第2話 「辺境の呼び声」

 朝の冷気が頬を撫でる。北門前に立つと、昨日までただの酒場にいた自分が、急に物語の舞台に押し出されたような気がした。

 馬車の脇に控える騎士たちの甲冑は、朝日を浴びて鈍く光っている。その中心で一人の女性が僕を待っていた。


「参謀殿か」

 彼女は堂々とした声で言った。灰色のマントに、麦束を象った紋章。

 ──灰麦領を治める小領主、グレイス。


「グレイス領主。昨日は封書を、ありがとうございました」

「読んでくれて何よりだ。……あの報告、面白かった。敵の動きだけでなく、退路や心理まで図に落とす者など初めて見た」


 彼女の視線は鋭いが、評価の色を隠していなかった。

 僕は、会社で散々味わった「無言の圧迫」ではなく、「期待」という圧を初めて肌で感じた。


「辺境で戦が近い。手勢は多くない。だが、守り切れば領民は救える。──参謀殿、知恵を貸してくれ」


          ◇


 馬車に揺られながら、僕は昨日の新人三人と一緒に、簡易の作戦会議を開いていた。

 地図の上に石を置き、領境を示す。敵の通り道になりそうな谷、橋、森。


「普通なら正面からぶつかるしかない。でも……」

 僕は炭筆を走らせる。

「敵が数百なら、正面衝突は百戦百敗。勝ち筋は“減速”と“分散”。社畜会議で学んだのは、『敵が大きいときは分割しろ』ってやつです」


「分割……?」とトマスが首を傾げる。


「うん。大きな案件も、チームを三つに分ければ回せる。敵軍も同じ。進む道を狭めて、流れを分ける。そうすれば、各個撃破ができる」


 僕は炭で「谷の入り口」と「川の橋」に印をつけた。

「ここに落石。ここに橋を燃やす。退路は二本確保。全員に“撤退の基準”を決めておく」


 ピアの目が光る。「……なるほど。矢は当たるか不安だけど、岩なら落とせる」

 レオンも頷く。「橋に油をかけ、祈りの火を灯せば……」


「それなら俺たちでも、できそうだ!」とトマスが拳を握った。


 新人たちの顔が、自信の色を帯びていく。

 僕は思わず胸の奥で呟いた。(これだ……。これが僕の仕事だ)


          ◇


 灰麦領に到着すると、村はすでに戦の準備に追われていた。

 畑を耕していた手は槍を握り、家々からは避難用の荷物が運び出される。子どもたちの目には恐怖と、かすかな期待が混じっていた。


「参謀殿」

 グレイスが馬から降りて僕に向き直る。

「この領は小さい。守りは薄い。だが……お前の言う“仕組み”があれば、勝機はあるのか?」


 僕は深く息を吸った。

「はい。必ずしも勝利ではなくとも、“守る”ことはできます。ただし……」


「ただし?」


「私に“権限”をください。指示を出しても実行されなければ、意味がありません」


 グレイスは一瞬黙り、やがて口角をわずかに上げた。

「言うな。権限なき責任は、ただの奴隷だ。社畜で学んだのだろう?」


「……図星です」


 彼女は笑みを消し、真剣な眼差しを僕に注ぐ。

「いいだろう。今よりお前を“軍参謀”として認める。兵も村人も、お前の指示に従わせる」


 その言葉に、背中が熱くなるのを感じた。

 会社で散々欲しかったもの。やっと手に入った。


「……必ず、領を守ります」


          ◇


 夜。村の広場で、僕は初めて数十人の前に立った。

 彼らの目には不安が渦巻いている。武器を持ちながら震えている手もある。


「皆さん。僕は剣も魔法も使えません。代わりに“段取り”をします」

 どよめきが走る。だが僕は続けた。


「戦いは怖い。でも、“どう動くか”を事前に決めておけば、人は動ける。退くときは退く。合図を二回聞いたら戻る。それが命を守る仕組みです」


 地図を広げ、炭で矢印を描き、役割を一人ずつ割り振る。

 「あなたは橋を燃やす人」「あなたは石を落とす人」「あなたは退路を守る人」。


 次第に、彼らの顔に“やるべきこと”が映りはじめた。

 会社で百回繰り返したプロジェクト・キックオフ。その光景と何も変わらなかった。


「さあ、会議を終わらせましょう。仕事は明日の朝からです」


 夜風に揺れる松明が、ひとつの意思をまとめあげるように赤く燃えた。


          ◇


 その夜、僕のステータス板には新しい行が刻まれていた。


――――――――――

《小隊運営》:最大30名までの部隊を統率可能。士気の低下を防ぎ、退路指示が効率化する。

――――――――――


 社畜ゲーマーのスキルは、確実に“軍師”へと変わりはじめていた。

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