【十六.力】
三月。日曜日。
陽一さんの安アパートに面した通りの桜が咲いた。
「見に行きたいかい」
きれい、そう言った私に彼が聞いてきた。
「ううん、いい。めだっちゃだめなんでしょ。わたし、ここからみてるから」
「……行こうか」
陽一さんはそう言うと、私に目深に帽子をかぶせた。
「半年も引きこもりじゃ可哀そうだよね」
いいのに。あの「家」に居たときはもっと自由がなかった。
◇
私たち二人は近所の児童公園に来た。園内の桜は満開で、たくさんの親子連れがいる。陽一さんはどっかりとベンチに座った。疲れて、いるように見えた。私は。仕方ないので桜の木の下まで行って、根元に腰かけた。桜の花びらと公園の砂をかき集めて両の手に掬い上げた。
『あかねちゃーん、ごはんですよー』
『はーい』
『ではみなさん、いただきまーす』
『いただきまーす』
「どした?」
え? 気が付くと陽一さんがしゃがんで目の前に来ている。
「何か悲しいことでもあった?」
私は、言っている意味が分からなくて下を向くと、雫がこぼれた。泣いているのだと気付くまでに数瞬かかってしまった。
私は、ううん、だいじょうぶ、そう言ってごしごしと目をこすった。
「あら、可愛いお嬢ちゃん」
近所のおばあさんらしいひとに声を掛けられる。
「お父さんと一緒にお花見、いいわねえ」
眉を下げてそう微笑むおばさんに、私は答えた。
「ううん、ちがいます。わたしたち、ふうふ、です」
おばあさんはきょとんとした後、また笑った。
「……いいわね、お父さん、お嫁さんですって!」
ほほほ。おばあさんは私たち夫婦の前から立ち去った。
俺と、月子ちゃんが……夫婦? 陽一さんは目をぱちぱちした。
「きょうからだよ。おたんじょうびおめでとう、あなた」
私は陽一さんのほっぺたにちゅうをした。
『趣味、悪くない? おきがみつきこちゃんってばさあ』
美影がにやにやと嗤っていた。
いいの、今日はこのひとのお誕生日なんだから。陽一さんだから、本当に、心の底から。
◇
八歳の誕生日がやってきて、陽一さんがケーキを買ってきてくれた。なんとそれもホールで。七歳になった時はカットケーキだったから、生まれて初めて見るまあるいショートケーキに、私は大はしゃぎ。お母さんの夫だったひとが生きてた頃は、誕生日を祝ってくれたことなんて一度だってなかった。ハッピーバースデーつきこー。二人で歌を歌った。
「じゃあ、火、付けるね」
私が人差し指で八本のローソクに順番に火を付けた、その時。
ぴんぽーん。
はーい、私が出るよ、そう言って玄関の扉を開けた。
「日野陽一さんのご自宅ですか」
黒いコートを着た……なんだか怖そうなおじさんが三人立っている。
「? そうですけど」
そう答えるのと、おじさんが私を抱きかかえるのは、ほぼ同時だった。
「女児一名保護! 日野陽一、未成年者監禁および殺害の容疑で逮捕するっ!」
「何よっ、あんたたちっ! けーさつっ?」
陽一さん逃げて、と私は必死に叫んだ。でも陽一さんは何の抵抗もしなかった。
「二年半、楽しかったよ。幸せだった。俺と夫婦になってくれて、ありがとう」
「やだ、やだぁ!」
陽一さんが連れていかれてしまう。また私は一人になってしまう。そんなのは嫌だ。嫌だ!
「やだ! 離して、陽一さん、陽一さん!」
「こらっ、お嬢ちゃん、大人しくしなさい」
「またね」
優しい笑顔。いやだ、ひとりはいやだ。
「離して! はなしてえ──っ!」
『お姉ちゃんを、いじめるな』
「ん? 何を言って」
けいさつのひとは気付いていなかった。ホールケーキの上には揺れるローソクの火。妹は、その火を伝って私の視線を経由して、けいさつのひとに力を「伝播」させた。
ぎゃあああ。
あ、だめ、陽一さんは!
そう叫ぶ間もなく、紅蓮の炎は鼓膜が破れる程の、四人分の絶叫すらも飲み込んで、木造アパートをあっという間に灰にした。
遠くからサイレンの音が聞こえてくる頃。残ったのは黒焦げの「死体だった」四人分のススに覆い被されて涙を浮かべた私と、八本のローソクの火が静かに揺れるホールのショートケーキだけ。
『大丈夫だよ、お姉ちゃん。茜がいつだって助けてあげるから』
妹は優しく、陽一さんよりも優しく、そう微笑んだ。
◇
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