第28話 告白と消失
臨時政府発足から三日が経った。
街は表面上、平穏を取り戻していた。
市庁舎の玄関には新しい看板が掲げられ、入口には検問が設けられた。
通行証を持たぬ者は、理由を問わず追い返される。
庁舎前の広場には軍の放送車が停まり、定刻になると同じ放送が繰り返された。
《市民各位。街は秩序の下にあります。不要な噂や憶測に耳を貸さぬように》
その声は毎日、決まった時刻に響いた。
まるで時報のように。
人々は次第にそれを生活の一部として受け入れた。
だが、放送が途切れる一瞬――その“間”にだけ、誰もが沈黙の重さを感じていた。
まるで街全体が呼吸を止め、何かを待っているかのように。
◇
地下の記録室。
石田は机に広げた紙束の中から、一枚の写しを抜き取った。
“高梨供述書・改訂版”。
軍による「閲覧許可済」印が押されている。
だが、その文面は彼が知るものとは違っていた。
《利用された、とは書かれていなかった》
《沈黙を選ぶ》の一文も消えていた。
かわりに、印刷機の匂いがまだ残る紙面には、こう記されていた。
《混乱の責任は一部の文民官吏にある》
――改ざん。
石田の胸に冷たい怒りが走った。
自分たちの手で書いた真実が、構造の都合で書き換えられている。
その静かな怒りの中で、彼は一つの決意を固めた。
夜、彼は庁舎裏口から抜け出し、古い印刷所へ向かった。
停電で街は暗く、風の音だけが聞こえる。
印刷所の地下には、戦時中に使われていた手動式の輪転機が残っていた。
かつて工藤と共に記事を刷った場所だ。
石田はインクを探り、古びた型板に紙を挟む。
指が震えていた。
だが、手は止まらなかった。
《臨時政府発足の裏で、真実は改ざんされた。
市民よ、再び沈黙に従うな》
――その一文を、彼は印刷機に刻んだ。
ゴトン、と重い音が響く。
紙が一枚、また一枚と吐き出される。
それは夜の沈黙を破る、わずかな呼吸のようだった。
◇
翌朝。
街角の掲示板に、一枚の匿名ビラが貼られていた。
〈沈黙の設計図〉――そう題されたその紙は、誰の署名もなく、だが明らかに庁舎内部の情報を示していた。
ビラは瞬く間に広がり、軍の検問をすり抜けて各所に貼られた。
《監督官会議の議事録は、市民の沈黙を前提に作られている》
《沈黙を守る者は、真実を壊す》
人々の間でざわめきが戻り始めた。
市場では囁き声が交わされ、パン屋の裏では新聞紙の切れ端が手渡された。
軍は即座に調査を開始したが、出所は掴めなかった。
ウェイドは庁舎の執務室で、その報告書を受け取ると眉を寄せた。
「文体の特徴から、内部の者と見て間違いない」
秘書官が言う。
「誰だ」
「……石田、という名が浮上しています」
ウェイドの指が止まった。
彼の脳裏に、あの記録室での会話が蘇る。
――“沈黙を管理できると思いますか?”
沈黙の奥に、答えが潜んでいた。
◇
午後、庁舎の地下階。
工藤が姿を見せたのは、それが最後だった。
警備兵の記録によれば、彼は石田宛ての封筒を手にしていたという。
宛名のない封筒。中身は確認されていない。
そのまま裏口から出て行き、以後、行方不明。
杉原がその報告を受けたのは夜だった。
「自ら情報を持ち出した可能性があります」
秘書官の声は淡々としていた。
杉原は目を閉じ、長く息を吐いた。
「……彼がそんなことをするはずがない」
「ですが、ビラの文面は内部資料をもとにしています」
「だからこそ、彼ではない」
杉原は立ち上がり、窓の外を見た。
街は再び静かだった。
しかしその静けさは、昨日までの“服従の沈黙”とは違う。
何かが、見えない場所で動いている。
「石田を呼べ」
「行方が分かりません。昨夜から庁舎に戻っていません」
「……二人とも消えたのか」
杉原は机に手を置き、目を閉じた。
沈黙が、また形を変えて迫ってくる。
誰かが沈黙を破るたびに、別の誰かが消えていく。
まるでこの街そのものが、沈黙という構造を保つために
“言葉の持ち主”を一人ずつ吸い込んでいるようだった。
◇
夜更け。
ウェイドは監督官会議室に一人残っていた。
机の上には石田の机から押収された紙片が置かれている。
そこには手書きでこう記されていた。
《沈黙は制度化された瞬間に死ぬ。
それでも、誰かが記録を残さねばならない。
言葉が死んでも、沈黙は覚えている。》
ウェイドはその紙を指先でなぞり、低く呟いた。
「……彼は“観測者”ではなく、記録者だったのか」
部屋の奥、無線が小さく点滅した。
「報告です。市内西区で身元不明の遺体が――」
ウェイドは言葉を遮るようにスイッチを切った。
「聞きたくない」
その声は、かすかに震えていた。
◇
翌朝。
庁舎の正面玄関に、新しい掲示が貼り出された。
《市政臨時政府通達 第五号》
〈虚偽の情報を流布した者に対し、調査委員会を設置する〉
その下には、監督官ウェイドの署名と並んで、杉原市長の署名もあった。
報道は禁止された。
人々はその掲示を見上げながら、何も言わず立ち去った。
風が一枚の紙を剥がし、地面に落とす。
裏面には、誰かの走り書き。
《守るための嘘と、壊すための沈黙。
その境目に、人は立てるのか》
それが誰の手によるものか、誰も知らなかった。
だが、その一文だけが、灰の街で確かに“生きていた”。
夕刻。
杉原は庁舎の屋上に立ち、沈む太陽を見つめていた。
風が赤い光を巻き上げる。
彼の胸には、工藤の封筒が入っていた。
まだ開けていない。
――それを開けることは、もう真実を選ぶことになる。
そして今の彼には、もうその資格がなかった。
夜が落ちる。
港の方角で、通信塔の赤い灯がまた一度だけ瞬いた。
まるで街そのものが、沈黙の中で何かを記録しているように。
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