うん!」


 ラツェルは果実を置き、母の隣に移動する。

 こうして母に髪を梳いてもらうのが、ラツェルは好きだった。


 なんとなく気持ちが良くて、眠気すら感じる。

 そのまま体重を母に預けると、彼女の温もりに心が癒やされるようだ。


 だからつい、油断して、聞いてしまった。


「……ねえ、お母様」

「なぁに?」

「外の世界って、どんなところ?」


 レーテルの手が止まった。

 しまった、と思った。こんなことを聞いては、ユーゲンのことに勘づかれるかもしれない。


「……あなたは、知らなくていいの。この箱庭から出なければ、ずっと幸せでいられるんだから」


 しかしレーテルは何事もなかったかのように髪の手入れを再開する。

 バレては、いなさそうだ。


 母に気付かれないよう、ラツェルは胸を撫で下ろした。

 それからできるだけ、いつも通りに、うん、分かった、とだけ返した。



 翌朝、ラツェルに案内された大樹のうろでユーゲンは目を覚ました。

 昨日は暇すぎて、ずいぶん早くに眠ったのだが、彼自身の思っていた以上に疲れていたらしい。

 ――少し寝坊したか……?


 うろの入り口を覆う蔦の隙間から外を覗くと、木々の影が短い。

 森の中だから正確には分からないが、もう昼も近いのではないだろうか。


 ラツェルは、まだ来ていないようだ。今頃、ユーゲンが外の世界に帰るための方法をあれこれ探しているのだろう。


 ユーゲンは昨日できた神族の友人を思い浮かべる。

 初めはいきなり彼の手を引っ張って走り出したから、わんぱくな性格なのかと思っていた。


 しかしこのうろで話をしているうちに、印象が変わった。少なくとも快活、というわけではないらしい。

 ただ好奇心は強いようで、ユーゲンが主に父から聞いた話をしてやると、エメラルドの瞳をキラキラと輝かせた。


 ――ちょっと、可愛かったな……。

 ぽっと、ユーゲンの頬が染まる。

 まだまだ若い彼は、同年代の少女に対する免疫がなかった。


「ラツェル、か……」

「ユーゲン!」

「うわっ!?」


 予期しない声に驚き、ユーゲンは意味もなく立ち上がった。

 それからなぜか言い訳をしようとして、ラツェルの様子に気がついた。


 彼女は顔を青くして、酷く慌てているようだった。


「何かあったのか?」

「ごめん、ユーゲン。お母様にバレちゃった。速く逃げないと、どうしよう!」

「お、落ち着けって。見つかったらヤバいのか?」


 駆け寄ってきたラツェルを宥めようとユーゲンは手を彼女の両肩に置く。それが効を為したのか、震えていた彼女の声もいくらか落ち着いた。


「うん……。たぶん、ユーゲンは殺されちゃう。前に私に怪我させちゃった神獣もそうだったから……」


 ゴクリ、とユーゲンの喉が鳴った。

 

 耳を澄ますと、遠くから地響きのような音も聞こえてくる。

 もしやこれは、自分を殺そうと探す女神の仕業なのでは? そう思うと、恐怖が腹の底からわき上がってくる。


「で、でも、逃げるったって、どこに? 出口は分かったのか?」

「だめだった……。でも、一カ所だけ、心当たりがあるの」


 それは賭けではあった。

 もしラツェルの勘違いで、全くの見当違いだったなら……。


「……分かった。そこへ行こう」


 それでも、ユーゲンは彼女を信じると決めた。

 ここで隠れてほとぼりが冷めるのを待つという手もあるかもしれないが、その方が生き延びられる望みが薄いような気がしたのだ。


 ユーゲンは覚悟を決め、ラツェルと共に大樹のうろを飛び出した。



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