第4話 「黒旗の行軍、72時間の誓い」

 伝令の息が落ち着く前に、ギルドの広間は会議室になった。

 地図板、炭筆、水差し。窓は半分、扉は一枚立てかけて音の出入りを絞る。

 グレイス、古参、騎士の副官、ノエル、そして僕ら四人。視線は一つの点に集まる。


「報せを整理します」

 僕は短く区切って言葉を落としていく。

「黒角侯本隊。黒地に角の紋。馬・槍歩兵・弓混成、先行の角付と合流意図。街道西から進入、最短で二日。補給車列あり。……推定兵力は?」


 斥候が唾を飲み、手で四を作って少し揺らした。「四百……か、五百」


 数は僕らの十倍以上。

 でも、会議は数字で怯えない。勝利の定義を最初に置く。


「勝利の定義をここで決めます」

 炭筆が紙の上で四角を描く。

 1) 民間人の死傷ゼロ

 2) 穀倉・井戸・橋梁の防護

 3) 72時間の遅滞(角付の再編と本隊の合流を阻害)

 “敵を滅ぼす”は目標に入れない。守るためのKPIだ。


 古参のひとりが渋面で頷く。「三日……長いが、現実的だ」


「現実に合わせて段取りを作ります。必要なのは“正面勝利”ではなく、“路線管理”です」


 グレイスが机に手を置く。「参謀殿、権限は?」


「現場指揮の一時委任。兵と民兵、補給、封鎖、撤収に関する決裁権をお願いします。決められなければ、守れない」


 彼女は迷わない。羽根ペンを取り、領主印を押した。

 指揮権委任状。紙の上の赤い印は、命の矢印を太くする。


「受領。では、作戦開始」


          ◇


 地図の上に、三つの遅滞線を引く。


A線(街道:倒木と泥)

 街道のS字カーブに、伐った木を“井桁”に組んで車列止め。同時に上流の堰を一時解放し、低地の土を練り泥にする。車輪は泥に弱い。


B線(丘陰:視界の誤誘導)

 狭い丘の鞍部に偽の道標を立て、真正面を森の防柵で透明に閉じる。人は標識に従う。見える近道は最短の袋小路。


C線(前夜営:睡眠妨害・衛生)

 夜営地点に鳴子網、煙草(けぶりぐさ)、臭い袋。眠りの“段取り”を壊す。翌日の行軍効率を落とす。戦は翌朝の足取りで決まる。


 そして常時退路。白線で示した退却ラインを各所に引き、**「二回で退く」**のルールを全員で復唱させる。


「役割を割ります」

 僕は羊皮紙の端にRACI表の代わりに四つの札を置いた。

 担(にない手)/決(けっさい)/助(じょげん)/報(ほうこく)。

 A線の担い手はトマス班、決裁は僕、助言は老大工、報告はノエル。

 B線はピアの手先、C線はレオンの落ち着き。

 誰が、何を、いつやるか。名前のない作業は死ぬ。


「……ユーマさん」

 レオンが小声で問う。「敵も人です。夜営を壊すのは、苦しめる策でもある。僕は……祈りが、揺れます」


「苦しめたいからやるんじゃない」

 僕は彼の視線をまっすぐ受けた。

「味方の死を減らすためにやる。辛い策は、意味を確認してから実行する。あなたの祈りは、退くタイミングを僕らにくれる」


 レオンの喉仏が上下し、やがて強く頷いた。

 ピアは矢羽根をまとめながら口角を上げる。「私、標識を“ちょっと曲がって”立てるの、得意かも」


 トマスは斧を肩に乗せた。「木なら任せろ。折る前に切る場所を決める」


 グレイスが短く笑みを見せた。「動け」


          ◇


 A線。街道のS字。

 伐木は倒す前が九割。老大工が幹に白墨で二本の斜線を入れ、トマスが刃を入れる。

 メキ、メキ……バサ。

 丸太は“井桁”に組まれ、鎖の代わりに湿った蔦を縛る。蔦は乾けば締まる。

 同時に、川の小さな堰を上げる。水は最強の同盟者だ。

 泥は歩兵も馬も嫌うが、車輪には最悪。車軸は水で膨張する。無理に進めば折れる。


 B線。丘の鞍部。

 ピアが手元で細い杭を削り、道標を立てる。

 「→街へ最短」

 わざと字を少し崩す。地元の書き手の癖に寄せる。

 真正面には森と同化する防柵を斜めに入れ、“ここは狭い”錯覚を作る。人は狭い道を避ける。


 C線。夜営地。

 レオンが鳴子網を張り、草に火を入れないほどの薄煙をちろちろと出す。

 鼻を刺す臭い袋は、合図役の近くに。

 「眠れない軍は、翌朝に敗ける」

 会社でもそうだった。徹夜の会議は、次の日の工程を潰す。


          ◇


 黒旗が来た。

 乾いた蹄の音、槍の列、荷車の軋み。

 街道のS字へ差し掛かったとき、先頭の騎馬が井桁の倒木にぶつかる。


 ドン。

 列が止まり、角笛が短く鳴る。合図。

 後方の荷車が押し寄せ、S字の内側の泥にタイヤが沈む。

 ギギ……バキッ。

 車軸が鳴き、一本が割れた。


 怒号。罵声。

 “止まる”は僕らの味方。

 谷で学んだ原則が、街道でも通じる。


 やがて黒角侯の幕舎が遠目に見えた。黒地の天幕、統一された鎧。

 角付とは違う、段取りの匂い。

 幕舎から一人、書記らしき男が出て、長い棒で街道の幅を測り始める。

 測る敵は厄介だ。測られる前に更新する。


「A線、撤収準備。B線へ移動」

 僕は笛を鳴らし、蔦を切る。道具は置いて逃げる。道具は死なないけど、人は死ぬ。

 黒旗は苛烈に見えて、無理押しはしない。車列を半分引き返させ、丘の鞍部に向かう。


 B線の標識が陽に光る。

 先導の斥候が標識を見て、腕を振る。列がわずかに曲がった。

 袋小路。

 防柵の手前で密度が上がり、旗の影が重なる。

 そのとき、火術師が前に出て、手のひらに火を点した。


「火、来る!」

 僕は叫び、用意していた石灰袋を柵の前に投げ込む。

 ボフンと白が舞い、火の舌が鈍る。

 湿らせた布で押さえ、泥を塗る。火の段取りには、土と水が効く。


 黒角の火術師が鼻で笑い、別の位に合図する。脇から回る合図。

 さすがに速い。段取りの修正が短い。


「撤退二回! C線に移行!」


 ピッ、ピッ。

 僕らは丘から降り、夜営予定地に先回りする。

 黒角侯の列は昼前にB線を突破したが――**ここからは“眠りとの戦”**だ。


          ◇


 夜。黒旗の天幕に薄い音が走る。

 **チリ、チリ……鳴子網が風に乗って唄う。

 鳴子の音は敵の角笛の“間”**に挟まり、見張りの意識を削る。

 臭い袋は合図役の周辺にだけ割る。全体を汚さない。

 火は使わない。闇には闇の段取りがいる。


 真夜中、天幕の端で咳が連なる。

 翌朝、彼らの動きは半拍遅れた。

 “眠りを削ると、翌朝の判断が鈍る”。これは人の普遍。


 一日目:遅滞達成 26時間。

 僕は報告書に青の線を一本足した。


――――――――――

《遅滞設計》Lv1:地形・補給・心理を用いた時間稼ぎの成功率が上がる。

《火対策》Lv1:火術・延焼に対する即席の抑止策を設計できる。

――――――――――


 グレイスが水袋を投げてよこす。「参謀殿、顔が死人だ」


「三時間寝ます。寝ない参謀は、愚かな参謀」

 ノエルが無言で毛布を肩に掛けた。


          ◇


 二日目の朝。

 黒角侯は測った。街道の幅、丘の高さ、川の流れ。

 幕舎から現れた黒い外套の書記官が、こちらをじっと見た。

 見られている。

 彼は角笛を持たず、板とペンを持っていた。僕は嫌な馴染み――会議の敵を思い出し、苦笑した。


 こちらの遅滞線D:市場の迷路。

 村はずれの古い市場の棚を回廊に組み替え、矢印を逆向きに立てる。

 人は矢印に従う。兵も人だ。秩序ほど攪乱に弱い。


 先頭が市場に入る。角付が合図を出す。

 曲がれ、戻れ、進め。

誤合図は使わない。昨日の手は学ばれている。

 代わりに僕は**“見える責任者”を消した。

 屋台の布が翻り、合図役だけを一瞬だけ“見えない”**場所に誘導する。

 列は責任者が見えないと止まる。


 その間に穀倉は守り具で囲われ、井戸には覆い。

 ノエルが白旗を結び直し、子どもたちが水を運ぶ。暮らしの動きが戦の線を太くする。


 二日目:遅滞+21時間、通算47時間。

 黒角侯は苛立った。怒りは段取りを壊すが、彼はまだ壊れない。

 夕刻、使者が来た。黒い外套、銀の封蝋。

 文にはこうある。


降れ。三日限り待つ。

降るならば畑は守る。

降らぬならば、畑から壊す。


 テンプレートの恫喝。

 グレイスは僕を見た。

 僕は首を横に振る。


「“決める材料に恐怖を混ぜる”手口です。対抗の**“戻り先”**を用意しましょう。

 広場で“白旗の誓い”を読み上げる。“畑と井戸は子どものもの”。

 “守る対象が見える”と、人は耐えられます」


 夜、白旗の下で読み上げるグレイスの声は、角笛より遠くまで届いた。


          ◇


 三日目の朝。

 黒角侯はついに正面展開を選んだ。

 街道正面に陣、側面に角付、後方に予備。

 “遅滞”はここで終わる。

 **“守り切り”**が始まる。


「参謀殿、正面で勝てるか?」

 グレイスの問いは短い。


「勝ちません。耐えます。半日」


 僕は最後の地図を広げる。

 穀倉の手前に“畑の畝”を利用した蛇行の壕。

 木柵は“押したら壊れる”ように作る。壊れて敵の密度が増えた瞬間に、土嚢の壁を落とす。

 人は“壊れやすいもの”を壊すために密集する。密度は僕らの味方だ。


 騎士の副官が歯を見せて笑った。「汚いが、いい」


「汚いのは土です。やましいのは嘘。僕らは嘘は使わない」


 戦鼓が鳴った。

 黒旗が、こちらへ来る。

 僕は笛を首に掛け、ノエルのほうを向く。


「会議室、任せた。負傷者の導線、白線を二本引いて」


「うん。**“白線が命を戻す”**んだよね」


 ノエルの笑顔は強かった。

 トマスは斧ではなく短い杭槌を持ち、ピアは壕の内側で矢を番え、レオンは退路の祈りを短く繰り返す。


 黒角侯本隊、突入。


 畝の壕で足を取られ、見かけの弱い柵に殺到し、柵が折れて密度が増す。

 その瞬間、土嚢の壁が落ち、目の前が土になる。

 前列の視界が消え、後列の合図が届かない。

 角笛が二度鳴り、三度目で濁った。

 眠りの不足が三日目に効いてくる。

 半日、持ちこたえた。


 ……が、想定外は来る。

 黒い外套の書記官が、角笛ではなく太鼓を持って前に出た。

 音の系統を替えた。

 合図の“依存”を切り替える敵。

 学んでいる。


 グレイスが目だけで問う。

 僕は頷き、笛を口から外した。


「撤退二回。KPI達成。通算72時間。穀倉と井戸は無傷。……約束は果たした」


 白線へ引く。引ける形で前へ出ていたから、引ける。

 黒角侯は深追いしない。段取りのある敵は、追撃より再編を選ぶ。

 彼らはここを越える。でも、民は逃げ切った。

 白旗の下で、子どもが泣き笑いし、ノエルが数を数える。「……ゼロ」

 胸の奥が、静かに熱くなった。


          ◇


 夕刻。

 黒い外套の書記官が、一人でこちらに歩み寄った。

 近くで見ると痩せて、指が長い。目は計算の色。


「興味がある」

 彼は淡々と言う。

「お前の段取りは“戦”に見えて、“工事”だ。名前は?」


「佐伯悠真。参謀」


「私は黒角侯参事・オド。**次は“野でなく城”**で会おう」

 彼は背を向け、黒旗の海へ戻っていった。


 グレイスが横に立つ。「城……王都に援軍を乞う他ない。参謀殿、王都へ来い。“段取りの価値”を王に見せる」


 僕は地図の白い余白を見た。

 白は怖い。でも、矢印の始点はいつも白に置く。


「行きます。会議の時間は短く。決裁はその場で。……王都の“段取り”、直しましょう」


 ステータス板が、薄く光った。


――――――――――

《作戦統括》Lv1:複数の遅滞線・防御線を段階的に運用できる。

《交渉設計》Lv1:軍事と政治の議題整理・合意形成がわずかに上昇。

――――――――――


 灰麦の風は冷たいのに、胸は不思議と温かかった。

 社畜ゲーマーの朝は早い。

 でも、今夜は三時間ではなく五時間眠る。

 寝る参謀は、明日を守るから。


(つづく)

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