【第三章.妹】

【十五.同棲】

「ひのかみさま、ひのかみさま、どうかあさひを、おまもりください」


 私は朝陽の手を握って、何度も何度も唱える。


「ねえ、それ、なあに」


 祈りを込めながら。茜が、美影がこの子を連れて行かないように。


「……おまじない。体が熱くなったら、これを唱えてね。そしたら火の神様が朝陽を守ってくれる」


 その手は熱い。まるで燃えているよう。


「ひのかみさま、ひのかみさま、どうかあさひを、おまもりください」


 母娘二人で何度も唱える。

 何度も、何度も。



 半年が過ぎ、私は六歳になっていた。


「行ってくる」

「まって」


 私は彼をそう呼び止めると、曲がったネクタイを直してあげる。


「はい、これでよし」

「……いい子だね」


 そう言って頭を撫でてくれた。誰にもされたことのない、誰からももらったことのない優しさをその頭に感じて、私は頬を赤らめる。


「それじゃあ。月子ちゃん、いい子でね」


 私を拾ったお兄さん──日野陽一さんは仕事に出た。私は、名古屋にある六畳一間の安アパートの窓から、その背中を見送った。



「なにしてるの」


 陽一さんと出会ったのは、あの日私が、太陽が沈んで森の中を彷徨っていた時のことだ。女の子の死体──それも私と同じくらいの──と一緒だった。


「これは、その……」


 返事に困っているようなので、すり寄ってみた。


「ねえ、これ、もしてあげよっか」


 私は小さな人差し指で、足元のそれを指差した。


「それだよ、それ」


 彼は、理解していない様子だったので、試しに火を付けてあげた。うわあ! ものすごくびっくりしたらしくて、飛び上がって尻もちをついた。


「君は、いったい……」

「わたし、からだからひをだせるの」


 私は太陽みたいににっこり、笑った。


「わたしのおねがい、きいてくれる?」


 その男のひとは、開いた口が塞がらないまま、私を見ていた。



『ホントにこんなに上手くいくなんてね』


 けらけらと、美影が私の耳元で、本当に可笑しそうに笑う。


 ──わたしのこと、かくまってほしいの。


 確かに……まさかあの時のお願い、ほんとに聞いてくれるなんて。私は、踏み台に乗ってがちゃがちゃシンクでお皿を洗いながら、そんなことを考えていた。

 日野陽一、二十八歳、どくしん、サラリーマン。本当だったら、お巡りさんに私を突き出さなきゃいけないのに、私のお願いを聞いてそばにおいてくれるのには、理由があるみたいだ。

 あの女の子は私のふたつ上だった。陽一さんはとても小さな女の子しか愛せない。はじめは家出していたその子を泊めてあげていたらしい。でもある時、その子は帰りたいって言うようになった。彼は止めたんだけど、暴れ始めて──その先は教えてくれなかった。

 それならば好都合だ。私は帰る場所も行くべき場所もないのだから。それに、陽一さんは私を殴らない。私に苦い葉っぱを食べさせない。くんれんしつに閉じ込めて電撃もやらない。だから私は、お嫁さんみたいに振舞った。お皿を洗って、ゴミを捨てて、へなへなのワイシャツを洗ってあげた。私は、それ以外なんにもしなくていい。幼稚園へも行かなくていい。

 それだけで彼は、私を抱きしめてくれた。隣で寝てくれた。私に何があったのか、絶対に聞かなかった。タバコを吸う時は、火を出してあげる。聞こえてくる妹の声はちょっと辛いし美影は鬱陶しいけど、平気な顔をしていた。優しい陽一さんは、いつもとても喜んで、私の頭を撫でてくれる。私は、彼が小さかった頃好きだった女の子に似てるんだって。だからとっても嬉しいんだって。


『おねえちゃん。まってるよ。まってるからね』


 私は次第に、美影の言う通りに罪の意識が軽くなっていた。耳をふさぐことなんて、とても簡単だったから。

 だから気付くのに遅れてしまった。妹が秘めた、底知れない力の大きさに。


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