カルテに記されない熱
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第1話 対照的な検体(アナムネーゼ)
四月。遅咲きの八重桜が散り終え、新緑が目に眩しい季節。
大学の附属病院に併設された講義棟の空気は、消毒液の匂いと、これから始まる臨床実習への期待と不安が入り混じった独特の熱を帯びていた。
医学部5年生に進級した私たちを待っていたのは、これまでとは比較にならないほど濃密で過酷な、患者と直接向き合う日々。
その最初の関門が、本日発表される実習ペアの組み合わせだった。
「うわ、心臓血管外科からとか、絶対キツいって…」
「見てよ、産婦人科、女子ばっかり。男子は肩身狭すぎでしょ」
前方の壁に張り出されたA3用紙の周りには黒山の人だかりができており、歓声と悲鳴がそこかしこで上がっている。
私はその渦に飛び込む勇気がなく、少し離れた場所で友人の美咲と一緒に、自分の名前が誰と隣り合っているのか、その運命の瞬間を待っていた。
「ペアは一応、同性同士だったよね?」
「そうそう。ま、柔(ゆう)は誰とでもうまくやれるから、心配いらないって。何なら、その抱擁力で包み込んじゃえ!」
「いやいや。これからの半年間、ずっと一緒に行動するんだもん。相性は大事だよ…」
ぎゅっと握りしめた拳に、じっとりと汗が滲む。
私の名前は、綿貫 柔(わたぬき ゆう)。
自分でも自覚しているが、見かけ通りおっとりしていて、少し要領が悪い。俊敏とかスマートという言葉は、口にするのも似合わない。
座学の成績はいつも中くらい。
ただ、人と話すのは好きで、模擬患者さんとの実習では、いつも「君と話していると安心する」と言ってもらえた。
それが私の唯一の取り柄であり、自信でもあった。
だからこそ、高圧的だったり、あまりに理屈っぽい人とのペアは、できれば避けたい、と思っていた。
「あ、見えた!私、循環器内科で、相手は…佐藤女史だ!やった、一番楽なやつ!」
「よかったね、美咲。佐藤さんで」
「柔は?綿貫、綿貫…っと、あった! 呼吸器外科だね。で、お相手は……」
美咲が急に言葉を詰まらせ、同情するような目で私を見た。
その視線が、何よりも雄弁に私の運命を物語っていた。
人だかりが少し引いた隙間から、私は自分の名前の横にある、インクで印刷された冷たい文字列を目で追った。
【呼吸器外科 B班:綿貫 柔、氷川 凛】
その名前を見た瞬間、講義室のざわめきが、すうっと遠のいていくような感覚に陥った。
氷川凛(ひかわ りん)。
同学年にその名を知らない者はいない。
入学以来、一度も首席の座を譲ったことのない、絶対的な秀才。
加えて、その美貌は雪の結晶のように冷たく整っていて、他者を一切寄せ付けないオーラを放っている。
付けられたあだ名は「die Eiskönigin(アイスケーニギン)」、つまり「氷の女王」。
彼女に関する噂は枚挙にいとまがない。
質問した教授を論破しただの、前の実習でペアになった学生を三日で泣かして一人で課題を終わらせただの、武勇伝なのか凶報なのか分からないものばかりだった。
「……ドンマイ、柔」
「う、うん……」
「でもまあ、勉強にはなるんじゃない? 首席様の思考回路、間近で見られるわけだし。半年後、柔がそのまま凍りついて、雪だるまみたいになってたらウケるけど」
「やめてよ、笑えない……」
冗談めかして私の肩を叩く美咲の気遣いが、逆に胸に痛かった。
これから半年間、あの氷川さんと……。考えただけで、胃が小さく痙攣するのを感じた。
オリエンテーションが始まるまでの間、私は意を決して彼女の姿を探した。
どうせなら、先に挨拶だけでもしておかなければ。
講義室を見渡すと、彼女はすぐに見つかった。
学生たちの喧騒などまるで存在しないかのように、窓際の席で一人、分厚いハードカバーの専門書に視線を落としていた。
『グレイ解剖学』の原著、そのページをめくる指先は白魚のように細く、一切の無駄がない。
切りそろえられた黒髪が、寸分の乱れもなく彼女の白い頬にかかっている。
フレームの細い銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、どんな色をしているのだろう。
一歩、また一歩と彼女に近づくにつれて、心臓が大きく脈打つのが自分でも分かった。まるで、最終試験の口頭試問に臨む時のような緊張感だった。
「あ、あの……氷川さん」
私の声は、自分でも情けないと思うほど上ずっていた。
氷川さんは、すぐには顔を上げなかった。読んでいた文章のキリがいいところまで視線でなぞってから、まるでスローモーションのようにゆっくりと顔を上げた。
そして、その黒い瞳で、私を射抜いた。
正面に対峙すると気押される。
鋭利な刃物の切先みたいな、なんという美人だろう。
そして感情というフィルターを一切通していない、純粋な観察の眼差し。
私は一瞬、自分が人間ではなく、顕微鏡のプレパラートにでもなったかのような錯覚に陥った。
「…そうだけど。何か?」
「わ、私、綿貫柔です。今回の実習、ペアみたいで…。その、よろしく、お願いします」
「……ああ。綿貫さん」
氷川さんは私の顔を一瞥すると、手元に置いてあった班分けの資料に視線を落とし、すぐにまた私に視線を戻した。
「資料は読んだ。よろしく」
それだけ言うと、彼女の視線は再び本の中の世界へと戻ろうとした。
あまりの素っ気なさに、私は慌てて言葉を繋いだ。
「あ、はい!私も、氷川さんのことは噂で…って、あ、いえ、その、成績がとても優秀だって聞いてて!足を引っ張らないように頑張りますので!」
「噂に興味はない。足を引っ張るかどうかは、君の能力次第だ。私は私の仕事をするだけだから」
「う……はい!が、頑張ります……!」
突き放すような、それでいて一切の悪意も感じさせない、ただ事実だけを述べた言葉。
これ以上会話を続けるのは困難だと判断し、私はすごすごと引き下がろうとした。
その時だった。
「ところで、綿貫さん」
「へ?は、はい!」
「君、呼吸器系の既往歴は?」
唐突な質問だった。問診(アナムネーゼ)のような、しかしあまりにも個人的な問いかけ。
「え?いえ、特にないですけど……どうしてですか?」
「いや。なんでもない」
氷川さんはそう言って、今度こそ本当に専門書に意識を戻してしまった。
私という存在は、もう彼女の世界から完全に消え去ったようだった。
なんだったんだろう。
私は自分の席に戻りながら、先ほどの会話を反芻した。
彼女の視線が、私の顔を見た後、まるでCTスキャンを撮るかのように、上から下へと滑らかに動いたのを思い出す。
そして一瞬、私の胸のあたりで、その動きがコンマ数秒だけ停止したような気がした。
自意識過剰だっただろうか。私はその視線に反応して、いつもそうするように、両腕をクロスして庇うように胸を隠した。
でも、あの視線は、男子の性的関心とも値踏みとも違う。もっと分析的な、何かを探るような光を帯びていた。
やがてオリエンテーションが始まり、私たちは指定された席へと移動した。
偶然にも、席は隣同士だった。
氷川さんは当然のように窓際に座り、私はその隣に、借りてきた猫のように小さくなって座った。
スクリーンに映し出される教授の顔と、これから半年間の過酷なスケジュール。
私の頭には、その内容が半分も入ってこなかった。
ただ、隣から感じる、氷川さんの静かな存在感が、私の全神経を支配していた。
彼女は、時折眼鏡の位置を中指でくいと押し上げる以外は、微動だにしなかった。
しかし、その完璧な静寂の中で、私は彼女の視線が、時折、私に向けられているのを感じていた。
いや、正確には、私の身体に。
私の呼吸の深さ、息を吸う時の鎖骨の動き、話を聞く姿勢によって変わる胸郭の角度。
彼女は、私という人間ではなく、私という「検体」を観察しているかのようだった。
(最悪の組み合わせ、か……)
美咲の言葉が、頭の中で木霊する。
でも、と私は思う。もしかしたら、これは「最悪」ではないのかもしれない。
この、氷のように冷たい隣人が、私の中に眠る、私自身も知らない何かを暴き出そうとしている。
そんな、科学的根拠のない、しかし妙に確信めいた予感が、私の胸をざわつかせていた。
講義室の窓から差し込む西日が、氷川さんの眼鏡のレンズに反射して、一瞬、鋭く光った。
その光の奥で、彼女の口元がほんのわずかに、満足したかのように綻んだのを、私だけが見ていた。
「最高の検体(ケース)だ」
そう呟いたように聞こえたのは、きっと気のせいだろう。
そう思い込もうとしながら、私はぎこちなくノートにペンを走らせた。
これから始まる長い長い半年間。
それは、私という「検体」が、氷川 凛という「執刀医」によって、隅々まで解剖されていく日々の幕開けだった。
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