第2話 最初の触診(パルパチオン)
臨床実習が始まってから三日目の午後。
私たちは真新しい白衣に袖を通し、総合実習棟の第四実習室へと向かっていた。蛍光灯が等間隔に並ぶ長い廊下を、二つの足音が無機質に響く。
一つは、私の少し緊張して浮足立った、頼りない音。
もう一つは、氷川凛の、迷いも揺らぎも感じさせない、メトロノームのように正確な音。
ペアが発表されてから、私たちの間の会話は業務連絡以外、ほとんどなかった。
「今日の午後は、フィジカルアセスメントの基本手技の再確認だ」
実習室に入ると、指導医である呼吸器外科の村上医師が、腕を組んで私たちを待っていた。
室内には十数台の診察用ベッドが並び、壁際の棚には聴診器や血圧計、打腱器といった基本的な医療器具が整然と置かれている。
ホルマリンとは違う、リネンと消毒用アルコールが混じった清潔な匂いが鼻腔をくすぐった。
「これまで模型やシミュレーターで嫌というほどやってきただろうが、今日からは生身の人間、つまり君たちのペアが相手だ。教科書通りの所見が得られると思うな。そこに個体差があるからこそ、我々の診察がある。視診、触診、打診、聴診。基本中の基本だが、これができなければ話にならん。じゃあ、早速ペアごとに分かれて、まずは身体測定と頸部の触診から始めろ。交代でやれよ」
村上医師の簡潔な指示が解散の合図となった。
他のペアが「じゃあ、俺からやるわ」「お願いしまーす」などと和やかに準備を始める中、氷川さんはすでに近くのワゴンから必要な器具を素早く選び出していた。
ステンレス製のトレーの上には、メジャー、医療用ライト、そして彼女自身のものだろうか、黒いカバーのついたクリップボードと万年筆が置かれている。
その淀みない動きに、私はただ圧倒されるばかりだった。
「綿貫さん、そこのベッドへ。上着を脱いで、仰向けに」
「あ、は、はい!」
命令、というよりは指示。
そこに感情はなく、ただ効率だけを追求した言葉だった。
私は言われるがままに白衣を脱いでハンガーにかけ、薄いスクラブシャツ一枚になると、指定されたベッドの端に腰掛けた。
シーツの少しひんやりとした感触が、緊張した肌に直接伝わってくる。
氷川さんは私の正面に立つと、まず視診から始めた。
まるで美術品を鑑定するかのように、私の顔色、皮膚の状態、結膜の色、そして首の動きや左右対称性までを、鋭い視線で確認していく。
その沈黙が、私の心臓をぎゅっと締め付けた。
何か異常を見つけられたらどうしよう。そんな学生らしい不安が頭をよぎる。
「少し、顎を上げて」
言われて、私はこわばった首をゆっくりと反らした。
氷川さんは医療用ライトを点灯させると、私の喉元を照らし、嚥下時の甲状腺の動きを確認する。
彼女の長い指が、私の首筋にそっと触れた。
その瞬間、私は思わず「ひゃっ」と小さな声を漏らしてしまった。
氷川さんの指先は、想像していた以上に冷たかった。
まるで氷のかけらを肌に乗せられたような、しかし不快ではない、むしろ意識を覚醒させるような冷たさ。
その冷たい指が、私の耳の後ろから顎の下、そして鎖骨の上へと、教科書に描かれたリンパ節の位置を正確になぞっていく。
「……痛くないか?」
「だ、大丈夫です…」
氷川さんの手つきは、驚くほど慎重で、そして優しかった。
触れるか触れないかの絶妙な力加減で皮膚を滑らせ、深部の組織を探っていく。
彼女の噂から想像していた、乱暴さや無神経さとは全く違う。
むしろ、壊れ物を扱うかのような、繊細な手つきだった。
その事実に、私は少しだけ戸惑い、そして意外にも、安心している自分に気づいた。
「少し、力を抜いて。胸鎖乳突筋が緊張している」
「あ、ご、ごめんなさい…!なんだか、緊張しちゃって…」
氷川さんの指が、私のこわばった首の筋肉を指摘する。
私は深呼吸をしようとしたが、彼女が間近にいるせいで、うまく息が吸えない。
「被験者をリラックスさせるのも術者の技量だ。私の手技に何か問題が?」
「ううん!そんなことない!すごく…丁寧で、優しい、です。だから、逆に…」
「……逆に?」
続く言葉を、私はためらった。
しかし、彼女の真剣な黒い瞳に見つめられて、つい本音がこぼれ落ちた。
「……ドキドキしちゃって」
言ってから、しまった、と思った。
なんて馬鹿なことを言ったんだろう。実習の最中に、ふざけていると思われたかもしれない。
氷川さんは私の言葉に何も答えず、ただ無言で、彼女の冷たい指先を私の頸動脈、総頸動脈が拍動しているポイントにそっと添えた。
トクン、トクン、と、私の速い鼓動が、彼女の指に直接伝わっていく。
「……脈拍、推定毎分92。確かに頻脈だ。精神的緊張による交感神経の亢進が原因か。所見として記録しておく」
彼女はそう呟くと、何事もなかったかのように触診を続けた。
私は自分の顔にじわりと熱が集まっていくのを感じた。
彼女にとっては、私の「ドキドキ」も、ただの観察対象、記録すべきデータの一つでしかないのだ。
その事実が、少しだけ悔しいような、それでいて、彼女らしいと思えるような、複雑な気持ちにさせた。
頸部の診察を終えると、氷川さんはクリップボードに何かを素早く書き込み、次にメジャーを手にした。
「次は胸郭の測定。そのまま座って」
仰向けだった身体を起こす。
いよいよ、一番意識してしまう診察が始まる。
氷川さんは私の背後に回ると、メジャーを私の胸にゆっくりと巻き付けた。
スクラブシャツの薄い生地越しに、メジャーの硬い感触と、それを支える彼女の指の感触が伝わってくる。
氷川さんの指先が、時折、私の脇腹や胸の柔らかい部分に触れる。
そのたびに、私の身体はびくりと震えた。彼女の呼吸が、すぐ後ろから聞こえる。
規則正しく、静かな呼吸音。
その音を聞いていると、なぜか私の呼吸だけがどんどん浅くなっていくのが分かった。
氷川さんは淡々と測定を進めていく。
「最大吸気位で……89センチ。次に、息を吐ききって。最大呼気位……84センチ。呼吸性移動、5センチ。正常範囲内だが…」
彼女はそこで言葉を切り、もう一度、今度は少し位置を変えてメジャーを当て直した。
「……トップ109.5センチ」
その時、氷川さんは確かに「ほぅ」と息を吐いた。
それからその指先が、ほんのコンマ数秒、動きを止めたのを私は感じた。
まるで、指先に伝わってきた未知の感触を、脳が処理しきれずにフリーズしたみたいに。
「……よし。交代だ」
測定を終えた氷川さんは、感情の読めない声でそう告げた。私はようやく解放された安堵感で、大きく息をついた。 次は私の番だ。私は震える手で聴診器とメジャーを持ち、氷川さんと場所を交代した。
「よろしく、お願いします」
「ああ」
氷川さんがベッドに腰掛け、スクラブシャツの上着を脱いだ。
その瞬間、私は息を呑んだ。
彼女の身体は、白衣の上からでは想像もつかないほど、しなやかで、そして引き締まっていた。
無駄な脂肪がなく、薄い皮下には、美しく鍛えられた筋肉の走行が浮かび上がっている。
私のような曲線的な身体とは全く違う、まるでギリシャ彫刻のような、芸術美と機能美との結晶。
特に、その胸は。大きさは控えめだったが、凛とした張りを持ち、重力に逆らうように上を向いていた。
まさに、噂に聞く「ロケット」という言葉がふさわしい形だった。
私は自分の身体とのあまりの違いに、気圧されるような感覚を覚えた。恐る恐る、彼女の冷たい肌に触れる。
氷川さんの筋肉は、触れると驚くほど硬く、しかし弾力があった。
「柔らかさ」とは対極にある感触。
これが、氷の女王の身体。
測定を終え、白衣を羽織りながら、私は思い切って聞いてみた。
「あの、氷川さん。私の身体、何か、変なところとか…ありましたか?」
「変、とは?」
「いえ、その、測定の時、なんだか考え込んでいるように見えたから…」
氷川さんは黒いクリップボードに視線を落としたまま、答えた。
「君は、」
彼女が顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめる。
「私のこれまでのデータにはない、非常に興味深い所見を持つ検体だ、と思う」
そう言った彼女の瞳の奥に、ほんの一瞬、探求心とは少し違う、熱を帯びた光が宿ったような気がした。
それが何なのか、私にはまだ分からなかった。
氷川さんが閉じたクリップボード。
そこに走り書きされたメモには、正確な測定データの他に、彼女自身にも解読できない衝動に突き動かされて書かれた、こんな一文が記されていた。
『特異な弾力性、および体温分布。要、追加検証』
その「検証」が、これからどのような形で実行されていくのか。この時の私はまだ、知る由もなかった。
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