第27話 臨時政府の誕生

 夜が明けきらぬうちに、庁舎の外では再び整列の号令が響いていた。

 瓦礫の上を踏みしめる兵士たちの靴音が、まだ冷えた石畳に均等な律動を刻む。

 庁舎前広場には、昨夜の銃撃の痕がそのまま残っている。

 弾丸で砕けた外壁、倒れた標識、血の染みた石。

 それらを覆うように、灰が静かに降っていた。


 午前七時。

 「臨時市政監督官会議」――新しい統治体制の発足式が行われた。

 壇上には三つの旗。市章、軍政局旗、そして占領軍の星条旗。

 その下で、杉原市長は無言で立っていた。

 昨夜の衝突で数名の兵士と職員が負傷したことが報告されるが、

 ウェイドは表情を変えず、「事態は収束した」とだけ述べた。


 式は簡略に終わり、関係者が庁舎内に戻る。

 報道の記者は許可を得た者のみ。市民の傍聴は禁止。

 静まり返った階段を上りながら、杉原は小さく息を吐いた。

 「……これが、秩序の始まりか」

 隣を歩く秘書官が顔を伏せる。

 「市長、議決権は一時的に“留保”とのことです。あくまで形式上は――」

 「形式の中で、人は最もよく沈黙する」

 その声は誰にも聞かれぬよう、小さく宙に消えた。


 ◇


 新設された監督官会議室。

 分厚い遮音扉と、壁一面に貼られた軍の回線図。

 会議卓の中央には、録音禁止を示す赤いランプが灯っている。

 ウェイドが議長席に座り、手元の書面を広げた。

 「本日より、市政は軍政局の監督下に置かれる。

  ただし、市長は引き続き行政手続の象徴的地位を保つ」

 形式的な宣言のあと、通訳が淡々と英語を読み上げる。

 杉原はその声を聞きながら、書面の隅に目をやった。

 《発言および報告のすべては、監督官会議の承認を要す》。

 その一文を見つけた瞬間、心臓の奥で小さな音が鳴った。


 「発言の許可制、ですか」

 「確認と統制のためです」ウェイドが答える。

 「混乱期には、沈黙もまた行政の手段になりうる」

 「手段……」

 杉原の口元にかすかな笑みが浮かぶ。

 「沈黙が手段になる時点で、この街はもう生きてはいない」

 ウェイドはその言葉を無視したように、別の文書を差し出す。

 「放送局と新聞社の再開について。今後、すべての原稿は事前審査を受ける」

 「つまり、報道も許可制だ」

 「あなたの安全のためでもあります、市長」

 「安全と自由は同じ机に座れない」


 短い沈黙ののち、ウェイドは静かにペンを置いた。

 「……あなたの言葉は、相変わらず構造を拒む」

 「構造が人を作るのではない。人が構造を選ぶんだ」

 「だが、いま人は選ぶ力を持たない。だからこそ構造が必要なんです」

 言葉の応酬は、どちらも譲らぬまま空気を冷やした。


 ◇


 昼過ぎ。

 石田は庁舎地下の文書庫で、封印された日報を整理していた。

 昨夜の混乱で散乱した記録を復旧する作業だった。

 書類の山を前に、彼は一枚の白紙を見つめる。

 ――この空白を、何で埋める?

 筆を取る指が、途中で止まる。

 記録とは、沈黙を別の形で残す行為にすぎない。

 その思考の隙に、背後から声がした。

 「書くのをためらうな。何も書かないことほど危険な沈黙はない」

 振り向くと、ウェイドが立っていた。


 「監督官自ら記録室へ?」

 「確認したいだけです。昨夜の録音機はどうなりました?」

 「焼けました。中身も――もう再生できない」

 「そうですか」

 ウェイドはそれ以上何も言わず、棚に並ぶ紙束を見つめた。

 「あなたたちはよく書き残す。だが、書かれた言葉ほど脆いものはない」

 石田は小さく頷いた。

 「だから、書かない言葉を信じるようになる。沈黙のほうが長持ちする」

 ウェイドの視線が、彼の目を捉えた。

 「沈黙も、管理できると思いますか?」

 「もしそれが可能なら、この国はもっと早く滅んでいた」


 その会話を最後に、ウェイドは何も言わず立ち去った。

 残された空間に、録音機の焼け焦げた残骸が冷たく光っている。

 石田はふと机上の端に置かれた書類を見た。

 新しい公文書の雛形――表紙には「臨時政府行政命令第一号」と印字されている。

 そこに署名欄があり、すでにウェイドの名前が印字されていた。

 ――残るは、市長の署名だけ。


 ◇


 夕刻。

 市庁舎屋上から、煙が薄く立ちのぼっていた。

 工藤の姿はそこにはなかった。

 行方不明のまま、誰も彼の足跡を辿れずにいる。

 庁舎の外では、避難民の列が再び動き始めていた。

 沈黙の中で人々は順番を待ち、手渡される食料票に名前を記す。

 誰も声を荒げない。罵声も歓声もない。

 街は、音を失って呼吸だけで存在しているようだった。


 窓辺に立つ杉原は、その光景をじっと見つめていた。

 背後で秘書官が控えめに告げる。

 「市長、署名の時間です」

 杉原は机に向かい、差し出された命令書に目を落とした。

 紙は新しく、文字は整然としている。

 それなのに、そこに刻まれたのは沈黙の始まりそのものだった。


 「……この街はもう一度、言葉を奪われるのか」

 彼の声は誰にも届かない。

 窓の外、夕陽が沈み、港の赤い灯がまたひとつ点いた。

 杉原はペンを握り、ゆっくりと署名欄に線を引いた。

 筆跡は震えていた。だが、その震えこそがまだ人の痕跡だった。


 サインを終えた瞬間、廊下の拡声器から低い音が流れた。

 《本日をもって、市政臨時政府の権限が発効します。すべての発言・通達は監督官会議の認可を要する》

 無機質な声が繰り返す。

 庁舎の灯が順に消え、最後に議会室だけが残った。

 ウェイドがその部屋の中央に立ち、天井の明かりを見上げていた。

 「秩序は戻った」

 そう呟いた彼の声も、壁に吸い込まれるように消えた。


 そして夜。

 庁舎の屋上で、風が一枚の紙を舞い上げた。

 それは杉原の署名済みの命令書の写し。

 灰色の空を漂い、港の方角へと流れていく。

 そこには、震える筆跡でこう記されていた。

 《沈黙を守るための署名。――だが、沈黙は守られるためにあるのか?》


 街はその問いに答えず、ただ静かに夜を迎えた。

 そしてその沈黙が、翌朝にはと呼ばれるようになる。

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