2話 私のせいじゃないもんね
十二時前には中学から帰宅して、独りでお昼ご飯を食べた。パパは仕事で今日の夜も遅い。てか、毎日遅い。だから安心して、私は
美晴のことだけど。私は別にシねばいいとかは思っていない。ただ、私が居心地良くあるべき環境から遠ざけたいだけ。ターくんはいつだってそばに置いておきたい。だからできるだけ、美晴は遠くへ追いやりたいの。
美晴の見舞いは今日から一日空けて、明後日の約束になった。病院への手配は誘ったターくんが全部やってくれる。待ち合わせは午前十時十五分前に、病院がある最寄り駅の改札あたりで。駅からバスで十五分ほどのところにあるS大学附属病院が、美晴の入院先。大部屋じゃなくて、個室入院なんだって。
もしかして、けっこう重い病気なのかな?
着ていく服に悩むなあ。天気の週間予報は明後日も猛暑だから薄着は決定。できれば可愛い服にしたいけど、さすがに病気見舞いじゃ相応しくないか。そういうこと、ちゃんとわきまえとかないとね。
ターくんとのお出かけの約束で心が浮き立つおかげか、夏休みの宿題もけっこうはかどった。張り切って遅くまで勉強しちゃったその晩に。いつも見ていた主たちの夢の内容が、変わった――
§
蟲の糸で編まれた白い長衣を着せられ、蟲の羽根で織られたベッドの上に寝ているのは同じだった。違うのは、足元から奇妙な音が聞こえてくること。馴染みのある大きな気配が二つだけあった。体を起こした目の先では、二匹の蟲が頭を突き合わせながら蠢いていた。
せわしなくせわしなく、頭を揺すり体を震わせる。巨大な主のハエトリグモと、巨大な主のフタホシコオロギ。二つの頭の下からは、ぐちゃぐちゃ、ぱきぱき、ぴちゃぴちゃ、こきこき……湿った音が鳴り響く。ときおり〝リリィ、リリィ〟と澄んだ音色が混じった。悍ましい光景に流れる清涼な調べは、コオロギの奏でる羽音だ。
一緒に夢に現れていたデュビアはいない。私は知った。負けたんだ。二匹が残った。だから二匹は、食べている。敗者を。噛む音、舐める音、嚥下する音、啜る音が虚空を満たす。キチン質の外皮を食い破り、内側の柔らかい肉を噛みしめて、濃密な体液を飲み干し躰を潤す。淀み固まる呪いの澱を、二匹の蟲が分かちて――
目が覚めてベッドから起き上がると真っ直ぐに、私は蟲毒の瓶を確かめた。
やっぱり、夢の通り。デュビアの、ゴキブリの姿はどこにもない。クモとコオロギはさらに一回り大きくなって、二匹してガラス瓶の内側に張り付き、私のことをじっと見ている。主のゴキブリのものであった太い足の残骸がわずかばかり、ヘドロだまりに落ちていた。
「いよいよ二匹だけになったのね。聞いて。勝った方には、私から素敵な贈り物をしてあげる。必ずね。だから楽しみにして、がんばって」
愛しい蟲たちに囁きかける。ガラスの壁にへばりつく二匹の主は、贈り物と聞いたとたんに身を震わせた。きっと、うれしいのだろう。
リップサービスなんかじゃない。私、嘘はつかないから。どんな贈り物かも決めてある。彼らが欲しがるものは、だいたい見当がついていた。でもね、私があげる贈り物は、そんなものよりずっと良いものなの。
蟲毒瓶を押し入れに隠し、二階の私の部屋から一階のリビングに降りると、パパは仕事に出た後だった。この家に越してからずっと、ろくに顔を合わせてない。別にお互い嫌い合ってるわけじゃない。パパのことはいつだって、元気に仕事していっぱい稼いで来て欲しいと願ってる。どうせなら、これも蟲毒に願っちゃおうかな? だって私の願いは、私にとって居心地の良い世界を作ること、たったひとつなのだから。
§
家の用事を片づけ、宿題をやり、自分の食事の支度をし、明日着ていく服を選ぶ。あっという間に、夏の一日が過ぎ夜が訪れる。蟲毒の様子を確かめて願をかけ、蟲の夢を見て目覚めれば、お見舞いデートの当日だ。
部屋の掃除を簡単に済ませて、昨日選んだワンピースに着替えて家を後にする。服の色は結局、白にした。暗い色を選ぶとお葬式みたいだから、なるべく明るい色で靴や鞄も合わせた。日傘の内張りが黒くて気になるけど、こればかりは仕方がない。
ニ十分ほど下りの各駅停車に揺られて大学病院最寄りの駅で降りる。ターくんはもう、駅の南口の目の前にある病院行きのバス停あたりに立っていた。遠目に見ても匂い立ちそうなほど汗だくで、駅から出てくる私に向けて手を振っている。軽く手を振り返して日傘を差し、ターくんのそばへと歩く。
「ごめんね河野君、待たせちゃった?」
約束の時間通りだけど、一応気づかってみる。日傘もかしげてあげた。
「時間ぴったりだし、大丈夫。三崎さん、今日は一緒に来てくれてありがとう」
そう言って笑顔を見せるけど、傘の影が落ちるターくんの目はなぜか不安げ。そもそも、どういう関係でお見舞いに行くことにしたのだろ? 私はお気に入りの男の子に誘われたから着いて来ちゃったわけだけど。ターくんと美晴の関係って、そういえば良く知らないや。
それきり、会話らしい会話はないままだった。すぐに来た病院行きのバスに乗る。二人並んで座っても、ターくんは何も言わない。私は美晴のことで頭がいっぱいだったからつい、「美晴ちゃんの具合、どんなかなあ」と呟いてしまった。
話しかけたつもりはないのに、ターくんはちょっとビクっと反応して「心配?」と言って私の顔を覗き込む。
返事のかわりに、小さく頷く。もちろん心配している。蟲毒の効果がどれほど出ているのか、気になって仕方がないもの。
「優しいんだね」
そう一言だけ口にして、ターくんはまた黙り込んでしまった。もしかして、会話が苦手なタイプなのかなあ。
§
バスは病院の正面で停まった。バスを降りてすぐに、ターくんは美晴のお母さんに電話をした。病院のロビーで二人して待っていると、五分と経たずに四十代ぐらいの女性が現れて、真っ直ぐターくんに向かって歩いてきた。低くて、少し大きめ穴の開いた鼻の形が、美晴にそっくりな女性だ。
「武司君、久しぶりね。お友達の方も、えっと……」
「美晴さんのクラスメートの、
挨拶をしたけれど。もしかして、私のこと伝わってなかったのかな? 名前を告げても母親の反応は特に変わらない。どうやら、美晴がどういう態度で私に接しているのか、まったく知らないみたいだ。まあ、わざわざ友達イジメてますなんて家族に言わないか。
ターくんとおばさんは、なんだかずいぶん親しげだ。やっぱり、昔からの知り合いみたい。話に入れない私は、二人が歩く後ろから黙ってついていくだけだった。
三階の入院病棟へ上がるエレベーターの中でターくんは、「美晴ちゃん、具合は?」とようやく聞いた。なにそれ、〝美晴ちゃん〟て。学校じゃいっつも〝春日さん〟なのに。それなら私のことだって、せめて〝愛華ちゃん〟て呼んでよね。
「それが……」
美晴の母が返事をしかけたところで、エレベーターが止り扉が開いた。思いもかけないことが起きた。静かなはずの病棟の廊下に、女の叫び声が轟いたの。
「来るなあぁっ……来るなっ! 気持ち悪い……来ないで、やめて……っ!!」
エグい金切り声が廊下に鳴り響いてる。まったくおさまる気配がない。ここ、普通の入院病棟だよね。これじゃまるで、精神疾患の……。
叫び声を聞いた美晴の母親は、すっかり動転してた。柔和な笑みを顔から吹き飛ばし、「美晴っ」と言いざま駆けだそうとした。
あのケダモノみたいな声が、美晴? 声だけは割と可愛いはずなのに。呆気にとられる私の隣りで、ターくんも驚いたらしく身体を強張らせて棒立ちになっていた。
美晴の母も動けてない。急いで現れた看護師の女性に「ここにいてください」と止められたからだ。医者が看護師を何人か連れて、私たちの横を足早に通り過ぎた。個室のひとつに駆け込んでいく。きっと、美晴がいる部屋だろう。
母親を止めた看護師に連れられて、私たちは個室の手前にあるベンチに座った。絶え間ない女の叫びが耳を打つ。ベッドが軋む音まで聞こえる。「押さえて!」「鎮静剤を」との声が混じった。やがて何もかもが鎮まり、疲れ切った様子の医者たちが部屋から出てきた。
美晴の母親が立ち上がり、「美晴は」と詰め寄る。「落ち着いてください」と医師に諭され、小声で話し始めた。
「お大事に」とだけ残して、医者たちは去った。なんか、〝私たちも、やれることはやりました〟て、そんな雰囲気。
「武司君、入って。お友達の方も」
少しは落ち着いたらしい母親に促される。ようやく病室に入れた。静かに横たわる美晴の様子に……私は思わず漏れちゃいそうな声を押さえようと、自分の口を両手で塞いだ。隣りのターくんは、絶句してる。
まだ荒い呼吸を続ける美晴の姿は、異様だった。エジプトのミイラみたいに、全身を包帯で覆われている。顔の部分には両目と口、鼻の孔だけが覗いていた。白いはずの包帯は、うっすらと黄ばんで汚れている。きっと、膿が滲んでいるんだ。
「ときどき、発作を起こすの。訳の分からないことを口走って。ムシがムシがって」
涙ぐみながら、美晴の母親が教えてくれた。
「どんな病気なのか、お医者さんにも分からないの。最初はニキビを引っ搔いて、ばい菌が入ったのかと疑っていたのだけれど。あっという間に全身に広がって」
……すごい、すごいすごいすごい! 蟲毒は正真正銘本物だ! まさか、ここまで酷い有様になるだなんてっ! 興奮しすぎて、瞼が震えた。うっすらと涙が滲んで、一筋流れた。
ターくんはすっかり気落ちしているらしい。せっかくお見舞いに来たというのに、何も言えないままでいる。男の子なんだから、もうちょっとしっかりしてほしいなあ。筋トレ続けたら、精神も強くなるのかな?
「二学期からは元気に登校できるから、きっと」
最後にそう母親に言われて、私たちは病室を後にした。希望的観測てやつだ。二学期に美晴が登校できるなんて、怪しいに決まってる。だってこれから、蟲毒の効果はますます強くなるはずだもの。ターくんも彼女の言葉を信じてはいない様子。すっかり、打ちひしがれていた。でも……なんで?
§
病院を出て、帰りのバス停に行こうとしたところで、ターくんがようやく私に話しかけてきた。病院近くにある、公園の前だった。
「ごめん、少し休んでいきたい」
炎天下の公園のベンチで休みたいだなんて、正気かなあ。でも、仕方ないか。かろうじて日陰になってるベンチに、二人して腰かけた。日傘も差して、少し間抜けな休憩をする。公園に誰もいなくて良かった。
「保育園のころね、よくこの公園で遊んだんだ。美晴ちゃんと」
ようやく口にしてくれたのは、彼の思い出話だった。
「幼馴染なんだ、僕たち。同じ保育園に通って、それからずっと」
ああ、やっぱりね。
「河野君、好き……なの?」
一応、聞いてみた。たぶん、違うと知りながら。
「幼馴染ってだけさ。でも……」
言いながら、ターくんは涙ぐむ。
「あんな酷い病気になるなんて。頭まで……もっと優しくしてやればよかったんだ。でもそれは友達ってことで……」
んー、やっぱ美晴はターくんが好きなのか。でもなあ、幼馴染だからってなあ。
「河野君は悪くないよ、仕方ないもん。悪いことしたから
そうだよ。ターくんは悪くない。どこにも、悪い人なんていないの。誰かを好きになるのは、仕方がないの。私が相手なら、なおさらね。
「冷たくしちゃったんだ、美晴ちゃんに。だって仕方なかったんだ。僕は――」
うつむいてたターくんが、真っ直ぐ私に顔を向ける。端正な顔立ちは、汗と涙で濡れていた。
「武司くんは、悪く、ないよ」
吐息を混ぜて、囁きかける。ぴくりと
「ごめん、嫌だった?」
そんなわけないよね。聞きながら手はよけず、少し力を込めてやる。ターくんは何も言わず、
「私が、付いてるからね」
あなたはいつだって、私のそばにだけ居ればいいの。私の勇気づけに、涙に曇ったターくんの瞳が光を宿す。
あんな美晴を見たあとでは、さすがに食欲も湧かないだろう。今日は素直に、これでお開きにするしかないみたい。
「バス、もうすぐ来る時間だよ。今日はもう、帰ろうね」
ターくんの手を取り、軽く引っ張る。そのまま身体ごと引かれて、泣き虫の男の子は私に連れられ、一緒にバスに乗った。
ずっと押し黙ったままだった。学校では結構明るいの男の子なのに。でも、知らない彼の一面を見られて、ちょっと得した気もしてる。最寄りの駅での別れ際に、だんまり君はようやく口を利いてくれた。
「後で連絡してもいい?」――と言って、スマホを差し出してくる。
「いいよ、いつでも」
そういえば、まだちゃんと連絡先交換してなかったな。この学校で男の子と連絡先を交換するのは、ターくんが初めてだ。他の男子と交換する気はそもそも、まるでないけどね。私からのプレゼントを受け取って、彼はうれしそうにしたまま帰りの電車に乗って、去っていった。
§
その夜さっそく、携帯に彼からのメッセージが届いた。
[昼間はごめん
一緒に来てくれて、ありがとう
今度、どこか遊びに行かない?]
簡素な文面に、彼の気恥ずかしさが滲んでる。
[いいの? 私で]と書いて送信。すぐに返事が返ってきた。
[うん。愛華ちゃんが、いい]
よーし! いいぞいいぞ! なら、ここでもう一押し――
[私も嬉しい。よろしくね、ターくん]
言葉のかわりに、なんか馬鹿みたいに明るいキャラのスタンプが届いた。
その日からの夏休みは私のまだ短い人生の中で、一番充実して輝いたものになった。恋人同士で楽しいこといっぱいしたけど、気恥ずかしいから、教えてあげない。
ターくんは、美晴の話をしなくなった。良い。ちょっと無理してる気もするけどね。まあ、泣きだしたらまた慰めて、もっと私に溺れさせちゃえばいいだけだし。
それともうひとつ。大事なことが起きた。
主のフタホシコオロギが死んだの。夏休み最後の日、最後の一匹が決まったんだ。
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