KENKA (quarrel)

夕暮れの道を、二人は並んで歩いていた。

 夏の空気はまだ熱を含んでいたが、風が少しだけ涼しさを運んできていた。


 角を曲がったとき、近所の女性が声をかけてきた。

「こんばんは。……体調、大丈夫ですか?」

 彼は少し照れたように笑い、肩をすくめる。

「ええ、まあ……なんとか」


 女性は目を細め、ほんの一瞬ためらってから言った。

「お一人暮らしだと何かと大変でしょう。よければ……私、今度ご飯を作りに行きましょうか?」


 その言葉に、彼は笑いながら首を振った。

「いえいえ、料理は彼女が作ってくれますから」

 自然に、横に立つニコを示してしまう。


 女性は一瞬だけ驚いたように瞬きし、それでも笑顔を残して去っていった。


静けさが戻った道を歩きながら、彼は自分の言葉を思い返し、ふと頬を赤らめる。

「……俺、今、“彼女”って言ったよな」

 隣を歩くニコは、無表情のまま。

 その沈黙が妙に気恥ずかしくて、彼は無理に話題を逸らすように言った。

「いい人だなぁ。すごく綺麗だし」


 そして、少し意地悪く笑う。

「……ひょっとして、君、嫉妬してるんじゃない?」


「私はロボットなので、“嫉妬”という感情は理解できません」


 即答する声に、彼は軽口のつもりが空回りしたのを悟る。

 胸の奥にちくりとした苛立ちが走り、思わず声を荒げてしまった。


「なんだよ、それ…。どうせ君には、俺の気持ちなんてわからないんだ!」


 空気が、途端に重く沈む。

 ニコは静かに視線を落とし、彼はすぐに後悔した。


「……ごめん。怒ってる?」

「怒っていません。私はロボットなので、“怒り”という感情は理解できませんから」


「やっぱ怒ってるじゃん!」


「どうせ私はロボットなので、“怒り”という感情は理解できませんから」


 その「どうせ」という言葉が、どこか人間臭くて、彼は言葉を失う。


「……どうしたら許してくれる?」


 少しの沈黙のあと、ニコは微かに首を傾げて言った。

「怒っていませんが……頭を撫でてくれるなら、許してあげてもいいです」


「なんだよ、それ……」

 赤面しながら、彼は手を伸ばし、そっとニコの頭に触れる。


 機械仕掛けの髪の感触は硬質で、人間のそれとはまるで違う。

 けれど、ニコはほんのわずかに口元を緩めた。


 笑ったのだと気づいたとき、彼も思わず吹き出してしまう。

 さっきまでの重さが、少しだけ嘘のように消えていった。


 夕暮れの街に、二人の笑い声が小さく混ざり合った。


 ――彼女。

 自分で口にしてしまったその言葉を、彼は胸の奥でそっと繰り返していた。

 不思議と、嫌ではなかった。

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