〜最初の白線〜

0|幼い輪郭


 タカとアユミは、母同士が親友だった。写真立ての真ん中には、だいたい二人が笑っている。ジュースは半分こ、折り紙は色を交換してる。ストローを取り替えるたび、ふたりの笑い声がコップの縁で弾む。

 幼稚園でヒデとナツミに出会う。タカはみんなより頭一つ大きくて、合図が早い子、アユミは転んでも笑う子、ヒデはブロックをきっちりそろえる子、ナツミは順番をちゃんと守る子だ。砂場の角で、タカの「いこー!」が合図になって、スコップの音や小さな足音が一斉に動き出す。四人の足音は、いつも同じ方へ転がっていた。



1|青い出会い


 小学校に上がると、カズキが現れた。最初の出会いは、休み時間のドッジボール。チョークで引いた白線をめぐって、空気がきゅっと張りつめる。


「踏んでないってば!」

「踏んだって! ほら線、見てよ!」


 投げ出されたボールが芝の上で止まる。鼻に砂をつけたまま、二人は同じ蛇口で水を飲む。冷たい水で頬をさすって、次の日には並んで走っていた。タカの「行く?」が、カズキの「行くよ」に重なって、時々ケンカもするけど、いつの間にか無二の親友になっていた。



2|校庭の事情


 スカイホークスとゴールデンウィンズは、どちらも富士見ヶ丘小学校の校庭で活動している。ホークスの白線は粉っぽく、踏まれると「さらっ」と鳴る。ウィンズの白線は同じ粉でも、踏み音に張りがあって、空気が少し硬い。青いベンチと黒×黄のベンチが、同じフェンスの内側に並ぶのに、吸い込む息の温度が違う。弱小と強豪――。同じ校庭で、空気だけが少し違っていた。



3|金曜日――いつもの風景と、小さな火種


 少四の秋、金曜。四時間目の終わり、黒板の粉がまだ舞っている教室に、窓の外から「スパン」と空気が弾ける音が届いた。背のびしてのぞくと、校舎裏のフェンスの向こうで白球がはねる。


「いまの音、何かな」

「空気がぴょんってした音だよね」とアユミ。

「ウィンズだと思うよ。あっち、いつも練習してるもん」とナツミ。


 タカの胸の内側を、火の粉みたいなものがかすめた。まだ誰も引いていない場所に、細い白線がうっすら浮かぶ感じ。

 放課後。昇降口の冷たいタイルに、腕立て伏せの手のひらが四角く跡をつける。カズキが黙って体を上下させていた。汗はほとんど出ていないのに、息だけ少し速い。


「何してんの」

「暇だから鍛えてるんだよ」

「何回?」

「三十……いや、五十いけるもん」

「ソワソワしてない?」

「してないって」


 ――前日、木曜の帰り道。校門脇の掲示板の前で、ウィンズのハルキとマコトが声をかけた。


『カズキ、ウィンズ来なよ! お前の力、ほしいんだって!』

『黒と黄色のユニフォーム、絶対似合うって!』


 返事はまだ。宙ぶらりんの心が、金曜の腕立てになって跳ねている。タカは外の白線をもう一度見て、心の中でひとつだけ深くうなずいた。どこかへ向かいたい。その向きが、はっきりしてきたのだ。



4|土曜の朝――公園と、コウタ


 土曜の朝。息が白くほどける時間。タカはカラーバットを持って、公園へ向かった。一人でバットを振っていると、ブランコの影で、少年が素振りをしている姿が目に入る。コウタだ。バットが空を切るたび、「ブンッ」と乾いた空気が震える。


「その素振り、ボールを追いかけたいって気持ちが伝わってくるな」

「ぼく、走るほうが得意なんだよ」

「走れるなら、なおさらさ。背も高いし、スカイホークス、おいでよ」


「ホークス?」

「うん。合言葉があるんだ。『前! 正面! 腰!』。前に走る、正面に入る、腰を低く。弱いけど、本気でやってるんだよ」


 コウタの声は、押す声じゃなくて並ぶ声だ。バットのグリップを握り直す。指先の熱が、少しだけ強くなる。


「見に行く、じゃなくてさ。しに行くでもいい?」

「いいよ。今日、最後にウィンズと練習試合なんだ」

「行く! 試合見たいよ!」



5|土曜・午前――


 タカはまずヒデの家へ向かった。門柱の影がまだ長い。チャイム。控えめな足音。ドアが半分だけ開いて、ヒデの目だけがのぞく。


「……タカ?」

「ヒデ、ホークス行こ。今日だよ。体験できるって」

「ぼ、ぼく、見学でもいいかな……」

「見学は、もったいないって。いっしょにやって失敗しよ。転んだら、俺、手を引っ張るからさ」


 台所からヒデの母が顔を出す。味噌汁の湯気とやわらかい目尻。


「タカくん、元気ねぇ。――ヒデ、行っといで。お水とハンカチ、忘れないのよ」

「……うん。行く。タカといっしょなら……できる、かも」


 二人はその足でカズキの家へ。チャイムを二回。玄関の戸が開いて、カズキの母が笑う。


「タカくん、ヒデくん。どうしたの?」

「カズキ、いる? ホークス行こ。今日、体験なんだ」


 廊下の奥からカズキ。昨日のソワソワが、眉の奥にまだ残っている。


「俺、ウィンズに――」

「頼む。弱いけど、本気なんだって。『前! 正面! 腰!』。負けてもいいから、今は“前に走る”をやりたい。三人でさ」


 タカの言葉は短いけれど、集合時間、持ち物、帰り道――並べる順がはっきりしていた。小さな段取りが、二人の呼吸のテンポをそろえていく。

 母はうなずいて言う。


「体験ね。自分の目で見て、決めておいで」

「……行く。自分の目で見て――決めるよ」


 三人はペダルを踏み込む。チェーンの音が重なり、商店街の角でたい焼きの湯気がほどける。風が甘くて、速い。



6|追いかける二人


 同じころ、アユミとナツミは商店街を歩いていた。紙袋を抱えた手に、焼き立ての匂いが移る。たい焼き屋の前を、三台の自転車が風みたいに抜けていく。


「タカだ! ヒデも、カズキもいるよ!」

「めっちゃ飛ばしてるね。――追いかけよ」

「追いかける!」


 駆けだす途中、信号待ちで肩を並べる。息のリズムが近づく。


「わたしね、カズキ、ちょっと好きかも。ちょっとだけね、ちょっと!」

「“ちょっと”を何回も言うの、だいたい“けっこう”なんだよ」

「えー、ちがうもん。でもさ、カズキ、走るとズバーってしてるし、目が真っすぐだし」

「……タカはね、いつも合図が早いんだよ。みんなの顔見て、すぐ“いこー!”って。なんだろ。一緒に行きたくなる。でも、それ言わないの」

「言わないの?」

「言わないの。幼稚園のころから、ずっと、言わないの」

「ふーん? ナツミ、タカのこと――」

「だから言わないってば!」

「はいはい。じゃ、三人のいいとこ、言っとこ?」

「うん」


 指を折って、声を合わせる。足が速くなっても、言葉は揃う。


「タカは、迷っても足が止まらないとこ、だよね」

「カズキは、怖くても目が前に行くとこ、かな」

「ヒデは、手がやさしいとこ。並べるの、上手だもん」

「それ、すき」


 校門の白い柱が見えたところで、二人は小指を出し合う。


「約束。三人のこと、ずっと応援する」

「うん。ずっと。ぜったい、ね」



7|土曜・午後――初めまして、ホークス


 富士見ヶ丘小の校庭。引き直された白線が乾いて、踏まれるたび「さらっ」と鳴る。ベンチ脇のキャップの青が陽にきらめく。

 監督は目尻のしわが深く、声は低いけれど、空の色みたいにやさしい。


「ようこそ、スカイホークスへ。合言葉は『前! 正面! 腰!』――前に走る。正面に入る。腰を低く。ゆっくりでいい。できたぶんだけ強くなるからね」

「はい!」とタカ。ヒデとカズキも続く。「はい!」


 フェンスの外、アユミとナツミがぶんぶん手を振る。指先まで弾む。


 キャッチボールとノックを短くやって、すぐ練習試合へ。相手は黒×黄のウィンズ。

 終盤に差しかかったころ、監督が倉庫から古いユニフォームを三着持ってくる。布地は柔らかく、背番号の刺繍は少しだけ擦れている。


「今日はお試し。着てごらん――18、19、20」


 カズキが18番、タカが19番、ヒデが20番。袖を通すと、胸のあたりがすうっと冷え、同時に熱が宿る。


「試しに外野いってみよ。ライト、タカ。センター、カズキ。レフト、ヒデ」

「はい!」


 ベンチの外で二人のひそひそは続く。


「ほら、カズキの一歩目、きれい。ズバーって」

「タカ、合図が短い。『前!』って言うと、みんなの足が前に行けるの」

「ヒデ、ちっちゃく息してるね。……がんばれ、ヒデ」

「三人まとめて、がんばれ! だよ」



8|三つのエラー、三つの三振


 最初の打球は高く、センター後方へ伸びた。秋の空の薄い青を切り裂いていく。

 カズキは一歩目が遅れて、最後にジャンプするけど指先で弾く。二塁打。スパイクが土を強く蹴った跡だけが、まっすぐ残る。


「前! もっと前だよー!」とコウタの声。


 二つ目はレフトへ。ヒデは正面に入れず、グラブの先でこぼした。

「ご、ごめん……!」

 三つ目はライト。タカは“前”に出たけど、ワンバウンドで頭の上へ、サッとグラブを出しても先をかすめる。

 ――三人そろって連続ミス。スコアだけが淡々と動き、胸の中だけがざわざわ動いた。


 打席が回る。

 タカ、空振り三振。「あ、当たらない……」

 ヒデ、見逃し三振。「こわい……」

 カズキ、フルスイング三振。「次は当ててやるっ!」


 バットが切る風だけ、やけにいい音だった。静かなベンチで、その音が耳に残る。


 監督は静かに手を叩き、三人の背中に、短く、やさしく触れる。


「三人仲良く、エラーと三振か――失敗は一人ですると、怖くなる。けど、三人で一緒にしたら、怖さは減るし乗り越えやすい。今日の分、明日は強くなれるよ」


 三人は同じ高さで「はい」。目線の位置がそろうだけで、足の向きも前にそろった。



9|土曜・夕方――コウタの家で


 夕方、コウタの家。玄関には濡れタオルが干されて、砂の匂いが少し残る。ちゃぶ台にスポーツドリンク。冷たい透明が喉をまっすぐ通って、胸の熱をちょうどよく冷ます。


「今日、下手だったね……」とタカ。

「うん……こわいと、前が遅れるんだよ」とヒデ。

 カズキはボトルを半分まで飲んで、テーブルにコトン。

「負けるのは嫌いだぞ。でも――勝てるようにするのは、好きだな」


 コウタが掌を前に出す。掌は土で少しざらついている。

「じゃ、入部だね。明日から同じユニフォーム着よう」

 三人は掌を重ねた。「うん!」と大きな声が揃う。重なったところが、熱を覚える。



10|土曜・夜――それぞれの家で


タカの家


 玄関で靴を脱ぐ音。台所から母が出てくる。鍋の湯気がやさしくまとわりつく。

「おかえり。……その番号、借りたのね?」

「うん。ホークス入る。弱いけど、本気でやるよ」

 母は笑って、タオルで髪をくしゃっと。

「いいじゃない。アユミのお母さんにも言っとくね。――途中でやめない?」

「やめないよ」

「ほんと?」

「ほんと。最後まで、やる」

「約束、ね」

 指切り。小指の温度が、妙に心強い。

「苦しい日もやりきるんだよ」

「うん。絶対にあきらめない」


 居間では父が新聞をたたむ。畳に紙の音が落ちる。

「聞いたぞ。ホークスか」

「うん」

「強いほうじゃないな」

「知ってる。でも、今は“前に走る”を習いたいんだ」


 父は口角をわずかに上げる。

「なら、やることは簡単だ。よく寝る、よく食う、よく走る。そして続ける。――やめ癖はつけるな」

「つけないよ」

「よし。明日も前にすすめ」


ヒデの家


 玄関で靴をそろえ、廊下の端の母を見る。廊下の木目が夕陽でやわらかい色になる。

「ぼ、ぼく……ホークス、入るよ。こわい日も、あるかも」

 母はスリッパを指でくるりと回して笑う。

「今日はよく頑張ったね。タカくん、元気でしょ。あの子と走ったら、前に行けるよ」

「うん。明日も行く……なるべく、正面にね」

「うん、正面。靴も正面に、ぴしっ」


カズキの家


 居間で、まず母に報告。食卓のコップがきらりと光る。

「俺、ホークスに入る。ウィンズじゃなくてさ」

「自分の目で見て決めたんだね。お父さんには、ちゃんと理由を話しておいで」


 夜、父が帰宅。玄関の鍵の音が硬い。父はウィンズだと思っていた顔で茶碗を置いた。茶碗を置く音が少し大きい。

「どうしてウィンズじゃない。強いほうが勝てるぞ」

「勝ちたいよ。でも――タカと一緒に走りたいんだ。タカが『前へ』って言うと、俺も前に行ける。今日の負け方、悔しかった。でも嫌いじゃなかった。だから、ホークスで勝てるように変わりたい」

 父は箸を止め、短く息を吐く。

「……言い切ったな。なら、やれ。途中で引くな」

「引かないよ」

「よし。いい友達がいて、良かったな」

「うん」


アユミの家


 夕飯の湯気の向こう、アユミが顔を上げる。箸先が嬉しそうに揺れる。

「タカたち、ホークス入るって。わたし、応援したいんだ」

 父が「旗ふる?」と笑い、母が「宿題終わらせてからね」と笑う。

「ふる! 旗は心でふるやつだよ!」

「じゃ、心の旗、毎日ふっとこ」


ナツミの家


 食卓で、ナツミは箸を置く。湯気の向こうで目がまっすぐだ。

「タカ、ホークス入るって。わたし、応援する。――支える係、するから」

 父が新聞をたたんで顔を上げる。

「支えるって、どうやってだ?」

「時間つくる。メモする。タカが鈍いとこ、私が言葉にする」

 母はうなずく。

「いいね。必要なノート、買いにいこ」

「方眼がいいな」



11|日曜の朝――同じ方へ


 朝の空気は冷たく、白い息が低く流れる。通学路の影が細く伸びる。

 三人と二人は、並んで校庭へ向かった。スニーカーの底がアスファルトを叩く音が、角を曲がるたび、同じテンポで揃っていく。


 白線は引かれた。前に走るための線。

 三人と二人の足音は、同じ方へ向いていた。



現在


 ベンチの前で、四角いガラスに夕雲がゆっくりちぎれていくのを見ながら、俺は息をひとつ吐いた。

「――で、最初の白線は、こんなふうに始まったんだ」

 ユキノが、うん、と小さくうなずく。

「つづき、聞かせて?」

 カズキも、缶ジュースを親指でコツンと鳴らしてうなずいた。

 俺は、もう一度、頭の中に白線を引き直す。


――つづく。

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