第2話 実技対抗、最弱召喚士の逆転
朝の鐘が三つ、学園の塔から落ちてきた。
中庭は、まだ冷えた霧の匂いを抱いているのに、空気だけはやけに熱い。昨日の騒ぎ――天城ユウトが魔王の娘を呼び出したという噂は、夜のうちにひとり歩きして、朝には学園の隅々まで行き渡っていた。
「見た? 昨日の暴走を止めたって」「いや、聞いた話だと“女が全部やった”らしいぞ」「対等契約って本当? あれ、法に触れないの?」
透明な囁きが背中にまとわりつく。僕はパンを半分かじっただけで、食堂の皿を押しやった。向かいの席では、黒衣の少女――リリス・ノワールがスープを静かに啜り、時折、僕の手の甲に刻まれた**対等紋(パリティ・シグル)**を見て微笑んだ。
「食欲、落ちていますね、ユウト」
「うん。落ちてる。よく見えるね、そういうの」
「あなただけは、よく見ていますから」
さらりと言われて、喉が渇いた。水を飲む。テーブルの端にトレーが置かれ、陽気な赤毛がひょいと顔を出す。
「よっ、ユウト。席、空いてる?」
「カイル・ハンフリー。助かる」
「助かるのはこっちだって。昨日のあれ、胸がすっとしたぞ。お前、いつからやればできる男だったんだ」
笑って肩をすくめるカイルに、リリスが軽く会釈する。「友人。良い響きです」
「う、お、おう。ひ、光栄です、リリス嬢」
カイルが耳まで赤くなるのを見ていると、廊下側で小さな歓声が上がった。人垣が自然と割れ、掲示板の前に赤い紙が現れる。
〈臨時実技対抗:召喚科二年次代表決定戦〉
僕は飲みかけの水を危うくこぼしそうになった。
紙面の真ん中、黒い文字が刺さる。
天城ユウト vs クレア・フォンティーヌ
「……はやいな、話が」
「誰が仕組んだ?」カイルが顔をしかめる。「代表決定戦は期末のはずだろ。臨時って」
「吊し上げ、でしょうね」リリスが淡々と告げる。「見世物にして、あなたを“元の場所”に戻す試み」
胸の奥にじわりと熱いものが広がる。怒りだ。怖さもある。でも――勝てば、昨日は偶然じゃないと証明できる。僕の目が本物だと、世界に言える。
「……出るよ」
そう言うと、背後から冷たい気配が近づいてきた。
金糸のリボン、整えられた金髪、青い瞳。クレア・フォンティーヌが、掲示板からまっすぐにこちらへ歩いてくる。
「天城。臨時だろうと公式には違いない。棄権するなら今のうちよ」
「しない」
「昨日のは運。あなたが“見えた”という式の穴は、偶然のつぎはぎ。今日は、学年主席として示すわ。手順通りの正確さが、どれほど強いかを」
紛れもない宣告。クレアは一秒たりとも視線を揺らさない。
「私の敵は、失敗を許す人です。学園の名誉のためにも」
彼女が踵を返すのと同時に、廊下の向こうから銀髪が現れた。
朗らかな笑みを貼り付けた長身の騎士科――レオン・アルバート。
「おはよう、ユウト。……ああ、クレアも。二人とも、手加減はなしでいこう。観客は期待してる」
「観客?」
「王都の“耳の長い連中”まで噂を聞きつけてる。学院長・セレスティア様も直々にご覧になるって。派手にやってくれて構わない――危険があれば、僕が止める」
その言い方に、僅かな針が混じっていた。笑顔の奥の仕事の匂い。昨夜、扉の向こうで感じたのと同じだ。
レオンは僕だけに目で合図し、何もなかったように去っていった。
「ユウト」リリスが小さく袖を引く。「命令を」
「……勝つ。無傷で。そして“誰も傷つけずに”」
「承知」
◇
午後。
円形闘技場の砂が、陽光を反射してうっすら白く光る。立見席まで埋まっている。セレスティア学院長が上段の特別席に腰を下ろすと、ざわめきが波のように引いていった。
「第一試合、天城ユウト、および――従魔登録未了。対するは、クレア・フォンティーヌおよび氷狼フェンリル!」
審判の声。
対面、クレアが杖を軽く一振りすると、氷霧が巻き、銀灰の巨狼が姿を現した。背には薄氷の棘、吐息は白。観客から感嘆と畏怖が混じった声が漏れる。
「天城。昨日は、暴走を止めたのでしょう? なら今日は正確を学びなさい」
「学ばせてもらうよ、クレア」
僕の横に並んだリリスは、影の裾をわずかに揺らし、紅い瞳だけで合図を送ってくる。息を合わせる。僕は闘技場全体に意識を広げ、グリッチサイトを開いた。
(式は滑らか。配線も美しい。さすが主席……でも――)
見える。
氷狼とクレアの制御線に、ほんのわずかな過出力の揺らぎ。強く、正確すぎるからこそ生じる“硬さ”の継ぎ目。
「開始!」
氷狼が吠え、氷柱の雨が矢の群れになって走る。
僕はリリスの影に折り返し点を二本だけ描いた。
「共鳴解放――第一段階」
影翼が薄く広がり、矢の編み目を受け流す。軌道は逸れ、観客席手前の防御壁に柔らかく吸われた。歓声と悲鳴が交じる。
「なっ……!」クレアの眉が僅かに揺れる。
「クレア」僕は声を届ける。「僕は落ちこぼれだ。魔力は少ない。でも――見えるんだ。君の式の“固いところ”。力のかけ過ぎで、壊れやすい結び目が」
「減らず口」
クレアは印を連ね、氷の鎖を地から走らせる。足元を絡め取り、動きを封じるつもりだ。
僕は砂の下に走る微弱なノイズに気づいた。観客席の陰、誰かが陣に触れている。
(またか――午前の儀式と、同じ外部介入)
「リリス、床のノイズを縫って!」
「かしこまりました」
影が砂に落ち、見えないほつれを縫合する。鎖の勢いが一瞬だけ鈍り、その隙に僕は短い熱流を一点だけ通した。鎖の繋ぎ目が緩み、足元から解放される。
観客席の上段で、銀髪がかすかに動いた。レオン・アルバートが目だけで何かを追っている。その隣で、学院長セレスティアが面白そうに頬杖をついた。
「天城ユウト」クレアが杖を構え直す。「それは危うい。見えるからといって、短絡は自分を焼く」
「見えてるから、焼かない」
僕は指を二度弾いた。リリスが息を合わせ、足元に影の輪が走る。
氷狼が跳ぶ。
影の輪が、根本の術理にひと針だけ刺さる。
氷狼の動きが一拍、遅れた。
「今!」
リリスが影翼を広げ、包む。凍えた世界を壊すのではなく、式そのものをやさしく押さえ込むやり方。誰も傷つけない命令への、彼女なりの解。
審判の旗が上がる前、クレアは最後の手を打った。
杖の先から霜の薔薇が咲き、無数の花弁が刃に変わって舞う。美しい、けれど――過飾だ。
式は飾れば飾るほど、継ぎ目が増える。
(ここ、ここ、そして――ここだ)
僕は三点だけ、影へ返し縫いの位置を指定した。リリスが紅瞳で僕を見て、微笑む。
「了解」
花弁は空中でほどけ、氷狼の背中で眠る。
静寂。
次いで、審判の声が響いた。
「そこまで! 勝者――天城ユウト!」
歓声と、口笛と、困惑のざわつき。
クレアは杖を下ろし、氷狼の首筋に手を置いた。目を閉じて、一秒。再び僕を見やる瞳に、認めざるを得ない色が一瞬だけ浮かぶ。
「……次は、運じゃ済まない」
「運で勝てるほど、僕は器用じゃないよ」
クレアは踵を返し、退場する。氷の足音が砂に溶けた。
◇
控室に入ると、膝が少し笑った。
ベンチに腰を下ろすと、リリスがそっと片膝を折って僕の前に座り、手の甲の対等紋へ指先を重ねる。淡い鼓動が共鳴して、胸の高鳴りが少し落ち着いた。
「ユウト。いまの三点、見事でした。過飾の継ぎ目にだけ針を入れる。あなたの式は、いつも必要十分です」
「ありがとう。――でも、外からのノイズ、またあったね」
「ええ。観客席の陰、闘技場の床――午前の儀式と同じ癖。手際からして、学内の誰か」
扉がノックされる。
開くと、そこにレオン・アルバート。笑顔は柔らかいのに、眼差しだけが仕事をしている。
「おめでとう、ユウト。見事だった。……だが、君を狙う者は学園の外にもいる。王都はもう騒がしい。噂は尾ひれをつけて走る。『魔王の娘が学院を乗っ取る』――そんな文句まで飛んでる」
「誰が流してる?」
「まだ掴めてない。でも、王都情報院として言えるのは一つ。君と彼女は“旗”になった。敵味方を分ける、派手な旗だ」
レオンはリリスに視線を向け、礼儀正しく会釈した。「リリス嬢。あなたの剣は見事だ。……だが、鞘も必要だ。鞘の役は、僕がやる」
リリスは微笑む。「ユウトが許すなら」
「僕は――」言いかけて、レオンの目が一瞬だけ細くなるのを見た。
(護衛と、監視。どちらも真実なんだろう)
「今夜、寮の見回りを増やす。窓には近づくな。昨夜、屋根に黒羽の影がいた。王都の傭兵筋だ。おそらく“掃討派”が雇っている」
黒羽。
昨夜、窓の外をかすめた影の輪郭が、掌の内側でざわりと動いた気がした。
「忠告、感謝します」
「礼はいい。生きてくれ――それが仕事の利になる」
レオンは踵を返し、扉の向こうへ消えた。
リリスが小さく息を吐く。「二重の顔。けれど、虚飾ではありません。彼は“二つとも本当”。厄介ですが、嫌いではない種類」
「珍しいね、はっきり言うの」
「ユウトが問わなくても、言っておきたいことでした」
ふっと笑ってしまう。緊張の中に、体温が戻る。
僕は立ち上がり、壁の掛け鏡を見た。昨日までの落ちこぼれの顔に、少しだけ疲労と、少しだけ自信が混じっている。
「……クレア、怒るだろうな」
「怒らせたのは、正しさです。あの人は、正しい。だから、あなたを許せない」
「厄介だ」
「ええ。好きになりやすい人でもあります」
曖昧な笑いに、返す言葉が見つからなかった。
◇
夕暮れ前、訓練場の片隅で、僕はチョークを膝の上におき、小さな練習陣に息を吹きかけた。
線は細く、短く、必要なところだけ。最短式は、少しでも長く書けば破綻する。見えているうちに終えることが命。
リリスが隣にしゃがみ、視線を落とす。「黒猫の回路、練習ですか?」
「うん。いつか、拾いに行く約束をしたから」
「では、私からも約束を。――その黒猫は、私が撫でます」
「独占欲、強くない?」
「はい」
堂々と頷かれて、笑うしかなかった。
影が長く伸び、訓練場の端にたむろする上級生たちの視線が、刺さっては逸れていく。悪意も好意も混じった、その雑音の上を、さらに乾いた靴音が通り過ぎた。
「――いた」
氷のように整った声。クレア・フォンティーヌだ。
彼女は杖を携えず、制服姿のまま僕の前に立った。昼の試合の熱は顔から消え、代わりに、奇妙な静けさが宿っている。
「言いに来たわ。主席として。あなたのやり方は、危険だと。……でも」
ほんの一瞬、彼女は視線を落とした。
「――認めるところも、ある」
「クレア?」
「勘違いしないで。褒めてはいない。認めるだけ。あなたの“見え方”は、私にはない。だから私は、別のやり方であなたを倒す」
彼女は顔を上げ、いつもの冷ややかさを取り戻した。「実技代表は、とりあえずあなた。学院長の決裁よ。私は書類に異議を添えたけれど、退けられた。――次までに、用意しておく」
クレアはそれだけ言って背を向ける。去り際、ほとんど無音の吐息のような声が残った。
「……今は、それでいい」
リリスが首を傾げる。「素直で、かわいらしい」
「言ったら怒るよ」
◇
寮に戻ると、二重結界の外にレオン・アルバートがいた。壁にもたれ、手帳に何かを書きつけている。
「夜までいるの?」
「夜こそ仕事だよ。黒羽は夜に飛ぶ」
「厄介だね」
「仕事はだいたい厄介だ。君の仕事も、ね」
部屋に入る。窓のカーテンを引く前に、リリスが外を一瞥する。「屋根の縁に、止まり木。同じ癖。今夜も来ます」
「命令」
「誰も傷つけるな。顔だけ、覚えて」
「承知」
寝台の端に腰を下ろし、靴を脱ぐ。今日一日で、足が自分のものじゃないみたいに重い。
リリスが灯りを落とし、陰影だけの部屋にやわらかな気配が満ちる。
「ユウト」
「ん」
「あなたの目は、あなたの弱さを責めません。足りなさを、繋ぐだけ。――とても、好き」
心臓が跳ねて、返事が喉に引っかかった。
窓の外で、低く風が鳴る。
リリスがふっと微笑んで、影の薄い羽を広げる。
「黒猫は、いつ拾いに行きます?」
「試験が終わって、学院長が許してくれたら」
「では、最短経路で」
「それは――僕の台詞だよ」
眠気が波になって押してくる。横になり、目を閉じる。
まぶたの裏で、昼の氷の花がほどけ、夜の屋根に黒羽がとまる。
どこか遠くで、鐘がひとつ鳴った。
――世界のほうが、先に鳴く。
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