されどすべてはただの愛悼歌

とと

されどすべてはあの子への

「なんていうかさ、誘蛾灯みたいな男だよね。君って」


 ぼろぼろと大粒の涙を流している幼馴染に向けたとは思えない台詞だな、と思った。

 そんな感じの午前二時。草木も眠る丑三つ時のことだった。外からは名前も知らない虫の鳴き声だけが聞こえていて、耳鳴りと区別がつかなくなっている。そんな時間帯に、幼馴染とはいえ、大の男が自分の家で泣いている。……だなんて、相当な異常事態だろうに。奴は普通に冷静だった。

 冷製も冷静、しかも無関心だ。なんか泣いてるなこいつくらいの感想だろう。感想が無味乾燥すぎて泣けてくる。いやその前から泣いてたけども。少しは意識を向けてほしい。

 せめて、何があったのかくらい聞いてくれればいいものを。奴ときたら、途中から飽きてゲームを起動してやがる。本当にどうかしてる。その反応に少し安堵してる俺を含めて。どうかしている。


「……あ、何があったのかとかは聞かないから」


 心でも読めるのかよこいつ。慄いたついでに涙が止まった。


「何があったのか、おおまかな予想はついてるし。私から何か言えるとしたら、他者からの視線の意味に気づけってくらいだし」


 YOUWINの文字が画面に表示されたと同時に、視線がこちらを向いた。


「予想、って」

「誰かに告白されたか、無理やりにキスでもされた? それとも、押し倒されでもしたかな」

「…………」

「沈黙は何よりも雄弁な肯定だよ」


 言われたとおりだった。幼馴染が口にした全て、俺が泣いている理由そのものだ。いっそ不気味まである。なんだこいつ。


「その程度で、とは言わないよ。君は心の底から彼のことを慕っていたんだろう。当たり前に、普通に、先輩として」


 相手が誰なのかすら把握しているらしい。もう怖い。そう、先輩だった。喫茶店のバイトの先輩で、親切な人だった。仲がいいと思っていたら、今日告白されて。それで。


「同じことを何度繰り返せば懲りるんだろう、とは思うけどね」

「……何度、って」

「私が把握しているだけで九、……ああ、これで記念すべき十回目だよ。ケーキとか買おうか?」

「いらんわ」


 こちらに対して些かも興味がないように見えて、ちゃっかりと回数を覚えていたらしい。少し驚くと同時に、涙が止まった。そしてケーキはいらない。本気でいらない。どんな発想だよそれは。


「だろうね」


 悪戯っぽく微笑んで、幼馴染はゲームを再開した。そういうことする? するのか。十回。……そうか。十回も、俺は、男から告白されて驚いて泣いてこいつのところに駆け込むなんて一連の流れを繰り返してきたのか。

 そう思うと、我ながらなんて懲りないんだろうといっそ呆れそうになる。もとい、なんでこんなに男からモテるんだろうと途方に暮れそうになる。普通に女の子が好きです。ジェンダーフリーやら同性婚やらが声高く叫ばれる昨今、普通なんて言い方は避けたほうがいいんだろうけどさ。

 俺は少なくとも女の子が好きなはずだって話で。だってのに男から迫られるのはもうただの暴力なんだよ。実際に暴力的に迫られてるし。もっと穏やかに告白してほしい。そしたら穏やかに振るから。


「……しかし、まあ。よくわからないのだけれども」


 画面から視線を外さず、幼馴染は口を動かした。妙に真剣な横顔を眺めてると、しみじみ思う。こいつ、本当に顔がいいな。すこぶる顔がいい。顔面だけなら世界を狙えそうなくらいだ。その分内面が悪くて本当に良かった。世界はうまく釣り合っている。


「君は、どうして、私に泣きつきに来るんだい? 女装しているとはいえ、私も男だっていうのに」


 ……そう、聞いた瞬間に。そういやこいつ女装してたな、と思い出した。家の中でもスカートを穿いてるあたり、筋金入りだ。いやそういう言い方で正解かは知らんけども。とにかく、女装してるんだよな。

 あまりにも堂に入っていて、というかもう慣れきってしまっていて、少しも気にしていなかった。こいつがこいつでいるなら、見た目がどうだとしても俺は気にならないらしい。自分でも驚きだ。

 幼馴染が女装し始めた時は流石に驚いた気もするけど、今となってはただの日常に過ぎない。うーん適応力。少しだけ考えた。確かにこいつも男だけど、まあ。


「他に泣きつける相手なんていないからな」

「……彼女とか作りなよ。君はいいやつだから、入れ食い状態だろ」

「いや、相手を好きになってから恋人になるんだろ? 彼女を作る、って目的から相手と接するのは不誠実だし。そういうのはちょっと……」


 本音を伝えたのに、心底呆れたような顔をされた。理不尽じゃないか、それ。


「付き合ってから始まる恋もあるよ」

「……ちゃんと好きな人と付き合いたいんだよ、俺は」


 盛大なため息を吐いて、幼馴染は目を伏せる。そんな仕草さえ一々麗しい。腹立つ。


「…………ちなみに、多分だけど、君がモテてるのはそういうところだからね」

「どういうところだよ」

「そういう、お綺麗で優しい理屈を真正面から信じてるところ。誰だって綺麗なものに惹かれるんだよ。自分がそうじゃない自覚がある人は、なおさらね」


 言っている意味がよく理解できなかった。つまりどういうところだよ。もっと馬鹿にも理解できるように言ってほしい。自慢でもなんでもないが、俺は補欠合格でギリギリ第一志望の大学に滑り込んだ男だ。つまり賢くはない。知ってるだろお前は。


「……一種の劇薬みたいなものなんだろうね。君がそうして、ほとんどの人が生きていく上で捨ててしまう無垢さを後生大事に抱えているのを見ると、否が応でも惹かれてしまう」


 つらつらと並べ立てられた言葉のすべてが、右から左に流れていく。何? なんか褒められてる? それともアホだなって貶されてる? もうわからん。


「いやわからん。何もわかんねぇ……」

「そのお綺麗な水晶体にまっすぐに見据えられると、本当にそう在れるんじゃないかと勘違いしてしまうんだよ」


 YOULOSE、の文字が画面に表示される。それと同時に、幼馴染の視線がこちらを向いた。月のない夜空のような瞳だ、と思う。

 そういう、身体の一部分だけを切り取って眺めても、一分の瑕疵すらもなく美しい人だな、と。瞳の色も。丁寧に作られた人形のように整った顔立ちも。艷やかな髪も。指先さえも。


「信じたくなるんだよ。君にとっての一番になれたなら。君にとって、ただ一人の愛する人になれたなら。君の水晶体が映すその綺麗な世界で、生きていけたならば。自分は救われるんじゃないか、なんて」

「……お前、顔がいいよな」

「今の話聞いてその反応なんだね。……まいいや。次は二人で対戦しよ」


 話をろくに聞いていなかったのがバレたらしい。いやバラしたようなものだけど。幼馴染は綺麗な顔に露骨なくらいの呆れを表しながら、コントローラーを投げつけてきた。


「誘蛾灯が引き寄せるのは、虫ばかりだよ」


 キャラクターを選びながら、少し低い声が零した。視線はこちらに向いていない。


「だから、君は、自分に惹かれる人ではなくて。君が好きだと思える相手を選ばないと駄目だからね」


 ……こいつ、もしかしたらめちゃくちゃに優しいんじゃないか。泣きながら深夜に転がり込んだ幼馴染を追い出さなかったことといい。泣き止むまで放置したのも、一種の優しさかもしれないし。優しいな。しみじみと、そう思う。顔が良くて、優しくて、指先まで綺麗な人。

 欠点なんて、その適度な無関心さが冷たさに思われそうなとこと、女装してるとこだけだ。いや女装は欠点か? 特定の性癖な持ち主に対しては美点通り越して百点なんじゃないか?


「……お前は、どうなんだよ」

「は? 何が?」

「すきなひと」


 ……が、いたら。どうなるんだろうか。口に出した瞬間に、少しだけ、喉奥が引きつった。さっきまで泣いていた後遺症だろうか。わからない。ただ、急に、思い至ってしまったのだ。そうだ。こいつは俺の幼馴染だけれど。ずっと一緒だったけれど。これからも、そうだと、信じていたけど。

 こいつにもいつか、好きな人ができて。深夜に泣きつく幼馴染が厄介で面倒な存在に変わ──現時点で厄介かもしれないけども。それはさておき。本当に、ただ面倒なだけの存在に変わって。家の前で追い返される日が、いつか、来たら。俺は。


「いや、ないから」

沈む思考を留めたのは、明快な声だった。

「私は、死ぬまでこのままだよ」


 救いがたい話だ、と。少しだけ、考えた。

 こいつにはきっと救われるつもりなんてなくて。幸せになりたいという願望さえなくて。俺がこうして胸を痛めることすらも、どうでもいいと跳ね飛ばされるんだろう。


「……しぬまで」

「だから、安心して何度でも失恋しなよ」

「振られる前提かよ!?」


 思わず突っ込むと、幼馴染は妙に優しげな顔をしていた。知らない人のような顔だった。


「誰かとちゃんと付き合ったら、ここには来ないでしょ」

「……そ、れは」

「泣きつく相手が、他の誰かに変わる。君にとってはそれだけの話だ。私としても、それだけなんだけどね」


 ……本当に? 疑問が、首をもたげた。本当に、それだけなんだろうか。それだけで終わる話なんだろうか。俺が、誰かを好きになる日なんて来るのだろうか。

 誘蛾灯だ、と。聖書の一文でも諳んじるような明瞭さで吐き出された声を、思い返す。誘蛾灯。俺は、本当にそんな生き物なんだろうか。わからない。正しいものは良くて、間違ってるものは駄目で。人には優しくするべきで、正しいとされる論理に基づいて生きていけば、それが一番いいはずで。きっと、小学生くらいの倫理から、俺はまだ成長できていない。

 変われていないだけのことが、誰かにとっては輝いて見えるのだろうか。夜に光る灯火のように。では、なぜ、こいつはそうなのだと断言できた?


 ──聞くべきではない。知らないふりをするべきだ。理性がそう叫ぶのに、俺は口を開いた。喉が、塞がっている。言葉が出てこない。それでも、どうしても。どうしようもなく。聞きたいことが、あった。できて、しまった。


「……も、し。もしも、の話」

「うん?」

「俺にとっての一番が、お前だったら」


 視線が、こちらを向いた。無機質な夜が、俺のことを見据えている。彼の双子の妹とは、……もういない彼女とは、似ても似つかない瞳。


「──あはは」


 歪な。軋んだ。笑い声によく似た、妙な音が。幼馴染の喉から、零れ落ちた。


「それが、一番、駄目だよ」


 昔のことを、思い出す。目の前の彼が、泣いた日のことを。『彼』が、女装し始めた日のことを。俺には手の出せない何処かで。俺には関与できない深くで。致命的に歪んでしまった、この人のことを。考える。

 何度も、何度も、考えてきた。結論は未だに出ない。

 幸せになるつもりなんてなくて、取り戻せない過去と心中するつもりの、この男を。俺には、救えない。泣きつくことを許されたから。縋ることを認められたから。泣いて、喚いて、しがみついて。それでようやく、どうにか、正気の崖っぷちみたいな顔をしてこいつは生きていてくれている。

 そのすべてが俺の我が儘で。独善で。でも、もしも、違ったなら?


 こいつの目に、俺のことがもし。仮に。奇跡的に。救いをもたらす光のような、何かに、映っているならば。

 コントローラーを手放して、幼馴染の手を握る。冷たい手だった。手が冷たい人は優しいと聞くから、こいつは本当に優しいんだろう。きっと。


「………………お前だけを見てる」


 愛や恋なんてものは、知らない。普通に、女の子が好きだったはずだ。初恋の少女の顔を思い出す。目の前の、女装した男の顔に塗り潰されて、記憶が揺らいでいく。

 それでいいんだと思った。それで、よかったんだと。俺にとってはそうだったけど、こいつにとってはどうだろう。憎まれるだろうか。恨まれるだろうか。

 それとも、とっくに憎悪も怨恨も、通り越してしまったか。わかるはずがない。人の心なんて見えないのだ。俺が、自分のことを好きになった相手のことを、何も理解できてないみたいに。結局は、それだけの話だ。だから、息を吸い込んで、言葉を吐き出す。理解してもらえるように。届くように。伝わるように。


「……だから、ずっと、このままで、いるから」


 好きな人ができる未来も。ちゃんと誰かを愛する明日も。俺が持っていたらしい、真っ当さも善良さも正しさも綺麗さも。何もかもを壊して、殺して、そこに何かを積み上げるように。


「……君の一番にはなりたくない」

「…………だろうな」

「君がいない世界で、一人で、生きていくつもりもないけれど」


 俺たちは互いを救えない。そんなわかりきった事実を再確認しながら、それでも。綺麗な綺麗な幼馴染殿は、笑ってこちらを見ていた。


「停滞は緩やかな死だよ」

「いいんだよ。べつに。……過去と心中するくらいなら、俺と地獄にでも落ちてろよ」


 言い切ると、彼は盛大に声を上げて笑った。綺麗に、軽やかに。

 それはまるで、哀悼のように。

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