落ちこぼれ召喚士、呼び出したのは魔王の娘でした

桃神かぐら

第1話 黒猫のはずが、魔王令嬢

 光が降った。

 白亜の儀式室の床いっぱいに刻まれた複層召喚陣が、呼吸する生き物みたいに淡く脈打ち、銀粉の環は膨らんだり縮んだりを繰り返す。熱せられた薬液の匂い、焼けた羊皮紙、舌の奥にぴりつく魔素――全部が、いつもの“失敗の前兆”に似ていた。


(今日は黒猫でいい。二尾でも三尾でも、なんでもいい。頼むから――普通であれ)


 僕――天城ユウトは、チョークで最後の線を引き終えると、陣の左下にわずかな浮きを見つけた。補助回路の結び目。光の編み目が粗い。ここだけ、糸が解けている。


(まただ。基礎陣の規格通りなら、ここは均一に光る。誰かがいじってる? それとも、教本の写しが古い?)


 言葉になる前に、媒質の水銀が逆回転を始めた。

 環の光が、底へ、さらに底へ吸い込まれていく。

 監督役の教師――オーウェン教諭が慌てて叫ぶ。「離れろ、天城! 周囲、退避!」


 僕は一歩、踏みとどまった。逃げれば助かる。でも、浮きは“押さえれば”沈む。僕が役に立てる唯一の瞬間だ。掌を陣の縁に滑らせ、ほどけた糸を結ぶみたいに――短い回路をつくる。燃費重視、最短結線。僕だけの取り柄。


 パチン。


 音がして、風がやむ。

 光が収束し、そこに人影が立った。


 黒。

 夜の色の髪。灯りを飲む紅い瞳。黒衣は簡素なのに、立っているだけで場が整う、王族の気配。

 彼女は一礼し、指先で胸元の金具に触れた。螺旋、王冠、四翼の影――教本の“開いてはいけない”ページに載っていた紋章。


「……お初にお目にかかります、契約者さま」


 澄んで、少し甘い声。

 教室が凍る。


「ま、魔族?」「胸の紋、見ろ。アレ……」「いや、まさか――魔王家……?」


 僕の喉がからからになる。


「自己紹介を。リリス・ノワール。血統は魔王家、立場は――王女。対等契約の成立を確認しました」


「……たいとう……契約?」


「従属ではありません。あなたは私の主であり、同時に私の相棒。どうか命じてください。私を世界のために使うのか、あなた自身のために使うのか」


 オーウェン教諭の顔色が蒼白になる。「封印班、前へ! 封――」


 リリスは床を滑る封札をひょいと摘み上げて首を傾げた。「粗雑な封印は、皮膚が荒れます。契約者さまの前では、乱暴は控えますね?」


 丁寧な言葉に、小悪魔的な笑み。

 手を上げた僕は、つい本音が漏れた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。僕が呼びたかったの、黒猫なんだけど」


「黒猫。かわいいですね」

「いや、そうじゃなくて――」


「では、あとで拾いに行きましょう。まずはここを収めます」


 その瞬間、儀式室の隣の陣が悲鳴を上げた。

 光の編み目が裂け、媒質が泡立つ。(さっきの浮きと同じ……いや、意図的に切ってある)


「暴走する!」

「結界! 結界を張れ!」


 結界が立ち上がるより早く、リリスが僕だけを振り向く。

 紅い瞳に映るのは、ざわつく生徒でも蒼白の教師でもない。僕だ。


「命令を」


 喉が鳴る。ここで黙れば、彼女は何もしない。僕が命じなければ、彼女は対等契約の規律に従って、勝手には動けない。


「――誰も傷つけずに、止めて」


「かしこまりました」


 リリスは片足を引き、影が翼にほどける。僕は彼女の背へ最短式を二本描いた。反転の折り返し点。手の甲の**対等紋(パリティ・シグル)**が熱く脈打つ。


「共鳴解放――第一段階」


 声が重なる。

 光が反転し、暴走の唸りが風にほどけて消えていった。

 陣は静まり、倒れかけていたフロイライン班の女子が、ぽかんと口を開けたまま座り込む。


「……助かった、の?」

「被害ゼロ。すげぇ……」「天城が? あの落ちこぼれが?」


 ざわめきが一周して戻ってくる。

 僕は膝から力が抜けるのを感じた、その時――


「ちょっと!」


 つかつかとヒールの音。金糸のリボン、整った金髪。

 クレア・フォンティーヌが結界の縁に来て、きりりと顎を上げた。


「天城ユウト、いまの式、何? 教本にない配線を使ってた。危険すぎる」


「危険は最小限にした。ほつれを見つけたから、短絡で縛っただけだよ」


「“見つけた”? あなた、見えるの?」

 クレアの蒼い瞳が一瞬だけ揺れ、すぐ冷ややかに戻る。「まさか。あなたにそんな目があるなら、落ちこぼれなんて呼ばれてないはず」


 横から、銀髪の長身が割って入った。

 騎士科の人気者――レオン・アルバート。清潔な笑顔で、場の空気をすっと柔らげる。


「クレア、落ち着いて。暴走が止まった。それで十分だろ? ユウト、怪我は?」


「ない。……ありがとう、レオン」


 レオンは意味ありげに目を細め、リリスへ視線を滑らせる。「そして――君が、噂の“危険物”か。初対面だね。僕はレオン」


 リリスは微笑み、ほんのわずか首を傾げる。「リリス・ノワール。契約者さま以外への呼応は、最低限にします」


「物騒だなぁ」レオンは苦笑する。「でも、頼もしい」


「物騒“だからこそ”です」クレアがささやき、レオンの袖を小さく引いた。「天城が禁忌を――」


 扉が開いた。

 紫水晶色の瞳、薄い笑み。灰色の長衣。


「お戯れはそのあたりにして」

 学院長・セレスティアが静かに歩を進める。「まずは臨時審問を行いましょう。関係者以外は解散。リリス嬢は……契約上、契約者同行に限る、でいいかしら?」


 リリスは僕の袖をそっと摘む。「はい。契約者さまの許で」


 解散のざわつきの中、クレアは最後まで僕を睨み、レオンは笑みを崩さぬまま、ほんの一瞬だけ警戒の光を宿らせた。

 僕はそれを、見てしまう。

 ――レオンの笑顔の奥、ほんの僅かな“仕事の気配”。(何だ、いまの鋭さ)



 臨時審問室。

 楕円の長卓、記録魔具、壁際に待機する結界班。

 正面にセレスティア学院長、脇にオーウェン教諭。僕の隣にリリス。間に置いた水の表面が、僕の震えを映す。


「まず、確認しましょう」セレスティアが指先で空を弾く。魔晶にページが開き、淡い光条が走る。「禁忌召喚の発動事実。天城ユウト、あなたが意図して魔王血統を召喚したのね?」


「いいえ。黒猫を呼ぶはずでした」


 室内に乾いた笑いが走る。

 オーウェン教諭が咳払い。「黒猫を魔王令嬢に取り違える者が、どこにいる」


「陣に浮きがありました。左下の補助回路、光の編み目が粗かった。おそらく旧版の教本を写す際の転写誤差、あるいは誰かの――」


「待ちなさい」セレスティアが目を細める。「君は、浮きが“見える”の?」


「……見えます。たぶん、人よりも配線の短い道が、光って見える」


 オーウェン教諭が露骨に眉をひそめる。「そんな個人感覚は、正式な術理じゃない」


「でも、さっき暴走陣を止めました」僕はリリスを見やり、言葉を継いだ。「反転召喚で、被害ゼロで」


 セレスティアは、口の端をわずかに上げる。「事実は記録に残っている。――リリス嬢、あなたの契約形態は?」


「対等契約です」リリスは静かに答え、僕の手の甲の紋へ指先を添えた。淡い光が脈打ち、室内の魔具が微かに共鳴する。「契約者さまの術式は、最短経路で組まれます。私が注ぐ魔力は、漏れず、逸れず、必要な地点にだけ届く。だから――彼は魔力が少なくても、私を動かせる」


 ざらり、と結界班の空気が変わった。

 セレスティアは目元だけで笑い、「なるほど」と呟く。


「天城ユウト。君の“目”は、古い書で稀に記された失われた術士の系譜に似ている。式のほつれを見抜き、短絡で結ぶ。魔王血統を呼んだ過失は重いが――意図がない以上、直ちに断罪はしない」


 僕は息を吐いた。

 だが、オーウェン教諭が机を指で叩く。「学院の外は世間だ。王国は“魔族排斥”が主流。魔王の娘など、学院に置けると思うか」


 その時、扉がノックされた。

 入ってきたのは、騎士科の制服――レオン・アルバート。彼は一礼し、封蝋の付いた文書を差し出す。


「王都警邏隊より至急通達。『午前の儀式における暴走召喚について、魔族介入の疑いあり』。学院の監視強化を、とのことです」


 セレスティアは文書を受け取り、さらりと目を通す。「早いわね。……わかった。対外発表は学院側で担う。レオン君、君はしばらく校内巡回に当たって。――ユウト君、リリス嬢。今日は臨時保護とする。勝手な外出は禁止。護衛は……そうね、レオンに」


 レオンは笑ってうなずく。「光栄です。ユウト、寮まで送るよ」


(護衛――いや、監視でもある。だが、いまは逆らえない)



 午後の学食。

 ざわめきの海の真ん中に、ぽつんと空席ができる。そこに僕とリリスが座ると、周囲の視線が刺さった。「あれが……」「天城って誰だっけ? 落ちこぼれ」「いやでも、さっき暴走止めたって」


 向かいでリリスがスープをひと匙、口に運ぶ。仕草は貴いのに、味を確かめる顔は年相応だ。「塩気、控えめ。契約者さま、食事、足りてます?」


「僕は大丈夫。リリスは……食べられるの?」


「この世界の食事、好きです。あなたが選んだものは、とくに」


 さらりと甘い。胸が苦くなり、慌てて水を飲む。

 そこへ、赤毛の男子がトレーを持って現れた。「ここ、いいか?」


 同級の召喚士科――カイル・ハンフリー。悪いやつじゃない。僕が何度も実技で失敗している時、肩を叩いて笑ってくれた数少ない相手。


「ユウト、さっきの冴え、見たぞ。お前、やればできる男だったか!」


「たまたまだよ」

「たまたま、あの配線はできないって。……で、彼女、ほんとに魔王の娘?」


「本当です」リリスが微笑む。「リリス・ノワール。あなたは、ユウトの友人ですね。ありがとうございます」


 カイルは一瞬びくっとして、すぐ破顔した。「は、はい! 俺、友人です! ユウトの!」


 周囲の笑いが、さっきより少しだけ柔らかくなる。

 そこへ、銀のトレイの音。

 クレア・フォンティーヌが立っていた。姿勢が完璧で、表情は氷のように滑らか。


「天城。午後の実技対抗、どうするの?」


「……出るよ」

「出ないほうが安全よ。あなた、目立ち過ぎた。反発を買う」


 クレアはリリスに視線を移す。「あなた。魔王の娘。この学園では、無用な実力の誇示は反感を招くだけ。――その契約者を守りたいなら、覚えておきなさい」


 リリスは一瞬だけ瞬きし、微笑を細くする。「忠告、感謝します。ですが、私は契約者さまの命令に従います」


 クレアの瞳が冷たく光った。「なら――天城。命令しなさい。慎むことを。賢さを示しなさい」


 彼女は踵を返した。

 残った空気に、カイルが小声で言う。「怖ぇ……でも、正論だ。――午後、どうする?」


「……出る」僕は答えた。「クレアの言う通り、反発はある。でも、“僕ができること”を見せないと、リリスを守れない」


 カイルが笑い、拳を突き出す。「だよな。行こうぜ、相棒」


 隣で、リリスがそっと袖を引く。

 紅い瞳が、僕だけを映す。


「命令を」


 僕は息を吸い、頷いた。「午後、無傷で勝つ。――それが、命令」


「かしこまりました」



 午後――実技対抗「複合召喚・模擬戦」。

 円形闘技場。立見席は満員、さきほどの騒ぎで野次馬が倍増している。

 観客席の上段には、騎士科の代表としてレオン・アルバート、術理監督にクレア・フォンティーヌ。そして特別審査員席には――学院長・セレスティア。


「第一試合、天城ユウト&従魔(※登録未完了)対、ベリル=シュタイン&火精!」


 審判の声に、ざわめき。

 対面のベリルは、肩に赤い火精を乗せ、ニヤついた。「天城。従魔登録もできてないって? 学則違反で失格だろ」


 審判が口を開く前に、セレスティアが軽く手を振った。「対等契約は“従魔”ではありません。登録は追って。今は暫定許可」


 ベリルが顔をしかめる。「ひいきだ!」


「危険があれば私が止める」セレスティアの微笑は淡く、それでいて絶対的。誰も逆らえない。


「開始!」


 火精が叫び、赤い矢がこちらに走る。

 僕はほつれを探す――矢の編み目、ここ。リリスの影翼に二本の折り返しを描く。リズムは短く、呼吸で合図。


「共鳴解放――第一段階」


 影が矢を包み、軌道を滑らせる。

 返す一手は最小限、相手の結界へ熱の空路を一度だけ通す。

 ベリルの火精が過熱し、思わず引く。

 観客が息を呑む。音が遅れて返ってくる。


「な、何だいまの――」「配線が短すぎるだろ」「いや、短いからこそ漏れがない……?」


「ユウト」上段からクレアの声。冷静な分析の響き。「最短式……でも、危うい。誤差が出たら自分が焼ける」


 僕は片手を振った。「大丈夫。見えているから」


 二合、三合。

 ベリルは次第に焦り、火精の炎が荒れる。そこに――闘技場の床を走る、微かなノイズ。

 観客席の陰で、誰かが陣に触れている。

(またか。午前の“切断”と、同じ手口――)


「リリス!」

「命令を」


「床のノイズを押さえろ。――敵を傷つけず、器具だけ止める」


「承知」


 影が薄く広がり、床のほつれを縫い、外部からの介入を噛み殺す。

 火精の炎が急に素直になり、ベリルが目を白黒させる。その隙を、僕は最小限の術で――氷の輪を相手の足元にひとつだけ。滑る、膝が落ちる、そして――


「そこまで!」


 審判の旗。

 勝敗は、あっけなかった。


 歓声と罵声が混じる。

 クレアは口を結んだまま、僅かに頷いた。

 レオンは手を叩きながら、僕だけに視線を送る。笑顔、だが目は仕事をしていた。


(見られている。――誰かは、僕とリリスを試している)



 夕暮れ、寮。

 臨時保護の名目で、男子寮の空き部屋に仮の二重結界が張られ、扉の外にはレオンが座っている。

 室内。狭い机、借りた本、薄いカーテン。

 リリスは窓辺に立ち、橙の光を背に髪を梳いていた。


「契約者さま」


「ユウトでいい。……その、ずっと“契約者さま”って呼ばれるの、落ち着かないから」


「では――ユウト」


 名前が、柔らかく宙に置かれる。胸に刺さって、抜けない。

 彼女は続けた。


「今日、三度。悪意の気配がありました。儀式室、闘技場、そして――この部屋の窓外」


 僕は息を呑む。「窓外?」


「はい。二刻ほど前から、黒羽の影が屋根の縁を往復。王都の傭兵の匂い。人間です」


 扉の向こうで、レオンが小さく咳払いをした。「内密に。明朝まで、学院の外には出ないでくれ」


「護衛のつもり?」僕は扉に問う。

「もちろん。――それと、言いにくいが」レオンは声を落とした。「王都が騒がしい。“魔王の娘が学院にいる”って噂が、もう流れてる。誰が流したのか、僕はまだ掴めてない」


(早すぎる。午前の暴走、午後の介入、そして流言。――仕組まれている)


 窓の外、風が一度だけ低く鳴いた。

 リリスがくるりと振り返り、僕の手を取る。手の甲の対等紋が、彼女の指先に応じて脈を打つ。


「ユウト。命令を」


 僕は短く考え、頷いた。


「――今夜は眠る。その代わり、窓の影を見張って。誰も傷つけないこと。顔だけ、覚えて」


「承知」


 リリスは微笑む。

 そして、ほんの小さな声で続けた。


「黒猫も、いつか拾いに行きましょうね」


 笑ってしまう。緊張の中の、変な約束。

 目を閉じる。疲れが一気に来る。

 眠りに落ちる直前、窓の向こうをかすめた影が、たしかに黒羽を広げていた。


 ――そして、夜が鳴った。

 黒猫より先に、世界のほうが鳴いた。


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