第22話 滅びた大地の痕跡

 屋敷に戻ったユーフェミアはヘグニと合流し、丘を下ったところにあるヘグニの小屋に立ち寄った。荷車を準備するためだ。荷車を引くのはもちろん、老いぼれロバのスキムファンクシだ。

 ユーフェミアの考え込んでいるような表情に気づいて、ヘグニが尋ねる。

 「おや、何かありましたかな」

 「いえ…ローグさんを少し、混乱させてしまったようで」

 「そうですか。ま、狂戦士ベルセルクというものは元々、気難しいものです。戦もないこの平和な世の中では、彼らの闘争本能を存分に吐き出すことも出来ませんしな。」

 「……。」

 「さて、ちょうど準備が整います。」

荷車にロバをとりつけながら、ヘグニは悲しげな顔になる。

 「遠出するのに、馬がおればよかったのですが…。ひどい病気が流行ってからというもの、ここいらの馬はみな死に絶えてしまいましてな。外の馬が病気を持ち込んだんです。今じゃあ、この辺りにいるのは外から持ち込まれた馬ばかりです。」

 その歴史はちょうど昨日、村の博物館で紹介されているのを見たばかりだ。

 確かに、いまのフェンサリルには、かつて馬の名産地だったという面影はどこにも無い。丘の上の屋敷にも立派な石造りの馬小屋があったが、長らく使われたことがない様子だった。

 「外から持ち込まれたのは、どいつもこいつも、大したこともない馬ばかりです。昔のフェンサリルの馬といえば、名馬揃いで…。神々の騎乗した馬、スレイプニルの血を引くと言われた、それは立派な種類だったんですよ。だのに、みんな死に絶えてしまった。馬を飼っていた村の連中は、酪農を諦めて移住してしまいました。それも皆、島にやって来た外の連中のせいだ。連中の馬が病気を島に持ち込んだから、こんなことに…」

 過去を語るヘグニの口調は怒りに満ちているが、景色のほうは爽快で柔らかだ。雨の後の気持ちいい青空の下、湿った小道に車の轍の跡が続く。

 ロバの手綱はヘグニが取り、ユーフェミアは、荷台に子犬と一緒に乗っている。子犬のフェンリスは散歩に出かけるくらいにしか思っていないらしく、荷車の上で大はしゃぎだ。

 「ということは、馬の飼育だけを生業にしている村があった、ってことですか?」

ユーフェミアが尋ねると、ヘグニが答える。

 「ええ。馬づくりの村に、鍛冶屋と細工師の村。それに、大工や力仕事をやる連中もいました。ほんの五十年ほど前までは、他の村にもそれなりに人は住んでおったのです。それもみな、外へ出ていってしまって、今では農業を営む村、一つだけです」

そう言って彼は、ゆったりと走る荷車のすぐ側を通り過ぎてゆくフェンサリル村の風景を見やった。村の真ん中には、昨日訪れたばかりの塔を持つ古い砦、今は博物館として使われている建物が見えてる。

 「あの塔だって、わしが子供の頃にはまだ城壁がくっついておりました。その石壁は、ずうーっと小川の周辺まで続いておりましてな。千年ほど前には、前線基地のような場所だったと言われております。城壁の西側――今は牧草地になっている丘の向こう側が、エーシル族の領地でした」

ヘグニは、はるか行く手を指さした。

 今は何もない、緑の草に覆われたなだらかな丘陵地帯になっている。牛やヤギが何頭か放牧され、牧夫らしき人影がゆったりと歩いている。そして丘の向こうには、溶岩の冷えて固まった黒い岩が、まるで城壁のように続いている。村の近くを流れていた小川は、その岩壁に向かって続いているようだ。

 「あれって、千年前の噴火の時の溶岩の跡、なんですよね?」

ユーフェミアは、黒い岩の壁を指さした。

 「そうです。エーシル族の王が、溶岩を食い止めるために築かせた壁が、溶岩に飲み込まれて出来た地形なのです。あの向こう側は断崖前壁の海になっております。一気に雨が降ると、あの溶岩の壁を越えて水が海に流れ落ちて、見事な滝になるのですよ。これから向かうのが、その場所です」

なだらかな草原に雲の影が流れ、牧草地の間を、荷車はゆったりと走ってゆく。

 のどかな風景だが、途中には、かつては誰かが住んでいただろう小屋が朽ち果て、畑だったらしい場所が草に埋もれ、誰にも顧みられない農具が埋もれている。

 (そんなに昔じゃない。ここ数十年か――ことによったら、もっと最近なんだ。ここが、こんなに寂れてしまったのは)

書斎にあった古い日記の示す通り、やはり、フェンサリルが寂れたのも、クリーズヴィ家の人たちが居なくなってしまったのも、最近のことなのに違いない。

 ユーフェミアは振り返って、御者台の老人の背を見上げた。

 「フェンサリルっていま、どのくらいの人が住んでいるんですか」

わずかな沈黙のあと、ヘグニは、重々しい口調で口を開いた。

 「さあて。百人か、それくらいはまだいるでしょうか」

 「そんなに少ないんですね…」

 「便利さを求めて、若い衆は皆、港町のほうに出ていってしまいました。年寄りの多くは、族長ゴジが亡くなられた頃にばたばたと死にました。心の支えを無くした人間は、脆いものです。」

 「…ヘグニさんのご家族も?」

 「いえ。わしの息子は、もっと前に。…」

それきり、ヘグニは黙ったまま、口を開かなかった。

 ユーフェミアも、余計なことを聞いてしまったと思いつつ、謝るタイミングを逃したまま、沈黙の時が過ぎてゆく。気まずい空気を感じ取った子犬は、きょとん、とした顔で荷車の端に座っている。

 荷車が揺れる。風景が流れてゆく。


 やがてヘグニは、老いたロバの引く荷車を、溶岩の固まった黒い壁の手前で止めた。

 壁は思った以上に高く、ところどころに草が生えている。近くには、飲み込まれてしまった壁の一部なのだろう、大きな岩がごろごろと転がっていた。

 海の匂いがする。そして、微かに轟く波の音も。

 「どうぞ、こちらです」

ヘグニは、何事も無かったかのように先に立ってユーフェミアを案内していく。

 「そこを登ってみて下さい。」

言われるまま、岩に足をかけて登ってみると、ほんの少しの高さで一気に視界が開けた。

 「…わあ」

ユーフェミアは、思わず声を上げ、それ以上は何も言えなくなった。


 紺碧の海。

 ――島影も、船影も何も見えない、ただ果てしなく続く、絶望的なまでに広い海。


 「ここは島嶼連合ユニオンの西の果てですからな。この先は”太平の海”。何もない、果てなる場所です」

 (そうね。ここは世界地図でも西の果て。…向こう側の大陸までは、汽船で二ヶ月かかる…。)

眼下には、大きく崩れた地の裂け目。海に向かって大地の崩れ落ちた痕跡があり、浅瀬と、海にところどころ顔を出した岩とが、かつてこの先にまだ大陸が続いていたことを想起させる。

 溶岩と一体化した城壁は、崖のところで途切れている。雨で勢いを増した小川は、その切れ目から勢いよく海に向かって注ぎ込んでいるのだった。風に舞う水滴に光が反射して、小さな虹を作り出す。それ自体は息を呑むほど美しい光景だというのに、ユーフェミアには、ひどく残酷なものに思うた。

 壁はちょうど、この断崖絶壁まで続いて、唐突に失われている。ということは、千年前の大噴火までは、この先も土地があったのだ。

 見下ろせば波間には、崩れ落ちたかつての大地の残骸が、何か建物の一部だったらしい石の欠片とともに潮に洗われている。溶岩を防ぐために作られたという壁が、その役割を全う出来なかったのは明らかだった。

 「…エーシル族は、住んでいた土地ごと海に消えてしまったんですね」

 「そうです。地震で大地が割れたのでしょう。火山の反対側まで続いていた土地も、全て溶岩に飲まれてしまいました。残っている僅かな土地は火山の毒にやられ、今も、ほとんど草木のない荒れた場所です」

 振り返ると、尖った形の火山の、崩れた斜面が見えていた。山は自らの半分を吹き飛ばすのと同時に、大地も道連れにしたのだ。そして、その時にフェンサリルの西半分は、そこに暮らしていたエーシル族や、それ以外の多くの人々とともに海に沈んでしまった。


 ユーフェミアは、霧の中で見た幻のことを思い出していた。

 確か、ヘルガの幻は、「エーシルの王が不実なはかりごとをした」と言っていなかっただろうか。

 千年前に起きた破滅は、そのことに何か関係しているのだろうか。エーシル族の土地だけが失われたのは、運が悪かっただけではないのかもしれない。


 考えていたところに、ふいに、子犬がけたたましく吠える声が聞こえてきた。

 「ワン、ワン!」

何やら、草の中で何か小さな生き物を追いかけ回している。

 「ん? どうしたの」

 「…ああ、そういえば、こいつを拾ったのは、このあたりでしたな」

と、ヘグニ。

 「春頃だったか。野草を取りに来て、怪我をして死にかけているところを見つけましてね。母犬はどこにも見当たりませんでした。…こら、どうした。兄弟でも見つけたのか?」

 「ワンッ」

 「何かいるみたいね。何? どうしたの」

駆け寄っていったユーフェミアは、子犬が咥えている黒い紐のようなものに気づいて、はっとした。

 「…ヘビ?」

 「おお、これはいかん。毒蛇ですな。これフェンリス、それを寄越しなさい」

ぐったりしたヘビを子犬から取り上げたヘグニは、間髪入れず、傍にあった石を拾い上げて頭を叩き潰した。

 「これで良し。まったく、こいつらときたら、岩の隙間からでも家の隙間からでも狙ってくる。殺しても殺しても、勝手に増えるのですよ」

 「……。」

ユーフェミアは、青ざめながら自分の腕を掴んだ。

 一度は、このヘビに殺されたのだ。あの時は暗がりで、はっきりとは見えなかったけれど――昼間の光の下で見るそれは、想像していたよりずっと厄介に見えた。細くて真っ黒で、ぱっと見では紐か、影が落ちているようにしか見えないだろう。薄暗がりの中では近づいてこられても気付けない。

 「ワフッ!」

子犬がユーフェミアの足元に駆け寄ってきて、褒めてくれとでも言わんばかりに胸を張って尻尾を振る。

 「ええ、…そうね。気づいてくれてありがとう、フェンリス」

ふかふかした頭を撫でてやりながら、ユーフェミアが考えていたのは、”フェンリス”という名前の意味だった。

 幻の中で何度も聞いた名前。大昔、この地に生きていた伝説上の偉大な族長、ヘルガの息子の一人。

 (ヘグニさんはきっと、伝承から名前を取ったんだわ。多分それだけで、特に意味があるなんて考えていなかったはず。もしかしたら、同じ名前を持つ人は、この島に他に何人もいるのかもしれない。でも…)

自分と出会い、最初から一生懸命に守ろうとしてくれた”フェンリス”は、この子犬だけだ。そのことには、きっと何か意味があるに違いない。

 「さて、それでは停車場に向かいましょうかな」

 「ええ。」

二人と一匹は、ロバのもとへ戻り、荷車に乗った。海の気配のする断崖を離れ、火山に近づくように、再び内陸のほうへ向かって荷車が走り出す。

 荷車を走らせていると、右手の南のほうに立派な建物が見えてきた。リゾートホテル、「黄金のチェス」亭だ。一段高い丘の上に立つリゾートホテルは、ここからでもよく目立つ。


 そのホテルを見上げているうちに、ふと、疑問が浮かんできた。

 あそこは、一体いつから営業しているのだろう?

 「そういえば、お屋敷の食堂に絵が飾られていたのを見ました。百五十年くらい前のご先祖様みたいでした。ヘグニさん、その頃の話って何か知ってますか?」

あのホテルの建った時期。フェンサリルの土地が、売り払われた時代のこと。

 これは、小人たちの知るよしもない、人間世界の記憶のはずだ。

 思ったとおり、ヘグニはそのことも知っていた。

 「エイリミ様とご家族の肖像ですな? わしの親父から聞いたことがありますよ。その族長ゴジの三番目の息子、ヴァーリという男が、土地の権利書を持ち出して、鉱山を売ってしまったんだそうです。その鉱山の開発のために港町が出来て、開拓民が大勢、送り込まれて来たのだそうですよ。わしらにとっては裏切り者のようなものです。村では今でも、その名前は唾棄すべきものとして知られております」

 「…そうなのね」

日記に書かれていたことのままだ。

 ということは、港町周辺の人々のほとんどは、ほんの百五十年前まで別の島の住民だったのだ。

 どおりでユーフェミアが、見た目だけで「フェンサリルの人」だと言われるわけだ。港町に背の高い人があまり居なかったのも、そういうことなのだろう。

 「丘の上のホテルのある土地も、その人が売った土地なんですか」

 「いいえ。ですが、似たようなものです。あそこは一族の聖地の一つだったギムレイの丘というところでして、元は、そのエイリミ様のご長男ブレギ様が自分用に建てた別邸だったところなのです。ところが、ブレギ様の最初の奥方が難産で早死にされてしまい、そのあと島の外から来た女と再婚されて、フェンサリルを出ていってしまわれたのだそうです。その後、再婚した奥方に権利が移り、気がつけばホテルなんぞになっておりました。――売られたのか、子どもに継がせたのかもわかりません。あの土地については、先代の族長ゴジ…ユーフェミア様のお祖父様も、取り戻そうとずいぶん苦心なされていたようですが、上手くはいかなかったようですな」

 「聖地っていうのは、何か、特別なものがあったってことですか?」

 「詳しくは聞いておりませんが、エーシルとヴァニール双方の一族にとって発祥の地のようなものだ、…と。千年前の大噴火で湖に沈んでしまった部分には、城か何か、記念碑のようなものが作られていたそうです」

 (発祥…?)

祖父エイリミが調べていた古い日記には、何かがホテルの側の湖に沈んでいる、というようなことが書かれていた気がする。確かに、遺跡か何か、古いものがあるというような書き方だった気がするが、そんなに重要なものだったのだろうか。

 「あのホテルが出来てからというもの、品の悪い連中が、このフェンサリルに入り込んでくるようになりました。勝手に牧場で焚き火をするわ、畑の中まで馬を走らせるわ、わしらをバカにした言動も…まったく…」

ヘグニは、ぶつぶつ文句を言いながら、丘の上に見えているリゾートホテルを睨みつけた。

 「何が”貴重な、ありのままの自然だ”。ふん、好き勝手言いおって。どうせ、よそ者しか泊まらない。なにかしてくれるわけでもない。わしらには何の恩恵もない。ああして高いところから見下されるのは、全く不愉快でしかない」

 「……。」

ユーフェミアも、丘の上に立つ石造りの立派な建物を見上げた。

 お屋敷の屋上から見た時、同じくらいの高さのところにあるように見えたのだ。ヘグニの言うとおり、あそこからなら、フェンサリルの平原も、もしかしたら、崩れ落ちた崖の向こうの海までも、はるかに見渡せるのかもしれない。

 (そういうことなら、一度は、あそこにも行ってみないと…。)

かつては一族の土地だった場所。そして、祖父エイリミが苦労して取り戻そうとしていた場所。

 あの日記が書斎の机の上にあったのも、土地が失われた時代のことを調べ直すためだったのかもしれない。だとしたら、祖父が何を考えて、何のためにそんなことをしていたのか知るためにも、実際に丘の上に上がって確かめてみる必要がある。




 雑談しながら荷車を走らせているうちに、やがて、停車場が見えてきた。フェンサリルの入口、ユーフェミアが最初に降り立った場所だ。

 「買い物に使う掲示板って、どこにあるんですか」

 「そこですよ」

と、ヘグニは、停止場の脇にある待合室のような小さな小屋の中に入っていく。

 小屋の壁には、古びた板が打ち付けてあり、そこには既にいくつものメモ書きが貼り付けられていた。名前と、欲しい品物。それに日付が書かれている。

 板の前には、貼り付けるための紙と鉛筆、それに、分厚い台帳が置いてある。

 「取り扱いの品物と値段は、この台帳に書かれておりましてな。その値段を計算して、そちらの引き出しに代金を入れておくのです」

と、ヘグニ。

 「これ、アトリさんが集金に来るんですか?」

 「そうです。奴が週に一度、定期船の着いた次の日に、品物と客を届けにここへ来る。そのあとホテルへ行って、一晩泊まって…で、次の日の帰りにここへ寄って、次回の依頼を確認して回収していくんですな。」

 「ふうん…そういう仕組なのね。あら? でも…」

カポカポという馬の蹄の音が近づいてくる音がする。足元で、子犬のフェンリスもぴんと耳を立てている。ユーフェミアは小屋の外に出てみた。

 思ったとおり、貨物馬車がこちらに向かってくる。御者台にいるのはアトリだ。小屋の中にいたヘグニも、外に出てくる。

 「珍しい。特別便かね?」

 「おう、ヘグニのじいさんか…。まあ、そうだよ。オッタルの旦那がフェンサリルに用事があるってんで、送ってきたところなんだ」

アトリが振り返ると同時に、馬車の後ろの扉が開いて、黒い髭をたくわえた警官が降りてきた。

 「どうも。…おや、あんた港町の宿にいたお嬢さんじゃないか?」

ユーフェミアも思い出した。

 (そうだ。この人、宿にローグさんを追いかけて来た人だ…)

すれ違っただけだったから、すっかり忘れていた。

 特徴のある髭に、がっしりとした低い背。中央島セントラルでも見かけたことのある共通の警官の制服。毎回、ローグに殴り倒される役回りの人物。それがなぜ、こんなところまで?

 「いやあ、実は、この島に上陸した指名手配犯が、まだ捕まっておらんのですよ。それで、万が一とは思うがフェンサリルに逃げ込むこともあるかと思って、手配書を配りに来たんですな」

言いながら警官は、抱えていた紙の束から一枚取り出して、ヘグニに手渡した。

 「じいさん、あんた、こいつを見かけなかったかい?」

 (あっ…)

ユーフェミアは、慌ててヘグニと警官を見比べた。手配書には、思い切りローグの顔写真が載っている。名前こそ違うが、見れば、すぐ分かるはずだ。

 「…いいや。見たこともないな」

だがヘグニは、平然と嘘をついた。ユーフェミアのほうを見さえしない。

 「手配書を停車場に貼り付けておくつもりかね? なら、そっちの小屋の中にしてくれ。予備は掲示板の前に置いておけば、村の連中が適当に見ていくだろう」

 「ああ、そうさせてもらう。このあとは、念の為ホテルにも持っていくつもりなんだが」

 「ま、指名手配犯がリゾートホテルなんぞに泊まってるわけもないんだけどな」

アトリが陽気に笑う。

 「そういやお嬢さん、あんた、ヘグニじいさんの世話になってるのかい」

 「あ、えっと…今日は、たまたまです。そう、たまたま、このあたりを案内してもらってたんです」

 「ふーん。こっちはこれからホテルまで行くけど、もしまだなら案内しようか? 今日の馬車代はオッタルの旦那もちだ。オマケしとくよ」

 「え、…えっと」

ユーフェミアは、小屋のほうで何か話しているヘグニと警官を見やったあと、逡巡しゅんじゅんした。

 (そうね。一度、ホテルまで行ってみたいっていうのはあるんだし、それに、…ここで断るのも不自然ね)

 「ちょっと待ってて下さい」

警官が小屋の中に手配書を貼っている間に、ヘグニを手招きする。

 「私、リゾートホテルのあたりの様子もちょっと見てこようと思うんです。夕方までには、帰りますから」

 「うん? そうですか。お迎えは必要ですか?」

 「大丈夫です。そんなに時間はかからない予定ですし。あ、フェンリスのことはお願いします。ホテルはきっと、ペット禁止だと思うから」

素早く警官とアトリに視線をやってから、声を潜める。

 「それと、あの…ローグさんのことは…」

ヘグニは、口元に微笑みを浮かべた。

 「問題ありません。族長ゴジの客人なのですから、誰にも口外いたしませんよ」

 「良かった。ありがとう」

ほっとして、ユーフェミアはすぐにヘグニのもとを離れた。

 「ヘグニさんには言っておきました。お願いします」

 「あいよ! それじゃ、乗っておくれ」

ちょうど警官のほうも、手配書を貼り終えて馬車に戻って来るところだ。

 二人が乗り込むと、馬車は丘の上に向けて走り出した。今日は、貨物馬車に荷物は乗っていない。そのぶん、中は広々として、馬たちの足も軽い。

 「フェンサリルの観光は、いかがですかな?」

警官は、社交辞令のつもりなのかユーフェミアにそう尋ねた。

 「まだあまり見て回っていないですけど、博物館と村は見ました。あと、今日は、海のほうまで行ったんです。断崖絶壁になっていて、絶景に見入っちゃいました」

ユーフェミアのほうも、にっこり笑って当たり障りのない返事をする。観光らしいことをしておいて良かった。ずっとお屋敷にこもりきりだったら、観光客らしからぬことだと疑われたかもしれない。

 「他に、おすすめの場所はありますか?」

 「うーん…そうですなあ。そのへんは、島の人のほうが詳しいかもしれません。本官は、島外からの派遣なので」

 「え、島の人じゃなかったんですか?」

 「実はそうなんです。十年ほど島で暮らしてはいますが、フェンサリルへ来たことは数えるほどですな。まあ、犯罪らしい犯罪もほとんどない、平和な島ですし、人の出入りがあるのは港町だけですから、それでも仕事は出来るのです」

警官の言葉は、少し意外だった。

 あまり身長が高くないところからして島外から来た人だろうなというのは思っていたものの、まさか、ほんの十年前に来たのだとは思ってもいなかったのだ。

 「港にいた、制服を着た人たちも同じですか? 入島許可証について教えてくれた…」

 「いえ、あれは自警団です。島の人口が少ないので、警官は数人しかいないのですよ。我々よそ者には島の地理がよくわかりません。それで、迷子搜索とか、今回のように潜伏している犯罪者を探すとかの時には、島の住民の手を借りる場面が多いのです。」

 「…なるほど。」

ということは、たった一人でやって来た今回は、本当に、ただ手配書を配りたかっただけなのだ。土地勘もない場所で、案内もなしに逃亡者を探し出すことが出来るはずもないのだから。

 「そういえば、お嬢さん。あんたも、あの人殺しと同じ船に乗っていたんでしたな? 一応、面識はあるのかと思うが――どこかで見かけたりはしていませんかな」

 「いえ…。」とっさに、平静な表情を装って答える。「というか、馬車にも乗らずに、こんなに早くフェンサリルに来るなんて無理じゃないですか?」

 「ふむ。確かに…やはり、まだ港町周辺に潜んでいるか。それとも、山にでも分け入ったか…。」

警官は、口ひげをしごきながら、難しい顔をして窓の外を睨みつけた。まるで、流れてゆく風景の中に、指名手配犯の姿を見つけようといているかのように。

 「あの、」

ユーフェミアは、出来るだけ一般的な興味に聞こえるように質問した。

 「港町の宿にあった手配書は見ました。すごい賞金額でしたけど、あれって、犯罪の重さで決まるんですか? それとも、罪の重さとか?」

 「ああ。あれはですね、遺族がかけているそうです。確かに凶悪犯ではあるが、正規の賞金額は半分もない。殺されたのが資産家で、その息子が何としても父親の仇を取りたいからと資金を出しているんだとか。」

 「…息子?」

 「犯人は養子で、賞金をかけておるのが実子ということですな。その実子というのが義兄で、発端は相続争いのようですが、集まっていた親族に手当たり次第に斬りつけて出奔したという話で。いやはや、とんでもない不良ですよ」

確かに、港町の宿で見た手配書には、「養父殺し、義兄および多数に対する殺人未遂」とあった。

 (相続…資産家…。ローグさん、本当に、いい家の子だったんだわ)

それなのに全てを失って、十年もの間、逃亡生活を続けてきたのだ。

 (彼のことだし、きっと、何か理由があるんでしょうけど)

馬車に揺られながら、ユーフェミアは考えていた。

 今朝、ローグに剣のことを聞いた時、彼は口を滑らせて「義理の父親に貰った」と言っていた。

 その義理の父親こそ、殺された「養父」なのだとしたら、…自分が殺した相手のことを、あんな風に懐かしそうに語るはずもない。

 発端は相続争い――実子と養子。それに、フェンサリルへ来た時に言っていた、「親父や他の連中みたいな無様な死に方だけはしたくない」という言葉。


 どうやら彼の放浪にも、何か、複雑な事情がありそうだった。

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