第7話 限界

 論理が破綻した指摘の一つに「滑りやすい坂論法」というものがある。

 最初の段階でブレーキをかけておかないと、坂道を転がるようにして、最終的に重大な問題を起こし戻れなくなるので、問題ではない段階でも規制しようというものである。


 人気アニメのコラボを中止した理由は、ヒロインが扇情的なポーズを取っているというものだが、二次元作品を用いたときに女性蔑視という問題は存在しない。被害者が存在しないというのは二次元であるから当然である。そこで、製品のパッケージにヒロインが載っていることで女性の扱いが軽視されるから規制しろと言われたのである。これこそ、「滑りやすい坂道論法」であって、問題のないコラボではなく、今後女性蔑視の問題が発生したところで対処すればいいだけだ。


 細胞の初期化技術についても、私は同様に「滑りやすい坂道論法」でしかなく、意見を聞く必要がないと思っている。細胞の初期化技術は細胞を受精卵に近づける技術だから命を雑に扱っていると言われている。しかし、実際には、受精卵にまで初期化しているわけではない。


 あくまでも初期化で目指しているのは、第一に細胞を高速に増殖させるためにテロメラーゼという酵素が活発に働く状態で、第二に好きな部位に分化させて(特定の機能を持った細胞にすること)特性(例えば発がん性物質を少なくする、食感や味を向上させる)を付与できる状態である。生命の元となる受精卵にはならない。

 細胞の急速な増殖による有毒物質の増加については現在の検査技術で十分で、もし対処できない事態が発生すればそのときに対処すればいい。


 その都度対処すれば十分なことを大問題のように論じてしまうことが、「滑りやすい坂道論法」というものである。無視すればいい。しかし、布施社長は“配慮”することにしてしまった。


「転職するとして、大学の先輩や担当教員を頼るか」


 私は一人オフィスで残業をする。旧主任の研究をまとめていた。時間があれば、中止になったプロジェクトの現状をまとめたいと思っているが、人手が足りない現象では周囲に見つかれば怒られるし、上司に見つかれば、仕事をさぼっているとして処分されるかもしれない。労働環境の悪化と給料の減額で社内の雰囲気は最悪だ。魚介類や果実、野菜を扱う部署に比べて、食肉を扱う部署はまだ離職率が低いらしい。


 昼休憩のときにオフィスを覗いてみたが、ディスクは埋まっていた。給料が高いのか、労働環境が良いのか、野心が残っているのか。布施社長の発言からどの部署もきついはずなのに、私は理解できない。家族が人質に取られている、くらいしか会社に残る理由なんてないだろう。お金にならないものに“配慮”している。こんなにいろいろ犠牲にして、布施社長は何に気を遣っているのか?

 

 私は報告書をきりのいい部分まで進めて、室内灯を切る


「もうこんな会社は嫌だ」


 と俯いて歩いていると何かに当たった。

 見上げてみると黒い影が見えて、スマホの画面を点ける。

 光を照らすと、スーツ姿の布施社長だった。


「——え?」


 私の愚痴が聞かれた?

 でもどうして。ここに布施社長が。

 機会があれば二人きりで話したいと思った。でも戸惑ってしまって言葉が出て来ない。

 わざわざ真っ暗な状況で出てきてどうしたのだろうか?

 布施社長は私をじっと見ている。


「白樺さん、一体何が嫌か教えてくれませんか?」

「何も言っていませんけど。明日も早いので帰らせてもらってもいいですか」

「話してください。私は社員のために話を聞きます」


 淡々とした言い方が気になったが、社員のためという発言で京生さんが帰ってきた気がした。でも今は社長だ。不満についてどこまで言ってもいいのか。

 ……言えるだけ言おう。何も“配慮”してくれないなら、私も転職をする。

 変わってくれるならそれでいい。

 何より、一度は好きになった相手に戻ってきてほしい。社員想いで、優しい京生さんに。

 変わってくれないなら、私も。


「私はみんながやめていく環境が耐えられません。社内がぎすぎすして」

「それはどうしてですか?」


 京生さんの柔らかい口調で、堰き止めていたものが溢れ出してしまった。

 京生さんが“配慮”すると言って、みんなががっかりしたこと、それによって退職者が続出したこと、京生さんの無茶と多すぎる退職者の影響で仕事が激増したこと、研究部の人が生産技術部や品質保証部の仕事を任されることになって研究が十分にできなくなったこと、

 研究のプロジェクトや企画が次々と中止になって雰囲気が最悪だったこと、京生さんが社員や会社を想ってくれないこと、ターゲット層に関係のない人々に“配慮”したことで巨額の投資が必要になるだけでなく、満足できる利益を出せずに給料が下がったこと、そのせいで多忙なのに稼げない状況になったこと、さらに退職者が増えて尊敬する主任まで辞めてしまったことを話した。


 途中で涙が溢れて、私は京生さんの胸に顔を埋めていた。

 悔しくて、身体が震えてしまって、膝から崩れた。京生さんは膝を床に着けて私を抱き締める。

 もっと早く話せば良かった。

 京生さんは分かってくれる。


「よく分かりました。白樺さん、苦しかったと思う。僕が白樺さんを“配慮”しよう」

「私だけでなくて、他の社員のみなさんにもお願いします。ちゃんと稼がないと、会社がなくなって、技術ごとなくなってしまいます」

「……いえ。野心のない、優秀ではない人、それに今の会社の変化が気に入らない人にはやめてもらいます」


 京生さんは私を突き放す。黒い瞳は闇夜の湖のように漆黒で、そこで魚が死んで浮かんでいても気づくことはできない。無慈悲で、無機物的で、無表情で、冷たい視線だった。私は怖くなって一歩下がる。

 京生さんは私が黙ったことで、追加の説明をする。


「労働力は、食肉の部署のように、再生人間で賄います。幸い、『イマジエッセン』には細胞レベルを扱う技術がありますから」


 ……食肉の部署のように?

 その技術が『イマジエッセン』にあるとは思っていなかったが、真剣な眼差しを考えるに嘘は吐いていない。倫理を、人道を犯して、SNSで騒いでいた意見を考慮して、京生さんは何がしたいのか。

 間違っている。超えてはいけない一線を超えている。命を、社員を踏みにじっている。


 再生の技術というのは一体どんなものか分からない。細胞の初期化技術で行きつく先は受精卵だ。受精卵から成人を作るまでに時間はかかる。細胞の増殖スピードは分化(細胞に機能を持たせること)が進むほど遅くなる、というのが私のイメージだ。がん細胞の異常な増殖スピードは、細胞の増殖の限界を決めるテロメアというものを、酵素であるテロメラーゼが引き伸ばすことによって起こる。

 そこから想像すると、……細胞単位でひとりの人間を作製することは難しい。


 そもそも、違法行為を『イマジエッセン』の研究部にほとんど頼らずにできるのか?

 裏に組織が隠れていて、京生さんはそれに頼った。


「それって。……私は誰に“配慮”して、何を“配慮”してもらっているのだろう」

「我が社は“配慮”を進めるためにあります」

「会社がなくなっても?」

「なくしません」


 もう何を言っても無駄だ。

 京生さんは裁かれなくてはならない。

 

「間違っている。もうどれだけ殺してきたの?」

「数えてはいませんが……」

「研究者は誰もが、技術者としての倫理を大切にしている。科学の進歩には犠牲が付きものだよ、でも。人類は間違えながら、その過ちを決して許さないように、未来に引き継がないように学んできた。京生さんは、分からないの?」

「ならば、“配慮”します」


 京生さんは微笑む。


「次からは脳死判定の人間を買い取り、脳細胞を作製して入れ替え、それを労働力としましょう。完全週休二日制、白樺さんなら管理職扱いにして、他の社員の研究の進捗だけ確認し、残りは好きな研究をするのはどうでしょう?」

「——何を言って」


 私は理解できない。

 京生さんが怖くなって突き飛ばしてでも逃げようとしたとき、京生さんの手に先の尖った棒が見えた。月明かりの仄かな光がその正体を暴く。


 バールだった。釘抜きに使用するL字型に曲がった鉄製工具だ。

 京生さんはこんな夜中にどうしてオフィスに現れて、“配慮”を提案して、今は手にバールを握って笑っているのか。私が最後にオフィスの室内灯を切って帰宅する予定だった。

 答えは一つ。

 

 私、殺される……?




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